第3話
「塚原くんはどうして引きこもりになったの」
ホットプレートに敷いた麺を見張っている最中、沢渡の方から声をかけてきた。
なんとなく、訊かれるのじゃないかという予感はあった。だから、戸惑うことはなく、僕は頭の中で固めていた言葉をそのまま口にしていた。
「お前さ」
僕はとある級友の名を口にした。僕が小学校のときに出会い、持ち上がりで同じ中学に入った、その男子の名を、沢渡は眉間に皺を寄せて散々唸ったあげく、「いたような、いなかったような」と言った。
「いるんだよ。で、そいつは僕の友達だった」
その友達が標的にされ始めたのは、中学に入って間もなくの頃だった。クラスの中で力のある男の子に、いつの間にか目をつけられていたらしい。特定の原因らしきものもなく、ただ単にその友達が、大した反抗もできないような奴に見えたから標的にされたのだろうと僕は思っていた。
「最初はいじられているだけかと思っていたんだけど、だんだん酷くなって言ってさ。直接殴られたり、財布を盗まれたりしたこともあった。抵抗した方がいいって僕は言ったけど、そいつはいつも何もしないんだ。ただじっと堪えて、全てが終わるのを待つだけなんだ」
何かが変わるという保証なんてどこにもないのに。
昨年度の終業式の後、その友達がいつものように連れ去れているのを見た僕は、彼らの跡をつけた。なんやかやといちゃもんをつけられて友達を襲う彼らに、僕は石を投げつけた。その友達を救おうとした気持ちが半分、ただ単にムカついてめちゃくちゃにしてやろうとした気持ちが半分だ。
そして標的は僕になった。春休みだろうとお構いなしに、僕が外に出てすぐに彼らは僕を取り囲み、攻撃してきた。ただの陰口だとか、手を挙げると逆にこちらが責められてしまいそうなほどのささやかなものだったけれど、毎日となると心に響いた。先生に相談することも、時期的にできないし、両親はこのことに関わらせたくなかった。だから僕は一人で堪えていた。
「できればじっと、黙って我慢するつもりだったんだけどな」
篦を使って焼きそばをひっくりかえす。少しだけ焦げ付いたけれど、ソースを絡めればごまかすことができた。
僕を取り囲んでいた連中に、友達の姿を見た。
僕を標的とすることで、彼は立場を変えることができていた。僕に唾を吐いた後、その同じ口でクラスのボスに甘言をしていた。上機嫌になったボスはますます僕を攻撃してきた。取り巻きもみんな僕を蔑んだ。僕は何も言わなかった。何を言う気力もなくして、やがて始まった始業式の日、僕の机の上には立派な百合の花が飾られているのを発見した。
「だからさ、もう行く必要ないなって思ったわけだよ。人に優しくしてもいいことなんてないし、別に誰からも好まれるわけでもないし、してもしなくても、世の中うまく回るんだしさ」
なるべく抑えていたかったのに、舌が勝手にくるくると回って、意識していないところで声が大きくなった。まるで自分の中に別の誰かが入り込んで勝手に操ってきているかのようだった。
出来上がった焼きそばを平皿に載せた。ひとつ目の皿に載せて運ぼうとして、沢渡が元の場所にいないことに気がついた。彼女は海の家の壁際にある、アイス用の腰高の冷凍庫に腕を入れていた。
「塚原」
沢渡は上体を起こし、腕に持ったものを僕に見せた。よくあるソーダ味の棒付きのアイスだ。すでに袋から出されていて、水色の表面に雫が滴っていた。
「食べる?」
沢渡は、笑いもせずに訊いてきた。
「ああ」
頷くと、沢渡は僕に近づいてきた。僕はテーブルの上に焼きそばを置き、手を伸ばして沢渡からアイスを受け取ろうとした。
「ん」
僕の指が棒に掛かろうとした、すんでのところで、沢渡は腕を引っ込めた。アイスは沢渡にくわえられて、ポキリと音を立てて先端を囓られた。
「ん~、冷たい。美味しい」
ひとしきり感想を述べた後、沢渡は僕を見つめた。
「どう思う?」
「どうって」
「どう感じたか、だよ。良い気分? 悪い気分?」
「そりゃあ……悪い気分」
「でしょ」
沢渡は背中に隠していた腕を見せてくれた。そこにはアイスがもう一本握られていた。
「私も同じだよ。嫌な気分になった」
袋に入れられたままのアイスを沢渡は僕に押しつけるようにした。
「こういう気持ちが好きな奴、いないって」
アイスを受け取り、しばらくしてから袋を開けた。少し溶けていたけれど、歯に当たるとすぐに冷たさが広がる。心地よくて、頭の奥がつんと痛んだ。そのまま焼きそばを口にして、身体の内側は冷たさから熱さへと切り替わるのに慣れず、むやみに疲れた気分になった。
沢渡と僕との間に会話はほとんどなかった。そもそも共通の話題さえない。僕は沢渡のことをほとんど知らないし、沢渡だって僕のことを何も知らないだろう。
この世界には僕らの他に誰もいない。だけれどそれでどうにかなったわけではない。沢渡は世界に向けて抵抗をした。反省という未来が確立された、何も生まない抵抗を彼女はどう思っているのだろうか。
知りたくないわけではないが、今すぐに訊きたいわけでもない。
「美味しかったよ」
空になった平皿に割り箸を並べて置いて、沢渡は僕に親指を立ててみせた。
「ありがとう」
僕と沢渡は同じ言葉を口にしていた。
沢渡は世界を元に戻すことにした。
理由はいろいろとあった。食料だってそのうち腐るだろうし、夜の来ないこの世界により発狂してしまうかもしれない。理由は様々存在していて、不安が募り、僕と意見を摺り合わせて、その決定を下した。
砂浜から引き上げて、焼け付くようなアスファルトの上をサンダルで歩き、街道へと向かった。駅から続くメインストリートだ。元に戻ったら、すぐに座頭に揉まれるだろう。
「後悔はしない?」
沢渡は途中で僕を振り返り、尋ねてきた。
「僕にどうこうする権利はないよ。そっちは?」
「私も、ない。いいよ、反省するよ。すいませんでした、神様」
沢渡は空に向けて適当に叫んだ。声は風に揉まれて消えていった。
「なあ、もしかして戻し方がわからないなんてことはないよな」
投げやりな態度に不安になったが、幸い、沢渡は「まさか」と首を横に振った。
「願えば良いんだよ。この世界が元に戻りますようにって、目を閉じて、必死にさ」
「そんなに簡単なのか」
「来るときもそんな感じだったし」
「……」
荒唐無稽さを、今更突っ込んでも詮無きことだ。
やがて沢渡は目を閉じ、何事か呟き始めた。
元に戻して、お願いします。
光景としての認識が正しいかはわからない。
ぼけすぎていた背景に向けてフォーカスを絞ると被写体がくっきり浮かんでくるように、黒い靄のようなものが人の姿を成していった。そのひとりが僕にぶつかる。確かな感触があった。「すみません」というか細い声も聞こえてきた。
僕らは人混みの中にいた。観光地のど真ん中、平日だというのに、どこからこれだけの人が出てきたというのか。とにもかくにも歩きづらい。
「ほら、できた」
沢渡の声がして、振り向いて、息をのんだ。そこにいたのは沢渡のようで、何かが違う気がした。
「あ、髪か」
明るい色合いの、陽の光を跳ね返していた髪色が、今は黒く、目深になっていた。着ている衣服も制服になる。夏服に切り替わったばかりのそれは、ぱりっと折り目がついていた。
「校則があるし」
髪染めは禁止されている。だから、学校にいる生徒は基本的にみんな黒髪で、特別な事情がない限り黒髪のままでいる。沢渡のことを知らない人だと思った一番の原因はそれだったのだと、僕は気づいた。
「でも、やっぱり私のこと知らない?」
顔を覗き込むように、沢渡が訊いてくる。それで思い出せたらドラマチックなのだけれど、生憎そう都合良くはいかない。
「ごめん」
「……さすがにどうかと思うよそれは」
僕が正直に打ち明けると、沢渡は睨んできた。
沢渡は僕から離れ、雑踏の隙間を縫って歩いていった。途中で振り返り、僕に向けて腕を伸ばした。手の先がひらひらと、僕へ向けて振られていた。
「君の席にあったっていう百合の花、多分、今私のところに置いてあるのと同じだよ。クラスで浮いている奴のとこに適当に置いてるんだよ。個人的な人格なんて、関係なく」
沢渡のその解釈は僕の胸にすとんと落ちた。言われてみたらそのとおりだった。僕個人に怨みがあるならば、百合の花は今でも僕の机の上で咲いているはずだ。
「だからさ、明日は登校してよ。待ってるから」
沢渡が振り返る。雑踏に向けて、紛れていく。
「私のとこの花瓶、どかすの手伝ってよね」
遠ざかっていく沢渡の背中に、僕は返事をした。声を加減がわからなくて、何人かに振り向かれたけれど、構わなかった。自分の耳に、自分の声が届くのがわかり、僕は大きく腕を振った。
僕が部屋から出た理由 泉宮糾一 @yunomiss
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