書評『街場の読書論』 内田樹著(太田出版)

オカヨシ・ハラシゲ

第1話『街場の読書論』を読んで

この本を読んでいるとあたかも内田樹さんが目の前に座ってらっしゃって自分に語りかけているような、実際に講義を受けているかのような錯覚をしてしまう。著者との距離が近いように感じる。耳元で彼の声が聞こえてくるような、文字列には収まりきらない何かが伝わってくるような本だった。この本をよむにあたって、ある程度の(前のめりになって話を聞くような)知的好奇心やある程度の日本語の運用能力が要されていることは確かだが、それでもこの本は外に開かれた(この表現が適切なのかどうかわからないが)、どんな読者も見下すことのない親切な本だと感じた。今までにも気になった本を手にっとて実際に読んでみるものの、読み始めて直ぐ自分は筆者の想定した読者には含まれていないんだなぁ、という感がする。それがこの本には無かった(筆者自身も文中で言及している)。

ここで幾つか自分がハッとさせられた、もしくは今まで消化できなかった疑問を消化する助けになったものを『街場の読書論』から抜粋する。もし以下の文章を読まれて本書の内容が気になった方は、ブログで該当記事(筆者は文章をブログに投稿されていて、全てタダで読める!!)ので、そちらで探されるか、また本書をお求めになる事をおすすめします。

「私がものを書いているとき、書いているのは半分かた「別人」なのである。この「別人ウチダ」が憑依しているときに書いたものは、ふだんの私には再現できない。」(『街場の読書論』「おでかけの日々」p124より引用)

言語を以って説明できなくても、体験的にこれを知っているかたは多いのではないでしょうか。自分だけではできなかった筈のことがなぜかできてしまった。それを内田さんは「別人ウチダ」と表現されたのかもしれない。以前通っていた中学の国語の教師はそれを「コビトさん」と呼んでいた。その先生は本書の筆者に私淑されていて、課題プリントとして筆者の文章を読むことも多かった(すごく楽しかったです)。まぁとにかく大事なのは「それ」をどう呼ぶかでなく、「それ」(僕は国語の先生に倣い「コビトさん」と読んでいる)に対して敬意を払うことである(と思う)。つまり、自分が成したことの全てを自分の手柄だと考えるのはどうなの?ってことかと。「コビトさん」(以下「コビトさん」)にも休みは必要だし。不調に陥ることもあるだろう。知性が全て自分のコントロール下にあると考え、「コビトさん」への配慮を忘れていると、次第に今までできていた「できなかったことができる」ができなくなり、自分の力量でのみできることに限定されてしまうんじゃないかな(随分とややこしい言い方になってしまいました)。そういう自分の知性に対するリスペクトってのが結局自分の為にも、そして「コビトさん」の為にもいいんじゃないのかな。自分の知性なんてままならないものなんだ、そう認識しておくほうが良いかもしれませんね。

「幾つか抜粋」なんて言っておきながら、結局一つしか引用しませんでした。やっぱり自分が読んだ内容を自分なりに解釈して言語化する、このプロセスって頭使うものなんですね。疲れちゃいましたよ(楽しかったけど)。でもやっぱりこの「楽しい」って感覚がないとこういう風にものを自分なりに深く螺旋状に(直線的に掘れるほど易しくないので)掘り下げていくことはできないんですかね。自分は楽しいからそうしているんですけど(そうしなくては、と感じることもある)。本書『街場の読書論』は色々と得るものが多く、決して読者を「見下す」ような本ではありません(すっごく親切)。読みおえた後、「また読むことになりそうだな」という確かな予感がした(長い付き合いになりそうですね)。ここまで私の拙い文章に付き合ってくれた方に「読んでみようかな」、と思っていただけたら嬉しいです。では。

         

                          

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書評『街場の読書論』 内田樹著(太田出版) オカヨシ・ハラシゲ @nime

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