第6話 No Pains, No Gains
けやき公園を後にした慈道と柴山は、大学の食堂にいた。片側に三席ある長机が等間隔に配置されている。給水機に最も近い長机に、二人は向かい合いに座っている。まだ二限が始まったばかりで昼食をとるにはまだ早すぎるので、セルフサービスの麦茶をカップに注いで一息入れているところである。この時間帯はまだ学生が少なく、主に教養科目をとる必要のない一部の三年生、四年生が早めに昼食をとるためにやってくる。
「先輩、おかしいですね」
「どうした?」
柴山はスマートフォンのアプリ
「誰に聞いても情報通信科の佐藤
慈道はなにかを言いたげだったがうまく呑み込んだ。それよりも新たな可能性を見出したようだった。
「やば! もしかしたら……あいつは大学の人間じゃないのかもしれないぞ」
「え? でも私たちのことをよく知っていたじゃないですか」
「だからさ、傍受だよ傍受。食堂とかに紛れ込んで、学生たちのやりとりを不正に取得しているとか。やつが咄嗟に家庭教師のエピソードを作れたのは、そういった会話を普段から傍受しているからかもしれんな」
「な、なるほどー。傍受説は大体の辻褄を合わせますね」
「そもそも佐藤正宏も本名かも疑わしい。佐藤なんて苗字はありきたりすぎるからな」
「大学の人間でないとなれば、もう私たちに逢うこともないから、適当に嘘をついてうまくやり過ごせばよかっただけ、ってことですか。悔しいですね」
「一本取ったと思っていたんだが、逆に取られていたようだ」
慈道は頭をかいた。
「あの場面でいきなりそれらしい話を作り出したり、相当切れる人間ですよねー」
「きっと真実を多分に含めているからそれっぽく聞こえるんだろう。なかなかの策士だ。案外、ガチでRSA暗号を復号してるのかもしれんぞ」
「でも、本当に他人のメッセージを傍受しているのだとしたら、社会的鉄槌を下さないといけませんよね。私たち学生のプライバシーが危ぶまれているわけですから!」
「とは言ってもなあ。情報機器を使いこなしてるようだし、純粋数学を専門としている俺たちじゃ分が悪いぞ。この際、ほっとけばいいんじゃないの?」
「でも凄く気持ち悪くありません? もし傍受されているとしたらメールもできませんよ」
「だったらしなければいい。少なくとも俺は二十五年間そのように暮らしてきて、支障は一切なかったぞ」
「先輩はそれでいいかも知れませんが、私はダメなんですー」
「そもそもやつはどうやって傍受しているんだろうな。復号以前に、まずは暗号化されたメッセージを手に入れないとダメなんだぞ」
「それなんですよねえ」
柴山は手掛かりを見つけるために、タブレッドのウェブブラウザを立ち上げた。
「あれ?」
「どうした?」
「大学のWi-Fiに繋がらないんですよ」
「つまりどういうこと?」
「大学に所属している人間なら学生でも職員でも申請すればインターネット回線が無料で使えるんですよ。それが使えなくなっているんです」
「……大学でトラブルってこと?」
「たまにありますよね。そういえば、先週大学からメールが来ていたのを忘れていました。メンテナンス作業があるから、今日の午前中いっぱいはWi-Fiが使えないっていってましたっけ」
「でも生協のワイファイが使えるって、向こうのテーブルの奴がいってるぜ」
慈道は自分の後ろ方向の、テーブルを二つ挟んで三つ目のテーブルに座るデニムのジャケットを着た若い男子学生の方を親指でさした。慈道は視力と聴力が抜きんでおり、聞き耳を立てて人間観察をする癖があった。
「生協のWi-Fi? 初耳ですね」
柴山はWi-Fiの設定を画面を見る。
「本当だ。なんかありますね。ネットワーク名が“C00P(FREE)”か……鍵マークがないですね」
「鍵マーク?」
「無料のWi-Fiでも、普通はパスワードが必要なことが多いんですよ。じゃないとどんな人でもがんがん使えちゃうじゃないですか。鍵マークが表示されていないということは、パスワードなしで誰でもネットができちゃうんです。あ、先輩じゃ無理ですけど……」
「なんか余計なこと言ってないか」
「いえいえ。それによく見たらこれ、シー、オー、オー、ピーじゃなくて、シー、ゼロ、ゼロ、ピーですよ。胡散臭さマックスですね」
「やっぱそういうのって裏があるの?」
「はい。“ただより高い物はない”の通り、こういうパスワードが必要のない無料Wi-Fiは悪質な業者が絡んでいることが多く、これを利用すると、ウイルスを仕込まれたり個人情報を盗まれたりする恐れがあるので、注意が必要なんですよ」
「おい。向こうのテーブルのやつ、『ラッキー』とかいって繋いでるぞ」
「え、本当ですか? これだから、情報リテラシーのない学生は……あ!」
柴山の頭上に電球が点いた。
「俺もちょっと思った」
「もしかして佐藤正宏
「いやでも、例の女子高生は大学の人間じゃないだろう」
「大学って割とセキュリティが甘いから、たまに一般の人も食事してますよね。あるいは南八王子駅とかでも同様に無料Wi-Fiスポットを設置する、みたいなことをしているのかもしれません。高校生だったらなおさら無料に食いつくと思いますし。ただ、今は高校でも情報の授業をやっているので、それくらいは教えているんじゃないかと思うんですけど……」
「あそこのやつは『ラッキー』って言ってたぞ。『ラッキー』って。とんだゆとり世代だな」
「まだまだ日本の情報教育は世界水準に達していませんね!」
「偉そうだな」
柴山は元々教職を希望している。現在三年生で、大学院に進むか教員採用試験の勉強をするかを本気で悩んでいるところである。ちなみに、数学科の教員免許を取得する場合、それに加えて適当な講義を履修すれば情報科の免許も同時に手に入れることができるので、大学側が積極的に進めてくることが多い。
「とりあえず彼だけにも辞めさせた方がよくありませんか」
「お前がいけよ。俺じゃうまく説明できる自信がまったくない」
「え、私がですか……?」
「元はと言えば、お前が撒いた種だ」
「撒いたのは佐藤正宏(仮名)じゃないですか」
「いずれにしろ、知ったからにはそれを見過ごすわけにはいかないだろう」
「そ、そうですけど……ここは大学の事務の人に掛け合って、注意喚起をしてもらうのがベストな選択ではないでしょうか!」
「まあ、無難な選択だな。だけど、即効性がない。こうしている間にも個人情報を盗まれたり、ウイルスに感染していく罪のない学生が増えていくことだろうな。それに二限が終わったら一気に学生が押し寄せてくるから、被害はとんでもないことに……」
慈道は遠い目をしていた。
「分かりましたよ!」
柴山はむきになって勢いよく立ち上がった。
「あ! やっぱり待て!」
慈道は突然声を大きくする。
「な、なんですか?」
「少し、先のことも考えよう」
「先のこと?」
「とりあえず座れ」
柴山は席に着いた。周りから見れば、柴山の行動はせわしない。
「どうやって佐藤正宏
「というと?」
「俺の見立てでは、奴はほんの出来心で学生たちのメッセージを傍受している。別に誰かを困らせてやろうなんて感情はない。ある種の人間観察だろう」
「先輩に似てますね」
「俺は飛び道具を使わないからな」
「使わないんじゃなくて使えない、ですよね」
「……頼むから俺のことはほっとけよ」
慈道は視線を絞って柴山を鋭く見つめる。
「失礼」
「さて、憶測ではあるが女子高生が自殺をほのめかすような発言をしたから全力で彼女を助けた。ということは、似たような状況を作り出せば、奴がまた現れる可能性は高い」
「じゃ、先輩、ホームから飛び降りてください」
「なんで俺が!」
「古くから言われてますよ。
「いいか。まずこの作戦を行うには、危険と分かって例の無料Wi-Fiを利用する必要がある。そして、傍受されることを前提にそれっぽい会話を行うわけだ」
「おお! スパイドラマみたいで面白いですね」
「しかし、ここで俺や柴山が態とらしいメッセージを送ったら、タイミング的に向こうも不審がるだろう」
「警戒するでしょうね。自分をおびき寄せるための罠かもって」
「また、今大学全体に注意喚起をしてしまうと、かえってその無料Wi-Fiを使っている方が不自然に見えてしまうので、作戦成功率が減る。ということは、このことはまだ黙っておく必要があるということだ。それを俺たちの良心が許すかどうかという議論が必要になる」
「大学のWi-Fiが使えないのは午前中いっぱいだから、学生が集まる昼休みまでにはギリギリ間に合いそうな気もしますが、メンテナンス作業がちょっとでも伸びたりとかしたら怖いですね」
「ああ。ただ、これまでの話のほとんど全てが俺たちの憶測だ。嘘つきの佐藤正宏(仮名)はなんらかの秘密を隠していることは間違いないだろうが、本当にその無料Wi-Fiスポットを用いて俺たちのメッセージを傍受しているかどうかは、正直未知数だ。確率的には五割、いや三割もないんじゃないかな」
「でも一パーセントでも可能性があるのなら、それを無視しないのが北斗神拳なんですよね」
「べ、別に俺はケンシロウじゃないからな」
「まあそれはそうと、佐藤正宏(仮名)の件は関係なしに、怪しげなWi-Fiスポットを使わないように一刻も早く注意喚起することは正しい行いですよね」
「その通りだな。結局、多少の犠牲を甘んじてでも俺たちがどの程度本気で佐藤正宏(仮名)をとっちめたいかの問題になる。ちなみに傍受説が正しいとなると、ずっと以前から多くの学生のスマホがやられているということにもなるので、今更注意喚起しても手遅れ感はある」
「期限を決めましょう。今日の夕方……いや、午後三時までに、佐藤正宏(仮名)を
「それが最善かもしれないな」
慈道は麦茶のカップを一口した。
「決まりですね。だったら急いで、佐藤正宏(仮名)が食いつきそうなネタを考えましょう」
「どうでもいいけど、
「え、いや……先輩にしてはノリがいいなと思いましたよ」
「いかんいかん。お前とも付き合いが長すぎて、俗っぽくなって来てしまった」
「出た出た。俺は周りとは違うんだ、アピール」
柴山は目を細めた。
「ふん。それにしても……赤の他人に自殺をほのめかす発言をしてくださいなんて言えないよな」
「他にもうちょっと穏やかなネタでおびき寄せる事はできないですかね?」
「例えば?」
「そうですねー。例えばうちの大学に向井
柴山はあどけない顔で両手を合わせた。
「え、宇宙飛行士の?」
「それは向井千秋。本当に知らないんですか? 人気の俳優ですよ」
「男優か」
「その表現はやめてもらえます?」
柴山の視線が少し厳しくなった。
「だったら阿部寛とかオダギリジョーの方が食いつきいいんじゃないか?」
「……それはどうですかね。そもそも佐藤正宏の趣味とかもまったく分かりませんよね」
「そうだなー。コンピューターには詳しいわけだから、ジョブスが来るらしいぞ! とかいったらどうだろう」
「ジョブスはもう亡くなってますよ」
「だったらビル・ゲイツとか?」
「絶対嘘ってばれますよね」
「意外と難しいもんだ。コンピューターと聞いてその二人しか名前が挙がらないくらいに素養がない」
「あ。ちょっと失礼」
柴山はスマートフォンの画面を見る。
「あ、アリサからですよ」
「おお! そういや、今日数学教えるっていってたよな」
ロシア人の血が混じっている鈴木アリサの名前を聞いて、慈道はようやく目が覚めたようだった。
「はい……」
一方で、柴山の顔色は深刻そうにみるみる変わってゆく。
「どうした?」
「……はい。この前話しましたよね。アリサのお祖父さんが井上昭一先生だって」
「ああ」
「今朝、亡くなったそうです……」
「え……」
慈道は眉間に皺を寄せて険しい顔をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます