第7話 タンジェンシー
一週間前に報道番組リポートステーションで、アステロイド商事の漏洩事件についてコメントをした井上昭一――柴山の後輩である鈴木アリサの祖父――が亡くなったという知らせは、慈道と柴山になんともいえぬ震撼を与えた。その高名な数論学者と二人は、実に二次ないし三次の隔たりでしかなかったのである。
「確か八十三だったよな。別に逢ったこともないけど、この前、テレビで生きている映像を見せつけられたばかりだから、なんとも淋しいな」
「ですね……」
「鈴木さん、なんだって?」
「ひとまず、今日は大学には来られないって旨のメッセージです」
「葬儀の手伝い等で一週間は来られないだろうな」
柴山は真剣な面持ちで、言葉を選びながら返信用のメッセージをタップしている。それを見て慈道は閃き、「おい! 柴山!」と叫んだ。
「びっくりした! どうしたんですか?」
「まだ返信はするな」
「なんでですか?」
「佐藤正宏の興味を示しそうなネタが分かったかもしれない」
名案を思いついたらしいが、心なしか慈道の表情はそこまで明るくない。
「本当ですか?」
「奴は公園で井上昭一のことを『井上先生』と呼んでいたのを覚えているか」
「あ、そういえば」
「リポステのあのVTRを見ていたとして、テロップに名前は表示されていたからとはいえ、井上昭一を知らない者が見たら『どこかの教授』くらいの呼び方をするんじゃないか」
柴山は二、三頷いてみせた。
「つまり、佐藤正宏は井上先生を前々から知っていて、しかも、先生をつけるくらいだからリスペクトしている可能性もある、と」
「そう思うね。奴は暗号理論についても詳しそうだし、接点はある」
「な、なるほど……」
「葬儀は身内だけでするのかな」
「さあ、どうでしょう」
「もし仮にニュースなどで大々的に報道されたら、傍受なんかせずとも佐藤のアンテナに引っかかることだろう。もしかしたら葬儀場にやってくるかもしれない。葬儀の規模がどれほどかは想像もつかないが、その場合、混雑して参列に来た佐藤を見つけるのは難しいかもしれない。しかし、いくら有名でも、年配の数学者が急死して大騒ぎになったニュースなんて聞かないよな。あったとしても、“葬儀は近親者の間で〇〇日に行われました”程度の事後報告がなされるくらいだろう」
「確かにそうかもしれませんね」
「これは井上昭一が亡くなったことを遺族が大っぴらにしないことを前提とした話だが、今から例のWi-Fiをわざと利用して、鈴木さんに尋ねるんだ。井上昭一のお通夜の日時と場所を。そしてそいつを奴にわざと傍受させれば……」
「近親者でしか行われない規模なのであれば、葬儀場に現れた佐藤正宏も見つけやすいってことですね!」
慈道は自信ありげに頷いた。
「でも……」
柴山の表情にも陰りが見える。
「作戦としてはありかも知れませんが、亡くなった方を出しに使っているみたいで、ちょっと気が引けるんですけど……」
「それは分かる。ただ井上昭一の名誉を汚すわけでもなんでもない。ただ、お通夜の日程を確認するだけだ。誰かがマイナスになるわけではない。強いていうならお前のスマホがウイルスに晒されるくらいか」
「それ、結構なマイナスじゃないですか?」
「どうするかはお前が決めろ。正直、俺は佐藤正宏を放っておいてもよいと思っているくらいだ。自殺しようとする女子高生を助けるくらいだからどちらかといえば善人に近い。しかし、悪い趣味も持っている。結局お前の気持ちが晴れる選択をすればいい」
「……わかりました。やってみます」
熟慮の末に柴山は答えを出した。
「そうか。だったら俺もお前の意思を尊重しよう」
その慈道の言葉に、柴山は僅かに微笑してみせた。
「それじゃあ、例のWi-Fiに繋ぎますよ?」
「どうぞ」
「えい!」
柴山は潔く怪しげな無料Wi-Fiスポットに接続した。
「ちなみにこの無料Wi-Fi、実は佐藤正宏とはまったく関係なくて、本当の悪徳業者と繋がっていたらどうしましょう」
「自己責任だろ、そんなのは」
「……なんか乗せられた感じがするんですが……」
「まあ、どうせ女子大生の持っている個人情報なんて大して役にも立たないだろう」
「それで、なんて返せばいいですかね?」
柴山は吹っ切れている。
「とりあえず、形式張った挨拶を一つ。そのあとに、『もしご迷惑でなければ、お通夜に参列したいのですが、日時や会場はもうお決まりですか?』とかじゃないの?」
「先輩にしては、ちゃんとした敬語使えてますね。意外」
「うるさいな。ところで、この手の傍受ってのは、受信メッセージもばれるものなのかな?」
「……どうでしょう。私にはさっぱりですよ」
「じゃあ、仮にお前のメッセージだけが傍受されると仮定して話を進める。例えば『葬儀はいつ?』と聞くだけじゃ、誰が亡くなったか伝わらないので、『井上先生の葬儀はいつ?』と聞くべきだろう」
「それってわざとらしくないですか? いかにも傍受してくれといわんばかりの内容で、警戒されますよ」
「むう、確かに」
慈道は頭をかいた。
「最初か最後に『井上先生のご冥福をお祈りします』なんてのを付け加えるのはどうでしょう」
「悪くないかもな」
「じゃあ、メッセージの案を考えてみるので先輩も見てください」
「間違っても絵文字とか使うなよ」
「分かってますよ!」
十分な思慮の上、最終的に柴山は次のようなメッセージをアリサに送信した。
本当? とても残念……お悔やみ申し上げます。もし迷惑でなければお通夜に参列したいのだけれど、日時と会場は決まってる? 忙しいと思うけど、よかったら教えて。この度は本当に御愁傷様です。井上先生のご冥福をお祈りします。
およそ五分後に、次のような返信が来た。
ありがとうございます。お通夜は明日の予定ですが、まだ斎場が決まっていないので、決まり次第すぐに連絡しますね。お昼にははっきりすると思います。
「ほう。丁寧な文だ。お前も後輩に慕われているみたいだな」
「私をどういう人間だと思っているんですか」
「エアーブレイカー」
「その呼び方、かなり傷ついたんでマジで止めてもらえますか?」
慈道は噴き出した。
「ウィンドブレーカーみたいで意外とセンスあると思うんだよ。最初に考えた奴」
「うるさいぞー」
とうとう柴山も面白くなさそうに睨みをきかせた。
「まあ落ち着け」
慈道は両手を出して怒りのアウラを押さえつける素振りをする。
「さて、昼には明らかになるということは、事務の人に注意喚起してもらうにももうしばらく待たなければってことになるな」
「ですね。ただ、想定した時間より早くできそうで、健闘してる方じゃないですか」
「まあ、お前もリスクを背負ってるしな。あと、俺たちが直接事務に掛け合うよりも
慈道は兜石准教授の研究室に所属している。慈道が慕うだけあって、それなりに個性は強い。もっとも、癖が強いのは数学科の教員全般にいえることではある。
「そうですね。説得力が違いますものね」
「それと一応、鈴木さんには適当な理由をつけてお前だけが通夜に出席するって返信しておけ」
「なるほど。さっき相当やりあいましたしね。その方が佐藤正宏も来やすそう」
「そもそも俺は鈴木さんと面識がないわけだから、その方が自然だもんな」
「了解です。でも、実際は来るんですよね?」
「まあ、おそらく」
「そしたら喪服が必要ですよね。先輩、スーツ持ってるんですか?」
「……持ってると思う?」
「ですよねえ。入学式の日はどうしたんですか?」
「都知事の話は興味がなかったからいっていない」
「そういえば、修論の発表会も私服でしたね」
「それはみんなそうだったろ。うちの数学科ってのはそんなもんだ」
「……ちなみにネクタイは持ってます?」
慈道は首を横に振った。
「ワイシャツは? ベルトは? 革靴は? ハンカチは?」
慈道は全てに首を横に振った。
「こりゃあかんわ……」
柴山は額に手を当てた。
「あ! 『よくわかる般若心経』なら持ってるぞ」
慈道は得意げにいう。
「それはいりません! やばいですよ。しめて十万円くらいは覚悟した方がいいかもしれませんよ」
「ちょっと待てよー。そんな金ねーぞ」
「でもDC1だから、月々二十万円もらってるんですよね」
慈道は特別研究員制度の恩恵を受けており、博士課程になってから研究費が支給されている身分である。
「まあね」
「それくらいだったらひねり出せますよね」
「喪服を買うために支給されているわけじゃないんだぞ。そもそも気持ちが大事なんだ気持ちが」
「まさか、その格好で……」
「やっぱダメかな?」
「阿呆らしくて突っ込む気も起きません」
「くそ参ったな。まあ、俺は遠目に見張って佐藤正宏を引っ捕らえることができればそれでいいから、私服でも……」
「明らかに不審者に思われますから! よし、だったら今日にでも礼服を買いに行きましょう!」
「礼服? スーツとは違うの?」
「一般常識がない人はこれだから……冠婚葬祭のときは礼服を着るのが常識です。学生だったらスーツでもいいと思いますけど、先輩の場合、どうせ就活もしないわけだから、今後のことを考えればどちらかというと礼服の方が必要になって来ることが多いと思うんですよ。例えば、兜石先生が結婚したときとかは、絶対礼服ですよ」
「でも明日お通夜だろ? それまでに仕立ててくれるの? 裾上げとかあるじゃん」
「事情を話して無理を言えばやってくれると思いますよ」
「あまり俺の都合で迷惑かけたくないんだけど」
「先輩って意外とそういう気配りがありますよね」
「そのさ、意外っていうのがいちいち癪に障るんだけど」
「あ、ごめんなさーい」
柴山は口元に手を当てて控え目に笑う。
「さっき言いましたよね。私の意思を尊重するって。だったら私の意思で動いてください」
「なんかその表現嫌だな。俺はお前の操り人形か」
「そんなつもりはありませんよー。でも頼りにしてますから!」
慈道は喜んでよいのやら、哀しんでよいのやら、どっちつかずの表情ある。
「ところで、兜石先生だが、あの人は結婚しないぞ」
「なんでそういい切れるんですか?」
「自分で言うのもなんだが、先生は俺と同じ部族だ」
「つまり先輩は結婚しないんですか?」
「基本的に」
「……基本的に結婚しないなんて表現ありませんよ。じゃあ、私が結婚することになったら先輩は来てくれないんですか?」
「お前も結婚はしないな」
「な、なんでですか」
柴山は少しむきになった。
「同じ種族だからさ」
「へ?」
訳の分からない展開になってきたが、あえて柴山は合わせてみる。
「ちなみに何族ですか? σ加法族っていうのはなしですよ」
ルベーグ積分で習う概念である。
「お前にしては面白い冗談だが、まさにそういうことを言える族のことだよ。今のギャグに誰がついて来られる? 誰も寄りつきゃしない。暗黒通信団の π^e 百万桁表の巻末にある『Q. 超越数ですか?』、『A. 分かりません』のやりとりにニヤッとできる俺たちが、普通の人とやっていけるとは到底思えない」
暗黒通信団は『円周率1000000桁表』、『素数150000個』などの著書を出版している同人サークルである。池袋のジュンク堂などでその著書を目にする人も多いだろう。ちなみに超越数とは、有理数係数である代数方程式の解になりえない数のことである。円周率 π やネイピア数 e (自然対数の底)は超越数であることが知られているが、代数方程式 x^2 − 2 = 0 の解である2の平方根は超越数ではない。 e^π が超越数であることも知られているが、よく引き合いに出される π^e が超越数であるかは未解決問題である。
「女性のミステリアスな部分に魅かれる男の人っているじゃないですかー」
柴山は力説する。
「なにを勘違いしているのか知らんが、ミステリアスと訳が分からないのは別の概念だぞ。お前は後者の方だ」
柴山は溜息をついた。
「……やっぱり、数学科の女って一般的には距離を置かれる存在なんでしょうか?」
「当たり前だろ。 1 + 1 = 2 よりも明らかなステートメントだ」
「なんとなく分かってはいたんですが、先輩に面と向かっていわれると凹みますね」
「真実に目を背けるな」
自分自身をよく理解している慈道は、先輩としてのある種の貫禄があった。
正午前にアリサからお通夜の日時と場所の連絡を受けたあと、二人は兜石准教授に怪しげなWi-Fiスポットのことを話した。物分かりのよい兜石准教授は事務に掛け合ってくれた。
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