第2話 ワンウェイ

 二人の若い男女がソファーに座って、テーブルの上にある外付けDVDドライブが接続されたノートパソコンの画面を眺めていた。映画を観ていたらしい。スタッフロールと山下達郎が流れている。ノートパソコンの周りにはグラスが二つ置いてあり、それを取り囲むようにスナック菓子などの袋が散乱している。

 無精髭を生やした男の方は足を組みながら、頬杖をついた状態で難しそうな顔をしていた。素足である。茶髪のすらっとした体型の女性は体操座りをした状態で、横目で男の表情を伺う。三人掛けのソファーには、真ん中にあと一人座れそうである。

「あの磯山君は……」

  慈道じどう弥七やしちが口を開いた。

「小磯です。小磯健二君」

 すかさず柴山しばやま明美あけみが間違いを訂正する。

「そう、その、健二君は本当にRSA暗号を紙と鉛筆だけで解けるのか」

 二人は人気アニメ映画『サマーウォーズ』を観ていた。

「わりと冒頭の方で、健二君が“Shorの因数分解のアルゴリズム”っていう見出しの数学記事を読んでいましたよね。あれは量子コンピューターを想定とした素因数分解アルゴリズムらしいですよ」

 インターネットを用いて即興で調べたのだろうが、柴山は得意げに話す。

「そういやそんなシーンがあったな。つまり彼は量子コンピューターと同等の計算ができる、ということか」

「恐らく」

「大したものだ。なんで数学オリンピックに出場できなかったんだ?」

「それは色々な人が突っ込んでますけど、まあ、そういう設定なんで。機械的な計算は恐ろしく速くても発想力が乏しい、なんて設定かもしれませんね」

「なんてことを。全国の健二君ファンに言いつけるぞ」

の話ですけどね」

 柴山は含みのある口調で微笑した。

「ふん」

 慈道はつまらなそうなに、チー鱈に手をかけた。

 慈道は生まれつきの根暗な性格と珍しい名前があいまって、しばしばいじめられながら思春期を乗り越えてきたので、極度の閉鎖的な人間として育った。運動神経はなきに等しいが、勉強はそれなりにできたので、難なく大学受験は成功した。紙と鉛筆があればどこでもできるシンプルさに惹かれ、修羅の道ではあるが理学部数学科に籍をおいた。いざ地元茨城を離れ、東京へやってきて心機一転をはかろうとした慈道は、数学科の後輩である柴山と出逢うことによって、ようやくまともにコミュニケーションをとれるようになってきたのだが、まだ完全ではない。人見知りをする性格で、世間に対する不満や愚痴――本人は客観視によって得られた理にかなったアドバイスとよんでいる――をこぼすのだが、それを言う相手は柴山一人しかいない。

「最近のアニメも捨てたものではないでしょ。このサマーウォーズも大ヒットしたんですよ」

「それを十月に観せるとはさすが柴山だ」

「細かいことは気にしなーい」

「まあ、たまに観るのも悪くないな。アニメ映画なんて久しぶりだ」

「前に観たのはなんですか?」

「もののけ姫」

 慈道は即答した。

「千と千尋は?」

「え? セントチ……?」

「ああ、やっぱりいいです」

 柴山は話が通じそうにないと判断した。アニメと聞いて慈道が連想するのは、北斗の拳やドラゴンボールの類である。

「どうしました?」

 慈道はきょろきょろと辺りを見回している。

「今、何時?」

 柴山はベッドの上に無造作に転がっている丸みを帯びた小さな目覚まし時計を見た。

「十時十分ですね」

「いけね。おい、ニュースつけろ」

「はいはい」

 柴山はノートパソコンを閉じて、テレビのリモコンを手にした。

 そこは数学科に在籍する大学三年生、柴山明美のワンルームであった。白を基調として、らしくないというか当然というか、そこまで飾り気のある部屋ではなかった。本棚には女子マラソンの金メダリストである高橋尚子の著書や、ヨガ・ストレッチの本、そしてカバーの傷みが激しい数学書が詰まっている。

「まだ地デジ買ってないんですよね」

「ああ」

 これまで何度もあったやりとりである。最近は「まだ買ってないんですか」から「まだ買ってないんですよね」に変わった。慈道は、数学に対しては極めて真摯な態度を見せるが、それ以外のことに関してはかなりいい加減である。上京した際、実家からブラウン管のテレビを送ってもらっており、当初はデジアナ変換によって難を凌いでいたが、今年の四月にいよいよサービスは終了。本人のがさつな性格ゆえに、「映らないのなら観なければいい」くらいに片付けられ、テレビが新調される気配はまるでなかった。どうしても観たい番組がある場合は、柴山の自宅に押しかけるという手段をとっている。客観的に考えて、慈道がテレビを買わないのは年頃の女性である柴山の家を訪ねるための口実ともとれるが、ある意味で慈道は純粋なために、本当に番組を観るためだけにやって来るのである。以前、クリスマスイブの夕方に『丸秘超常現象スペシャル』というU.F.O.やエイリアンなどを特集するバライエティ番組を観にやってきたことがある。当然その後、二人になにかしらの接触があると神ですら予見していたが、番組が終わった途端に何食わぬ顔で慈道は去っていった。因果の法則から脱却している人間――仏教では仏陀ともいう――それが慈道弥七である。

「一週間に一回はこれを観ないと調子が狂う」

 慈道は曲がった背筋を伸ばす。

 ニュース番組、リポートステーションが始まっていた。慈道お墨付きの女子アナウンサー、伊賀なつみがサブキャスターを務めているのである。

「なんだ。どこぞの企業で情報漏洩か」

 慈道は柿ピーをつまみながら言った。

「へえ。アステロイド商事っていったら一流商社じゃないですか」

 二人は伊賀アナウンサーが読み上げるニュースに耳を傾けた。

「アステロイド商事は会見を開き、通信に用いる暗号方式に欠陥がみつかり、アステロイド商事宛てに発信された一部の暗号化された電子メールが流出・解読されたとものと説明しています」

「暗号方式に欠陥が見つかったって……もしや、ちょうど今やってたRSAかな」

 慈道は目を光らせた。

「かもしれませんね。リアル小磯君誕生ですかね」

 二人は数学科の学生らしい興味を示していた。 テレビの映像は、年配の数学者のVTRに切り替わる。

「あ、井上昭一だ」

「知ってるんですか」

「そりゃ、有名だからな」

「なんだか顔色悪そうですね」

 ハリネズミのように短く逆立った白髪とは対照的な、目の下にできた黒い隈が貫禄と年の功を感じさせる。

「研究で忙しいんじゃないの?」

「この年齢でですか?」

 テロップには(八十三)とある。

「田原総一朗は『朝まで生テレビ』放送中に死にたいって言ってるくらいだ。この世代の人たちは我々とは仕事に対する熱意が違う」

「碌に働いたこともないくせに評論家ぶってますねー」

 接客業が到底無理な慈道は治験のアルバイトが専門であった。

「ちょと静かに」

 慈道は短く言って、VTRに集中する。

 井上昭一の映像は多少嗄れた声でこう言った。

「六百桁以上の巨大な数 n が 2 つの素数の積 a × b の形に表せるとして、 n だけを知っている人がその a、 b を突き止めるのはとても難しいのです。スーパーコンピューターを用いても途方もない時間がかかります。この困難さを利用したのがRSA暗号です。ただし、片方が極端に小さな数だったり、 a、 b が非常に近い数だった場合は簡単に分かってしまいます。今回は後者の方だったようですね。このように、 a、 b をどのように設定するかで安全性が失われる可能性があるので、エンジニアの方は十分な知識をもってセキュリティ事業に勤しむ必要があります」

「普通は p、 q とするけど、テレビ向けに a、 b としてるな」

「でしょうね」

「ちょっと引っかかるんだが、RSA暗号って、井上昭一のいうように a、 b の取り方によっては危ないというだけであって、さっき伊賀ちゃんが読み上げたような暗号方式の欠陥ではないよな」

「そうですね。テレビ局の人も専門じゃないから……」

「おのれ、伊賀ちゃんに間違った報道文を読ませやがって。だったら俺が伊賀ちゃんにレクチャーしてあげるのに……」

 慈道はあぐらをかき腕を組んでうずくまる。

「こら、変な妄想はやめなさい。っていうか、先輩ってコンピューターはまるでダメなのに暗号理論は詳しいんですか?」

「いや、全然。学部生のときに面白そうだなと思ってとりあえず受けてみただけ。予想はしていたが、応用数学の範疇だったから、結局俺には必要のない知識だったな」

 慈道は理系的な知識はそれなりにあるのだが、不思議なことに極度の機械音痴である。コンピューターの操作は大の苦手で、なんと修士論文を柴山にデジタル化してもらった経緯がある。最近になって、柴山の意向もあってようやくガラケーからスマートフォンに機種変更をしたのだが、操作に四苦八苦している毎日である。

「それでもRSA暗号の仕組みぐらいは分かってる。なにせ、フェルマーの小定理が分かってれば理解できるから、ちょっと背伸びした高校生でも分かるぞ」

「へえ、そうなんだ。暗号理論って代数学が実社会に役立っている顕著な例ですよね」

「まあ、俺はあまりネットも使わないからそんなに実感はないが」

 柴山は慈道とは対照的に明朗かつ活動的な性格で、数学という共通部分インターセクションでもって二人は繋がっている。社交的な人間に見えるが、数学という固い学問に浸かっていることや、大学でも変人で通っている慈道とよくつるんでいることから、彼女もまた変わっているという噂は広まっている。同級生とはあまり旨くいっていないらしい。というのも、数学科の学生全員が本気で数学を学びたいというモチベーションを強く抱いているわけではないというのが現実であり、柴山の代は特にその傾向が強い。科目数が少なかったり、配点が数学に偏重しているという理由で理科が仕上がらないままたまたま受かってしまった学生や、現代数学と高校数学のギャップに打ちのめされている学生が多いのだ。真剣に現代数学を学びたかった柴山は、それほど数学に浸かってないグループの飲み会などで蘊蓄を語ったりと、しばしば空気の読めない行動を目立たせた。本人には知られていないがエアーブレイカーとも陰で呼ばれている。

 陰と陽、対照的に見える慈道と柴山は互いに欠点を持ちながら、うまく旨く枠に嵌っているのであった。

「そういえば、井上先生の孫娘がうちの大学の学生だって知ってました?」

「いいや。井上昭一は確か早稲田か慶応の名誉教授じゃなかったっけ? コネ入学とかすればいいのに」

「親の力に頼ったりとかってのは凄く嫌うんですよ」

「今時見上げた根性だねえ」

 慈道はソファーの背もたれによっかかり、天井を仰ぐような姿勢をとる。

「鈴木アリサっていうんですけど、今二年生なんです」

「苗字が鈴木ってことは、親が離婚でもしたの?」

「縁起でもない。アリサは井上先生の長女の娘なんですよ。だから、父親の姓が鈴木ってだけです」

「やたら詳しいな」

「一応後輩ですからね」

「仲いいの?」

「それなりに。たまに数学教えてますよ」

「もしかしてハーフ?」

「お母さんがハーフなんですって。井上先生の奥さんがロシア人なんですよ。アリサの写真ありますけど見ます?」

 ロシア人との混血という事実に反応した慈道は、すぐさま上体を起こして前かがみになり、情報漏洩のニュースを聞いている時よりも真剣な顔で頷いた。

「これなんかいいかな」

 柴山は、スマートフォンをアリサとのツーショットを表示させた状態で慈道に手渡した。居酒屋の写真である。柴山が茶髪のショートカットであるのに対し、アリサは栗色のロングヘアーを束ねている。

「い、いいじゃないっすか……お前と違って肌も白いし、お前のような下品で見せかけの茶髪じゃなくて天然の髪色じゃないか……」

「げ、下品……悪かったですね!」

「あ」

 腹を立てた柴山は腕を大きく振ってスマートフォンを乱暴に取り上げる。

「その写真、この前やったエアなんとかってやつで俺の携帯に送ってくれよ」

 iPhoneのAirDropのことを言っている。

「絶対嫌」

「そんなこと言わずに」

 慈道は品のない顔で写真をせがむ。あれだけ柴山のことを中傷しておいて厚かましいどころの話ではない。

「仮にそれを手に入れてどうする気なんですか」

「はあ……心が狭い奴はこれだから困る。だったらお前はその写真を撮ってどうする気だったんだ。俺に見せびらかすために撮ったのか? なんの意味がある」

「別に意味なんかはないですけど……」

「だったら俺にも意味はない。ならば俺にもその写真を共有する資格はある。さ! さ!」

「なんか目が嫌らしい。却下」

「くそったれい……」

 慈道は舌打ちをし、ベッドの上の目覚まし時計を確認した。

「どれ、そろそろ帰るか」

 慈道は立ち上がって裾がほころびかけているジーンズのポケットの中を漁る。

「あら、もう帰るんですか?」

「今日はお前が観せたい映画があるっていうからそれを観に来ただけだ。用は済んだ」

「まあ……そうですね」

 慈道は首尾一貫として事務的な態度を見せるが、柴山はどこか消化不良気味である。

 二人は出逢って二年と数ヶ月の仲である。しばしばつるんで行動をとるが、恋人以上の関係には未だ達していないのが現状であった。これほどまでに進展がないのは、人付き合いの経験が慈道に大きく不足しているからである。名前が珍しく、華奢な体型の慈道は小学生の頃からいじめの対象になっており、悲惨な日々を送った。特に名前に対するコンプレックスは相当なものである。弥七といえば、黄門様こと水戸光圀みつくに公に仕える凄腕の諜報員である風車の弥七であるが、キャラクター的に慈道弥七との乖離が甚だしい。悪い同級生には八兵衛などと呼んでいる者もいた。いじめがエスカレートすると苗字にも目をつけ、慈道ドアや慈道販売機という想像に容易い悪質な遊びも流行った。そういうわけで、慈道は人との関係を断つような生き方をせざるを得なかったのである。慈道が柴山とコミュニケーションを取れるのには理由がある。なんの因果か柴山が慈道のことを名前ではなく単に「先輩」と呼称するからである。しかし、仲のよい柴山といえど、ぎりぎりの所で距離を置いてしまうのが慈道のポリシーである。二人の間の位相構造はやや強い。

「あら?」

「どうしました?」

「チャリの鍵がない……」

「鍵は掛けたんですか?」

「確かに掛けた」

「アパートの駐輪場から私の部屋まで来る間に落としました?」

「普通、音で分かると思うんだがなあ」

 慈道は辺りや玄関への通路を確認する。

「もしかしたら、またやっちまったかもしれん……」

 慈道は渋い顔をした。

「また?」

「ワイヤーのやつだから、閉めるときは鍵がいらないんだ」

「でも、先輩んちから乗って来る時、解錠するのために鍵をさしますよね」

「いいや。東京は物騒だから、チャリを家の中に入れてるんだ」

「あのオンボロチャリを? どうせ誰も盗みませんよ」

 二十六インチで臙脂えんじ色のいわゆるママチャリと呼ばれるものである。

「何をいうか。一万もしたんだ。たとえオンボロであろうが、一パーセントでも可能性があるのならそれを軽視しないのが北斗神拳」

「ん? 待ってください。先輩はワイヤー錠を開けたらどうするんですか?」

「籠に放り込む」

「パッチンせずに放り込むわけですか」

「そう。そしてその状態でアパートに込むから、ワイヤーは開きっぱなしということになるな」

「で、出かける時に鍵を持たないままやってくることがあるから、今日みたいに帰れなくなる日が多々ある、と」

「そういうことだ」

「なんだか間抜け……」

 柴山はぼそっと言って、冷ややかに哀れみの目で慈道を見る。

「う、うるさいよ」

 慈道の色白の顔が赤く染まり出した。慈道としては受けが狙えると思ったのかもしれない。

「で、これからどうするんですか……?」

 妙な間が空いた。

「あ? ああ。大人しく電車で帰るよ。悪いがチャリ置いてくぞ」

 慈道の返答には淀みがなかった。ちなみに柴山の住む轟ハイツの最寄り駅から慈道の自宅の最寄り駅までは一駅である。

「……部屋の中には入れませんよ」

「ま、そうだよな。しゃーない。それじゃ、また明日取りに来るから」

「お疲れ様ですー」

 柴山は玄関で愛想よく笑顔で見送ったあともしばらくその場に立ち尽くし、閉まりきったドアを見つめて、ずっと息を止めていたかのように口の中に溜まっていたものを一気に吐き出した。そしてか細い声で「莫迦」と呟いた。

 その時である。突然玄関が開き、慈道が弾けるような笑い声を上げて飛び出して来た。

「柴山、鍵かけてなかった。ははは」

 数学のことに関しては絶大な信頼を寄せているのだが、それ以外の部分では頼りない言動が目立つ慈道に柴山は呆れるばかりであった。

「自分の家に入れるくらいセキュリティ意識が高いと思ったら、結局その程度ですか」

「その通りなんだけど……そ、そんな冷めた顔するなって。今度はさ、俺んちで映画を観ようぜ。選りすぐりのものを観せてやる」

「え……!」

 柴山は意外な展開に頰が緩みそうになる。慈道が自宅に誘うことはこれまでなかったことである。

「でも……エックスファイルは嫌ですよ」

「そうだな。もうちょっとお前向けのものを考えておくよ」

 自転車の鍵を掛けていなかったことがよほどおかしいのか、慈道はいつになく明るかった。

「分かりました。それじゃあ楽しみに待ってます」

 柴山の表情も解れてきた。

「そんじゃ」

「お疲れ様です」

 慈道は上機嫌で帰っていった。

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