消失

RYOMA

消失

私は簡単に書き記した遺書を机の上に静かに置いた。そしてタンスの上に置いてある家族写真を見つめる。そこには笑顔の妻と、元気に笑う娘と息子・・・


慎ましくではあるが、楽しく幸せに過ごしていた近い過去を振り返り涙が溢れてくる。長年愛用していた椅子を足場にして、柱の突起部分にロープをかける。ロープは最後の現金でホームセンターで購入した。


私はすべてを失った・・・


脱サラして友人と共同経営で始めた飲食店、最初は順調だったそれも次第に経営が悪化、友人は逃げ出し、最後に残ったのは借金だけだった。そこからの人生は下り坂を転がり落ちるように、すべてがうまくいかなくなった。


増えるのは借金ばかりで、それ以外は失うばかりだ・・


もう疲れた。もう最後にする・・


首にロープを掛け最後の一時、現世の思い出を噛みしめ、覚悟の瞬間の訪れを待つ。


良い思い出ばかりを考えて、幸せな気分で最後の時の訪れを待っていた、だが一瞬の現実への帰還時、不意に目の前に立っていたと目が合った。


しばらく前から私に付き纏っている黒いそれは、悲しくも恨めしく私を見つめ、何を語りかけるでもなくじっと佇んでいる。


私に死の瞬間が来るのを今か今かと待ちわびているのか、それがこの黒い影の唯一の目的でもあるかのようにそこに存在する。


「お前は何なんだ!」


その存在に体が震え、私は思わず叫び出す。


「私からはもう何も奪えないぞ!もう何もないんだ! 最後に残ったこの命も、今、お前にくれてやる!」


足場にした椅子を蹴り、私はそれを実行した。自らの命を絶つ決心をした時、その実行方法について調べた。そのほとんどの情報から、一番苦しみが無く、確実性の高い首吊りという方法を選択した。


しかし・・・なぜだ・・なぜこんなに苦しいのだ。ロープは私の首をミシミシと締め付け、気道を完全に塞ぐ。単純に息ができずに強烈な苦しみを生む。


私のそんな姿を黒い影はただ見つめる。体はピクリとも動かない為、その状態から抜け出すこともできない。苦しい・・ただ苦しい・・


意識が無くなるどころか、一向に死ぬ様子もない。苦しみはいつまでも続き、黒い影と見つめ合う。その地獄の時間が淡々と過ぎていくが、苦しみは一向に癒えない。それどころか窒息の強烈な苦しみは、時間が経つにつれてその精度を増していった。


まるで時が止まったかのように、周りの状況は微塵も変わらなかった。私のこの苦しみも癒されることはない。もはや時間の感覚など感じることができなかったが、気が遠くなるくらいの日々が過ぎ去ったと感じた時、その変化は起こった。


影が二つに増えていた。


苦しみの中、意識はずっとはっきりとしていたはずだが、全く気が付かないそのうちに、最初の影に寄り添うように存在していた。


最初の影に比べると、少し小さいその影は、私をじっと見つめているようだ。それは大きな悲しみを感じる視線だった。


深く暗い二つの影は決定的な動きをするわけでもなく、私をただ見つめ、苦しむ姿を見守っていた。


随分前から時間の感覚は完全に失われていた。私がこの人生に別れを告げてから一体どれくらいの月日が経ったのだろうか・・一ヶ月か・・二ヶ月か・・もしかしたらもう何年も経っているのではないだろうか。


相も変わらず2つの黒い影は私を見つめ続けている。ただ見つめ続けている。何も語らず、ずっとこちらに悲しい視線を送っている。


その場から動くこともなく、私の苦しむ姿をそれが何かの義務のように見守っていた。


私はこの影が何を考え何を思ってそこに存在しているのか無性に気になってきた。私に伝えたいことがあるのだろうか、それとも何の意味も無くた、だそこにいるのだろうか。私は黒い影たちに直接聞こうと思った。しかし首はきつくロープに絞められ、何も言葉を発することができない。


そしてこの疑問を影達に伝える事も出来ぬまま、さらに時間は流れていった。


意識は失うどころか朦朧ともせず、はっきりと苦しみを感じていた。しかし、そんな私の隙を突くかのように、気が付かないいつの間にか、黒い影は三体に増えていた。


三つ目の影は前の二つに比べて一回り大きい。そしてはっきりとした表情があった。それは悲しみとも怒りとも取れるものだった。


それから何日、何ヶ月、何年、無限とも取れる時間が流れ、私はまだ生きている。三つの黒い影とただ見つめ合う時間を過ごし、これが永遠に続くかと思い始めたその時、黒い影達が静かに動き出した。


不気味に私に近づいてくる影達。その歩みは、私に近づくどころか、私の心へと近づいているようだった。


目の前に迫った影達は私を囲み込んだ。そして囲み込んだ影は大きく膨らみ始めた。私の体を完全に塞ぐように、周りを取り囲んでいく。


完全に私の周りは影に覆われた。しかし私を覆い尽くした影の膨張はそれでも止まらない。その密度を濃くしていき、やがて私の体を押し潰さんばかりに圧迫してくる。


影達の圧力はその限界を迎え、次第に私の中へと染み込んできた。影の全てが私の身体中に行き渡り、その者達と同化していく。そして心の中もそれに満たされた時・・私はすべてを悟ることができた。


「すまなかった・・・お前達・・本当に申し訳なかった」


言葉を発することができなかった私の口から、自然と言葉が出てくる。影達はその言葉に満足したのか、私を許してくれた。


「ありがとう・・・」


それが私の最後の言葉となった。


閑静な住宅街、古い木造アパートの前に何台ものパトカーが止まっている。その周りには騒ぎを聞きつけた野次馬達が取り囲み、何が起こったのか各々話しながら、遠巻きにそれを見守っている。警察官達は忙しなく動き、己の仕事を黙々とこなしていた。


そのアパートの一室で、鑑識が写真を取りながら担当の刑事と思われる男と話をしている。


「一家心中で間違いなさそうだな」


「状況的にはそうですね。荒らされたり、争った形跡もなく、寝ている間にどの死体も心臓を一撃ですからね・・・」


「旦那が子供二人と奥さんを刺殺。その後に首を吊るか・・」

「なんかやるせないですね・・・」

そこに死体を確認していた検視官が近づいてくる。


「警部。一つ気になることがあるんだが・・」

怪訝そうに話しかけてきたその男は、さらにその内容を話し始めた。


「刺殺された三体の遺体と、首吊りの遺体では痛み方に随分と差があるんだよな」

警部と呼ばれた男は少しだけ表情を変え、話を聞く。


「刺殺体は死んでからどれも何ヶ月も経過しているようだけど・・首吊り遺体は1日も経ってないくらいに新しい」

その不可解な報告に、首をかしげながら言葉を発する。


「旦那は自分で殺した家族の死体と何ヶ月も生活していたのか?よくそんなことできるな。普通に考えたら家族を殺したら、すぐに後を追うもんだろうに・・・」


その場にいた人間は皆同じように思ったのだろう。複雑な表情で、その旦那の首吊り死体を静かに見つめた。

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