五
「ママ!」
「並子!」
目が覚めると二人の顔が見えた。一人は優斗でもう一人母だ。
「ママ、ママ、ママ!」
優斗は布団に寝たままの私にぎゅっと抱きつく。
ふわりと石鹸の匂いがする。
私は優斗の髪を撫でた。優(すぐる)に似た少し硬めの髪だ。
「優斗、ごめんね。心配かけて」
あれは夢だったのか、そう思いながら私は優斗に言った。
「まったく、どこにいってたんだ。優さんが見つけてくれたよかったよ」
「優?!」
やっぱり夢じゃないんだ。
「ママ!」
急に体を起こしたせいで、ころんと優斗の体が畳の上を転がる。
「ごめん、ごめん。優斗。ごめん。ちょっとお父さん呼んできて」
「うん。わかった」
優斗はそう言うと立ち上がり、部屋を出て行く。
「母さん、私……何日くらいいなかったの? どこにいたの?」
「覚えてないのかい? 本当に神隠しにあったのかねぇ。あの沼で大昔よく神隠しがあったけど、本当にあるんだね」
母が目を細くし、何か思い出すようにそうつぶやく。
沼?
ああ、あの町はずれの。
そういえば子供の頃からあまり立ち寄るなって言われていたっけ。
「あんたもなんでそんなところに……。本当、優さんがお前を見つけて帰ってきた時はほっとしたよ」
「……優はいつからここにいるの?」
「えっと、あんたが消えた翌日からだよ。夜、急にお前が姿を消して、朝になっても現れないから、念のために優さんに電話したんだ。するとすぐに飛んで来てくれたよ。優さんっていい男じゃないか」
そ、そんなのわかってる。
だから彼は私を迎えにきたんだ。
並だった時の記憶も、佳緒留の同僚だった時の記憶も全部ある。
戻れてよかった。
本当に……
「並子。目が覚めたんだな」
がらっと音がして襖が開けられる。そこに立っていたのは愛する二人の男。黒髪の短髪の男らしい夫とそのミニチュア版の優斗だった。
「優斗、おばあちゃんと外に行ってこようか。雨上がりだから面白い生き物がたくさんいるかもしれないよ」
「うん」
私達の雰囲気を感じてか、母がそう言ってくれて部屋の中は私と優だけになる。
沈黙が訪れる。
どう切り出していいかわからなかった。
布団の上に座る私の側に座り優は何かを考えているようだった。
「並子、記憶は戻ったのか?」
先に沈黙を破ったのは彼だった。
「うん」
記憶、やっぱりあれは夢じゃないんだ。
「全部覚えてるのか?」
「うん」
私がうなずくと優は少し考えた後、視線を私からそらす。
「……戻ってきてくれてありがとう。俺の元に」
そう言った彼の横顔は少し赤くなってる気がした。
「私こそ、ありがとう。私を助けてくれて」
「もう駄目だと思った。お前はきっとあいつを選ぶと……」
「……そうだったかもしれない。でも水瓶に消えていくあなたを見て、私はあなたを追った。あなたしか見えなかったのよ」
「……そうか」
彼がもじもじし始める。照れているのがわかる。耳が赤くなってる。
可愛い。
やっぱりこういうところは愛しいと思ってしまう。
「優、私はやっぱりあなたが好き。だから、これからも不届きな妻だけど宜しくお願いします」
私はぺコリと頭を下げる。するとふわっと抱きしめられた。
「それは俺の台詞だ。俺はお前のことをもっと想ってやれなかった。だから、お前は別の世界を望んだ。俺もお前が好きだ。だから、これからもよろしくな」
「もちろんよ」
「ありがとう」
彼は笑うと私に口づける。それはあの水の中でされた深いキスと同じで、その甘さに私は蕩けそうになる。
『愛してる』
あの世界で優は確かに私にそう言った。
多分、もう二度と聞くことはないと思うけど。
でも重なった唇から、彼の想いが伝わってくる。
それだけで十分。
「優」
彼の名を呼び、私は彼に口づけを返す。
脳裏にはまだ佳緒留の甘い囁きが残っている。もしかしたら彼は私をあの泡の向こう側から見ているかもしれない。でも、私はもうあの世界には戻らない。
ここが私のいる場所、愛する夫と子供がいる世界、ここが私の世界なのだから。
願いは叶えられ、私は後悔した。 ありま氷炎 @arimahien
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