第5話 ランダムリマーク

 白い高層マンションが並ぶ住宅街の一角にけやき公園はある。遊具は勿論のこと、ジョギングコースもある広めの公園で、近隣の老若男女に親しまれている。まだ十月の中旬であり、公園に植えられた銀杏いちょうの葉が紅く染まり始めるのはもう少し先のようである。鉄道や主要道路から離れたけやき公園の平日九時過ぎというこの時間帯は静まり返っており、ときに買い物やパートに出向く主婦や、ジョギングを楽しむお年寄りの足音が辛うじて聞こえてくる程度である。

 公園の入口からすぐのベンチに褐色肌の若い男は座っていた。ズボンの右袖をまくって膝をむき出しにし、擦りむいてできたであろう傷を覗かせている。汗もかいており、不満そうに息を吐き出して呼吸を整えている。柴山は男の前で両手を小さくすり合わせながら申し訳なさそうにしゅんとしている。

 柴山に追いかけ回された男はクロスバイクにまたがり住宅街の方へ逃げ込んだが、突き当たりに直面し、九十度のカーブを曲がり切れずに急ブレーキ。バランスを崩してアスファルトへ右膝からずっこける始末となったのである。

「おい!」

 慈道はらしからぬ剣幕で声を荒げた。

「せ、先輩。ごめんなさい」

 柴山は渋い顔をして片合掌をする。

「俺に謝ってどうする。さすがに今回は俺も擁護できん。下手したら裁判沙汰だ」「あーん、どうしよう……」

 柴山は泣きそうな声をもらす。

「とにかく、ほれ。絆創膏は中に入っている」

「ありがとうございます……」

 手提げを受け取った柴山は、絆創膏を手に取り、男の前で腰を落とした。

「アルコール消毒はいいのか? よく、昔の映画で一升瓶を口にしてプーってやるじゃん」

「……私は見たことありませんが、水道水でちゃんと洗ったからそれで十分です」

 慈道は辺りを見回し、公園の水道を確認した。

「本当にごめんなさい」

 柴山はそういって傷口に極力触れないように丁寧に絆創膏を貼った。

「すいませんね。うちの莫迦が追い回して。さぞかし恐ろしかったでしょう」

 柴山のすぐ横で見守っていた慈道は男に話しかける。

「女の人に追いかけられたのは生まれて初めてですよ」

 男の声は嫌に落ち着いており、聞き取りやすかった。

「ですよね。彼女、ちょっと頭おかしいんですよ。ねじが一本抜けているっていうか」

 そういうと慈道は男の隣に座った。柴山が黙るしかない状況で、慈道はいい機会だと思ってぼろくそに言った。

「ちゃんと後輩の教育をしてくださいよ。慈道先輩」

 慈道と柴山は目を丸くして互いに目線を合わせた。

「な、なんで俺を知っている?」

「そりゃ有名ですから。数学科の変人慈道弥七先輩」

 柴山が口に手を当てて噴き出しそうになっていたが、慈道が睨み付けるとすぐさま自粛する。

「と、その愉快な相棒、エアーブレイカー柴山明美さん」

「え、エアー?」

 意外な切り口に柴山も面を食らった。

「く、空気を壊す女か! こりゃあいい!」

 慈道は手を叩きながら弾けたように笑う。口答えのできない立場の柴山は両の唇を密着させて、面白くなさそうに慈道の瞳を注視する。

「し、失礼ですけど……多摩中央大の学生さんですか?」

 頃合いで、慈道の笑い声をさえぎり、柴山は無理やり本題に向かうべく切り出した。

「そう。情報通信科の三年、佐藤正宏まさひろだ」

「佐藤さん。この度は、えっと……このようなことになって本っ当に申し訳ございません」

 柴山は気をつけてして深くお辞儀をした。

「本当はただ、お話をしたかっただけなんです」

 佐藤は苦笑いをして軽く首を横に振るだけで言葉は発さない。自分も逃げ出した手前、なにかやましいことがあるのではないだろうか、慈道はそう考えている。

「なんでこんなことになったか……なんだけど」

 一応中立である慈道が口を開き始めた。

「君、昨日の女子高生自殺未遂事件に関係しているよね?」

「え?」

「柴山、あの写真」

「あ、はい。Bちゃんねるにこんな写真が……」

 柴山はタブレットの画面を見せた。例の女子高校生の腕を掴んでいる時の写真である。それを見ると佐藤は、首を斜めにして、大きくため息をついた。

「参ったなあ。いつもいくスタリの女性店員の目でなんとなく分かりましたよ。もうあそこにはいられないな」

「本当にさあ、電子機器の普及ってのはこれがあるから嫌なんだよ、プライバシーもありゃしない」

 慈道は眼光を鋭くさせて佐藤を攻め入るように苦言を呈した。

「まったく、その通りですね」

 佐藤は動じずに、まるで他人事のような物言いである。慈道は佐藤の言動に、芝居がかったものを感じていた。自分のことなのにそれほど関心のない、そういった印象を覚えたのである。

「で、うちの柴山が君に聞きたいことがあるって言うんだ」

 佐藤は清々しい顔で柴山の方を見上げる。

「え? あ……その……単刀直入に聞いていいですか? 先輩の名推理なんですけど」

「おい、“先輩の”は余計だ」

 慈道は小声で突っ込んだ。

「あなたは例の女子高生のメッセージのやり取りを傍受していたって言うんですよ。だから、あなたは彼女が自殺するのが分かっていた。違いますか?」

 佐藤はぷっと莫迦にしたような笑い方をする。

「メッセージの傍受? そんなの無理ですよ。一体どうやって?」

「さ、さあ。そこまでは……」

「いくら僕が情報通信科にいるとはいえ、人のメッセージを覗くなんてことは不可能ですよ。今のご時世、どんな通信をしようがメッセージは暗号化されて送られるんです。たとえデータを入手してもそれはデタラメな文字列になっているんです。それを復号するには、途方もない時間がかかるんですよ」

 暗号化された文を元に戻すことを復号という。

「復号ができた頃には世紀末になってますよ。数学科のお二方なら聞いたことありませんか? RSA暗号とか、楕円曲線暗号って」

「ああ」

 柴山が押されているので慈道が代わりに答えた。

「だったら無理だってことは分かるでしょ?」

「可能性は二つ。君が復号のための画期的なアルゴリズムを発見したか、たまたま復号できたか」

 佐藤は声を出して高笑いをした。

「君たちみたいなな数学科の学生だったら新しいアルゴリズムを発見できるかもしれないな。悪いけど僕の知っている知識は微分積分や線型代数と、高校生でも知っている合同式程度。僕にはできっこない。それにたまたまっていうのもねえ。素因数分解の実用的な確率的アルゴリズムがあればまだしも、当てずっぽでやるのもね。天文学的数字の微小な確率の話ですよ。僕が偶然自殺を発見する確率より低いんじゃないかな」

「公開鍵の設定の仕方によっては、短時間で秘密鍵を割り出すことがあるらしいからな。この前も一流商社でメールが復号されたっていうし」

「アステロイド商事のことかな。井上先生も見抜いていたが、あそこはセキュリティアップデートをせずに古いバージョンの鍵生成プログラムが使われ続けていただけさ。君たちが使っているであろう EVIRAエビラ を始めとした今時のメッセージアプリはちゃんとしたSSLが使われているから、復号は不可能だ」

「あたかも復号を試してみたかのような言いぶりだね」

「どうとらえてもらおうが結構」

 慈道の煽りにも佐藤は一貫して動じていない。

「それじゃあ、どうやって君はあの女子高生が自殺するって分かったんだ?」

 しばらく無言の状態が続いた。そして、佐藤は苦しそうに少しうつむいて語り出した。

「……教え子だったんですよ」

「え?」

 初めて感情的な一面を見せる佐藤に慈道と柴山は驚く。

「彼女は、僕の教え子だったんです。家庭教師のアルバイトで知り合った仲なんですよ。そして恋愛関係に発展しそうになった。だけどちょっとした行き違いがあって、向こうが凄く傷ついてしまって……僕を困らそうとして、あんなことをしたんです。彼女は元々高校で虐められていたんです。だから、学校も休みがちで……だけど大学に進学はしたいからって、家庭教師を雇ったんです。それがたまたま僕だった。僕も彼女の支えになろうと思って、尽くしてあげようと思ったけど、恋人以上の関係にはなれなかった。あくまで、教師と生徒の関係としか思えなかったんです。それで、あまりにも彼女がしつこいので、酷いことを言ってしまったんですよ。最終的には僕の顔なんか見たくないなんて邪険に扱うようになりました」

「じゃあ、メッセージの相手は君か?」

「それ以外にありますか? でなきゃ彼女があそこで自殺をはかるなんて分かりっこないでしょ?」

 佐藤は激昂して唾を飛ばしながら力任せに言葉を吐く。すると慈道は、難しい顔をしながら深く息を吸い込んで、呟くように「……自殺に追い込んだのは君ということになるな」といった。

「ちょっと、先輩……」

 コミュニケーションに難のある慈道らしい発言に沈黙を守っていた柴山もついに声を出す。

「さすが慈道先輩だ。普通の人間であれば言えないことを言う。確かに君の言う通りだ。しかし、結果的に彼女を救ったんだ。けじめはとりましたよ」

 いつ爆弾が爆発してもおかしくない。柴山は佐藤の表情を伺いながら、なにかを案じているようだった。

「彼女の名前は? フルネームかつ漢字で教えてくれ」

 柴山の心配をよそに、慈道は逆撫でするような発言を続ける。

「いえませんよ。彼女の写真はネット上に公開されてしまっている。これ以上個人情報を、それも君みたいな人たちに明かすわけにはいきません」

 佐藤は淡々と答えた。

「それは君が作り話をしていて、本当の名前を知らないからじゃないのかい?」

 佐藤は鼻で笑った。

「分かってはいたが、君はとんでもなく無礼な人間だな。道理で友達が少ないわけだ」

「言っておくが、実はもう彼女の名前は特定されているんだ」

「え……」

 佐藤の時間は止まりかけた。柴山は黙ったまま眉間に皺を寄せる。

「さっき掲示板で見たんだ。Bちゃんねらーの情報収集能力は恐ろしい。もしかしたらもう住所も割れているかもしれない」

「嘘……」

 佐藤は口元を掌で覆う。

「本当だよ。市川慶子さんだろ? 八王子市の市に多摩川の川、徳川慶喜の慶に子どもの子だ」

「……け、慶子……ごめんよ。僕がもっと早く駆けつけていればこんな大ごとにならずに済んだのに……」

 佐藤は地面に因縁をつけるようにして俯き、拳を握って震え始めた。

「佐藤さんのせいじゃありませんよ。結果的にあんなことになって多くの人々の目に触れることになってしまいましたけど、佐藤さんは尊い命を救ったんです。家族の方もきっと感謝しています」

 柴山が優しく励ました。

「もう放っておいてください」

 佐藤は俯いたまま頭を抱え始めた。

「あんまり僕のことを詮索すると大学の事務に訴えますよ。数学科の妙な二人が、僕を追い回した挙句、怪我まで負わせて、言いたくないことを言わされた、と」

「そ、そんな……佐藤さん。今日は本当にご免なさい。先輩もほら、謝って!」

「なにを?」

「だから、メッセージを傍受したとかかんとかーって、濡れ衣を着せちゃったじゃないですか」

「最初はお前も俺の説に賛同していたじゃないかよ」

「それはその……」

「お前だけ良い人ぶるなよー」

「だ、だから、間違いは素直に認めないと!」

 慈道は目と口を閉じて首を明後日の方に向けた。

「ああもう、このコミュ障!」

 柴山も苛立ち始めた。

 慈道は小心者で自分のミスは素直に認める性格のはずである。もっといえば、身内が身内以外の人間を負傷させたということもあって、本来であればもう少し丁重に取り払うはずである。

「もういい!」

 堪忍袋の尾が切れた佐藤はついに立ち上がる。

「柴山さんに免じて許すよ。慈道さん、君はよほどの変わり者だから、謝ってほしいなんて思わない。だけどもう僕に関わらないでくれるかな」

「……まあ、俺も関わる気はないけど」

「ふ。おかげで二限の講義に間に合うかどうか……それにしても数学科はよほど暇な学科らしいね。いい迷惑だ」

 佐藤はクロスバイクにまたがり、ギアチェンジの不具合がないかを確認しながらゆっくり公園を去っていった。心なしか急いでいるようには見えなかった。

「はあ、なんてことしてくれたんですか……」

 柴山はベンチに座ってため息混じりにいった。

「お前も怪我させただろうが」

「だからそこは誠心誠意謝ったつもりですよ。問題は先輩のあの態度です。らしくないじゃないですか。先輩は良くも悪くも正直で素直な人だと思ってました」

「そうかな」

 柴山はどうしようもなくなって、再びため息をこぼして頬杖をついた。

「なんか悪いことしちゃいましたね」

「なんで?」

「なんでって、言いがかりをつけちゃったじゃないですか」

「いや、あいつは嘘をついてる」

「え?」

 柴山は顔を慈道の方に向けた。

「それらしい話をされたからといって勢いに負けるなよ。大体本当に奴のいう通りだったら、自殺を助けた後にその場から消えるわけないだろ。それに市川慶子なんて人物は存在しない。俺がでっちあげたんだ。そしてやつは俺に合わせた」

「まじ?」

 慈道はベンチから立ち上がって、ズボンのポケットに手を突っ込み、佐藤が消えていった方角を見た。

「あの女子高生の名前が本当に市川慶子である確率もまた限りなくゼロに近いだろう。つまり、あいつが家庭教師で知り合いだなんて真っ赤な嘘さ」

「せ、先輩……いつからそんなに機転が効くようになったんですか?」

「多分、朝早いからだと思う」

「朝早いっていっても結構時間経ってると思いますけど……あ! 朝ご飯を食べたからじゃないですか?」

 柴山がいつもの調子で茶化し始めた。

「知らないよ」

「ちなみに市川慶子って咄嗟に思いついたんですか?」

「まあな。俺の好きな女子アナの名前を組み合わせただけだ」

「……伊賀ちゃんだけじゃないんですね」

 柴山は優れた洞察力を持ち合わせながらも、合間にちょくちょく挟んでくる慈道の遊び心が嫌いではなかった。

「もしですよ。佐藤さんの言ってたことがすべて真実だったとしたら先輩どうします?」

「その時は……」

 慈道はくるりと柴山の方を向いた。

「土下座して謝るしかないだろ……」

 柴山は満足そうに笑った。

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