第3話 予見者

 通勤ラッシュのほとぼりが冷めた午前九時過ぎのことである。褐色肌の若い男が息を切らせながら改札口を通過し、天井に吊るされた上りと下り両方の電光掲示板を見て舌打ちをする。男は黒縁眼鏡をしており、中央のブリッジ――左右のレンズを繋いでいる部分――を中指で押してよりフォーカスを当てたのは、あと一分で発車する上り電車、新宿行きの方であった。彫りの深い顔立ちで鋭い眼力をもった男は、途方にくれて弱々しい目を一瞬だけ見せたが、唸り声をあげて上り方面の一番線ホームへ通づる階段を、三段飛ばしで駆け下りる。

 ホームの前方側――新宿側――に着いた男は「莫迦! 普通反対側だろうが!」と自分自身をこきおろし、方向転換をしてホームの後方へ客を避けながら走る。無作為に立っている客が障害物になっており、全速力で走ることができずにやきもきしているのが、男の険しい表情から読み取れる。

 男は時折、スマートフォンの画面を確認しつつ、電車を待つ者たちの姿を伺いながら――なにかの選別をしているかのように――どんどん進む。主に、黄色い線ぎりぎりの所で待つ乗客を注視しているようであった。この時間帯は、学生服やスーツを着ている者はめっきり少ない。若者や主婦、年配の人が目立つ。

「やばい」

 男がそう呟いたのは、彼の網膜に十一両編成の座席指定制列車「十王プライムライナー」の先頭車両が刻まれたからであった。そしてその数十メートル手前に、黄色い線ぎりぎりの所でスマートフォンを右手で操作しながら電車を待つ女子高校生の姿を確認する。周りの人間が背中を丸めてスマートフォンやタブレットの画面を八つ裂きにするように夢中でタップしているのに対し、その女子高校生は姿勢正しくやけに落ち着き払った態度で操作をしており、どこか悟りに満ちたような印象を与えているように見える。しかし、それは取り繕っているだけであり、目を凝らして観るとその異常性に気付く。スマートフォンをゆっくりタップするその指は震えていた。

 他にも腑に落ちない点が二、三ある。現在、普通の高校であればとっくに朝のホームルームが終わり一限が始まっている時間帯であること。今、目前に来ている十王プライムライナーは専用の券がなくては乗れない電車で、普通の女子高校生が通学に利用するものではないということ。そして、とりわけ際立つのが女子高校生の放つ気が異質であること。アウラが違っているのだ。しかし、それは暖色系の希望に満ちた生の波動ではない。蒼白く冷ややかな死の波動、デストルドーである。

「いた……!」

 女子高校生を視界に捉えた男はまばらに並んでいる客を、体をひねりながらかわしつつギアを上げて彼女の方へ近づこうとする。しかし、男にロックオンされたことに気づいたのか、恐ろしいことに女子高校生は逃げるように黄色い線をゆっくり越え始める。周りの者たちは自分の画面に取り憑かれておりその異常行動に気付いていない。イヤフォンやヘッドフォンをして完全に閉塞世界に引きこもっている者も多い。磁石のように女子高校生が先頭車両に吸い寄せられていくのに、褐色肌のその男だけが気付いていた。

 あと一秒遅かったら間に合わなかったかもしれない。最後の最後で男は歯を食いしばりながら女子高校生の左腕を思いっきり掴んで引き戻した。女子高校生のロングヘアーが放射状に広がり、反動で右手に持っていたスマートフォンが代わりに十王プライムライナーの餌食となった。

 女子高校生は左腕を掴まれたまま腰が砕け、その場に座り込んだ。ようやく周りの者も興味を示し始めた。アプリに夢中になっていた者たちはシームレスに撮影をし始める。女子高校生のロングヘアーが顔を隠してその表情を伺うことができなかったが、蒼白かったアウラはすっかり透明になっていた。時間が停止しているようでもある。もう向こう側の世界へ到達したものと錯覚をしているのかもしれない。

 死肉をむさぼろうとするハイエナのごとく遠方からも野次馬が群がってきた。電子レンジで乱れた電磁波を受信するラジオのようにノイズが混沌としている。

 男の眼鏡のレンズは曇っており、息は荒く呼吸を整えるのが精一杯らしい。言葉は一切発さなかった。女子高校生を掴んでいる手は発汗しており、血管が浮き出ている。細身の女子高校生の腕にたとえあざができようと、死んでも離してはいけない、そういった思いが伝わってくる。

 車掌や駅員がハイエナをかき分けながら姿を現し、女子高校生の自殺事件は未遂に終わった。どこからか現れた褐色肌の英雄は、人混みに紛れて姿を消していた。憎い演出だが、不可解でもある。なぜ男は女子高校生が飛び降りようとしたことを知っていたのだろうか。

 この事件がテレビで報道されることはなかったが、大型掲示板サイトBちゃんねるでは話題になっていた。

「今日、南八王子駅午前九時十五分発新宿行きの列車で、人身事故未遂発生。二十代と思われる男性が突如現れて飛び込もうとする女子高校生の腕を掴んで間一髪でした。あっぱれ」

「 > > 1 スレ立て乙」

「 > > 1 ζ」

「俺も見た。あれやばかった」

「スマホの残骸が飛び散ってたね」

「どこ高?」

「あの制服は、多摩女だね」

「女子高じゃん。やっぱいじめ?」

「でしょうね」

「黒髪のロングヘアーの娘で、こう言っちゃなんだが、可愛いかったよ」

「男の方は?」

「中肉中背で黒縁眼鏡してたな。色黒だった。時間帯的に大学生かな」

「南八王子ってことは、多摩中央大?」

「どうだろ。あの地域は大学たくさんあるからねえ。人混みに紛れてどっかに消えちゃったらしいよ」

「普通、事情聴取とかされるよね。ヒーローなんだからいればよかったのに」

「なんかやましいことやってたんじゃない?」

「いなくなる前になんかぶつぶついってた。歯車が狂ったとかなんとか」

「なにそれ」

「本当は助ける気がなかったとか?」

「そもそも男はホームの反対側から血相を変えて走ってきたらしい。なんで、飛び降りるって分かったんかな」

「エスパー?」

「写真アップしまーす。一応目線は入れてある」

 野次馬が撮った写真がアップロードされた。ちょうど、女子高校生の腰が砕けた状態で、男が腕をまだ掴んでいるときの写真である。女子高校生は前髪で顔が分からず、男の顔は真横からのアングルになっており、目の部分が黒く塗り潰されていた。

「お、いい男。身長は百七十から七十五くらいかな」

「うわ、よく撮ったね」

「俺以外に何人も撮ってたよ」

「この人、よく駅前のスタリにいるような……」

「スタリ?」

「スターリングスコーヒーのこと」

「ああ、南八王子駅にあったな」

「あそこの店員可愛いんだよな」

「ちょっと張ってみるか」

「そっとしておいてやんなよ」

「でもなんですぐにいなくなったのか気になるよね」

「きっと事故を阻止すべく未来からやってきたタイムパトロールなんだよ。素性を知られるわけにはいかないのさ」

「もう今の時空にはいないってこと?」

「恐らく」

「じゃあ、探すのは無理だな……」

「お前ら、なにマジになってんだ。もう十月なのに頭沸いてるな」

「詮索してる暇があったら働け。いっとくが今は平日の昼下がりだぞ」

「ブーメラン乙」

「もう卒研も内定式も終わってますがなにか?」

「おめでとう! 君も来年から社畜の仲間入りだね」

「ところで探さない方がいいってはぐらかそうとするのは、もしや本人?」

「本人きたー?」

「キタ――(゚∀゚)――!」

「違うわ!」

 しばらくBちゃんねるでは小さなお祭りが続いていた。そして、アップロードされた写真と共にこのニュースはTwitter上でも話題となり、多くの人目に触れることになった。そして、地元で起こったこのニュースを、軽度のインターネット依存症で好奇心旺盛な柴山明美のセンサーは逃さなかった。事件のあった南八王子駅は、慈道と柴山が通う多摩中央大学の最寄り駅であった。

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