後悔の舟

後悔の舟が茫洋をわたる

陽を受けてかがやく大海原だ

低く飛ぶ鴎どもの白が

青い夜霧にまみれて

くすんでいる

今は夜か?

光が昏いぞ


後悔の舟は水晶でできている

水に透かされ霧を透かす船灯

大きな氷塊を照らしている

と思えばそれは自身の光を

反射しているにすぎない

痛みのような白が通り抜ける

船体そのものが発光しているかのごとく

数えきれないスリルと女を乗せていると

聞いたのに

荷のひとつさえ見当たらない


虹の彼方を目指しているのか?

この世の果てを目指しているのか

あるのは踏みにじられた羅針盤ばかり

彼方も果ても

ここがどこかさえわからないじゃないか

おまえは


「もしも虹がこの世のものとは

 思えぬほどうつくしいなら

 おれはきっと触れた瞬間

 気がふれてしまうだろう」


岬のような海原の突端から

ずり落ちる光景を想像する

古人の空想はほんとうのことだった

この世の果て

海は瀧になっていたのだ

厖大な流れに抗うことはできない

しがみつく岩も留まる枝もなく

重力が背を押す

底の見えない霧の中へ

投げ出されたおまえは考える

いま死のうとしているのに

なぜいますぐ死なないのかと


「息絶えることが約定されながら

 限りなく絶命を引きのばされているようだ

 首もとの懐中時計じゃそれが一瞬

 でも

 アンテナの立たない

 誰とも接続できないこの機械で測られた一瞬が

 いったいおれのなんだというのだろう」


「ああ

 舟にはだれも乗っていない

 おれさえ乗っているか定かじゃないほどだ

 すべてにまみえておきながら

 なにもかも通り過ぎてしまった

 おれはじつは

 人間ではなく海路だったのだ」


舳先が衝突しても

おまえはその

抽象的な観念にしか感応することがない

舟に乗っているおまえ自身が抽象性でしかないから


くだらない

危機は船体に

擦り傷だけ残してさっさといなくなる

その感触さえ定かでないまま

いつかの損壊へ向けての恒久的な航行へと

すみやかに恢復してしまう

そのあいだ

かつて港を発ったのがいつなのか

わからなくなるほどに

永い時間が過ぎても

おまえはその永さを知ることさえできない


霧は朝も夜も同じくらい青くて昏い

太陽など

この世にないみたいに

おまえの咽頭は激しくかつえている

粉を吹いたように乾いている

飲み水はどこだ?

鱗のようにかすかにきらめく

わずかばかりの残光を砕いて

ガラスの破片のような海面

汚水を固めた氷のような無謬の鈍色

静かの凪


これが嵐

これが人

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