第2話
今朝、沢渡が登校すると、上履きがなくなっていた。狼狽えている沢渡の耳に、クラスの中で幅を利かせている、とある同級生の嘲笑が聞こえてきた。その取り巻きも一緒になって、沢渡のことを蔑んでいた。
彼女たちがこの世からいなくなってしまえば、いくらか世界は良くなるだろう。最初の動機はそれだけだった。
彼女の願い事は叶った。笑っていた人たちは消えて、取り巻きも消えた。
「何が起こったのかは私にもよくわからないけどね。気まぐれな神様がたまたま耳を貸してくれたのかも」
沢渡は肩を竦めて言った。
沢渡は驚きつつも喜んで、クラスへと向かった。そこで自分の机の上に百合の花瓶が飾ってあるのを目にした。
「消した奴らか、それとも別の嫌な奴か、誰が置いたのか知らないけどさ、誰も見て見ぬ振りをしているんだなって。そう思ったらみんな同罪だと思った。だから、クラスメイトは全員消した」
朝のホームルームの時間になり、担任の教員が現れた。教員は半狂乱になり、沢渡を問い詰めた。沢渡は面倒になり、担任も消した。騒ぎが聞こえたらしく野次馬に来た他のクラスの人たちも教員たちも消した。学校中が静まりかえると、身の回りの何もかもが自分を責めているような気がして、沢渡は、学校の外の人たちもみんないなくなってしまえ、と願った。
これが沢渡の話してくれたことだった。
「まさか学校に来ていないクラスメイトがいたとはね」
非現実的な体験を潜り抜けてきたというのに、沢渡はどこかのびのびとしていた。
海沿いの道を歩きながら、僕は沢渡の話を聞いていた。左手には人気のない海水浴場が広がっている。白い砂浜のところどころにビニール袋やペットボトルなどのゴミが見えていた。綺麗とは言いがたかった。
歩いていれば喉は渇いた。人は誰もいないけれど、自動販売機は稼働していた。どこから電力が来ているのか不思議だったが、真面目な思考は渇きに勝てず、スポーツドリンクを二本買い、冷えていることに驚きつつ。沢渡と分け合った。
「僕は巻き込まれただけなんだな」
ぽつりと呟いて、ペットボトルに口をつけた。冷たさが喉に沁みた。
「迷惑だった?」
「そりゃあ、このままみんないないままだとさすがに困る。沢渡だってそうだろ。上履きとか花瓶とかは別にしてさ」
人は一人では生きていけない。
僕の問い掛けに、沢渡は微かに眉を顰めた。
「それはわかっているけど……」
「けど?」
「まだそういうことは考えたくない」
沢渡は声を大きくして叫ぶと、僕の前へと駆けだした。
「ねえ、海に入ろうよ。とりあえず遊ぼう」
振りきるように腕を広げる沢渡の足下で、影は小さく円を描いていた。
太陽は先ほどからずっと、僕らの頭上に留まっている。それはとても、異常なことだ。
僕の反応が乏しかったからか、沢渡は不服そうな顔をして戻ってきた。
「遊びたくない?」
「お前、なんでそんなに割り切れているんだよ」
「だって、何時間掛かっても、何やっても、状況は変わらないし。だったら楽しんだ方がいいでしょ」
「……お前さ」
僕は、とある漫画の名前を口にした。青くて丸い二刀身のロボットが腹にあるポケットから便利な道具を出して、少年の希望を叶えようとする、とても有名な漫画だ。
「って、知ってる?」
沢渡は目を瞬かせて、もちろん、と頷いた。
「そこにこんな話がある。願えば他人を消せるスイッチが登場するんだ」
主人公である少年は、ロボットから預かったそのスイッチを使って友達を消してしまう。一人消し、二人消し、ついにはこの世の全てが煩わしくなり、最終的には世界中の人間を消して、誰もいない世界にしてしまう。
「似ているだろ」
沢渡は渋い顔をしていた。
「物語はどうなったの」
反応のないまま促されて、僕は話を続けた。
「寂しさにかられた主人公は、自分の行いの過ちを認める。そして世界は元に戻る。他の人も大事にしないといけませんよ、っていう教訓話だったんだな。ほら、見てみろよ」
僕は足下の影を示した。
「ここはずっと昼のままだ。太陽は常に頭の上にある。時間が流れていないんだよ。そこら中にある時計も軒並み狂っていたしな。こんな超常現象、普通じゃ起きない。どういうことだかわかるか? 神様はお前に力を与えたんじゃない。反省させたがってるんだ。というか、反省するまで終わらねえぞ、これ」
僕が推測を並べ立てると、沢渡は呆然として、僕から目を離した。
カーブを描く道路の端にあるガードレールへ向けて沢渡は走り出す。
「そんなの知るかあああ!!」
飲み干されていたペットボトルが、弧を描いて宙を舞い、白い砂浜に突き刺さって煌めいた。砂浜のゴミがまたひとつ増えた。
海に入ることを頑なに拒んでいたら、沢渡は諦めて、自分一人で走っていった。波に突っ込んで、水がはねるたびにおおはしゃぎして戻ってくる。何度も繰り返す沢渡に呆れながら、しばらく眺めて違和感に気づき、沢渡が泳げないのだとわかった。
「だったら大人しく砂浜で遊んでいろよ」
「それじゃ海に来た意味ないじゃん」
などと宣いながら、沢渡は果敢に海へと挑んでいく。
気分転換に、僕は砂を適当に固め続けた。角張った砂山を作り、足掛けにしようとしたが、実践すると途端にさらさらと壊れていった。世の中にこれほど無意味なことがあるだろうか。熱の籠もった砂が払いきれない不快感に閉口して、僕は崩れた砂山の傍で体育座りをし、空を仰いだ。
海水浴場にはいつも人が集まっている。わざわざそのような場所に行きたがる人は、その異様な賑やかさを楽しめる人に限られる。他者と一緒にいたら安心できるという類いの人だ。人を避けることに執着していた僕には、海水浴場は縁遠い場所だ。それでも、人のいないその場所は、慣れてしまえばただの砂浜だった。そもそもただの砂浜を人間が勝手に海水浴場と名付けていたにすぎなかったのだ。
地球が滅んだら、あちこちにある地名も呼称も全て意味を成さなくなる。地球が滅ぶという言葉は、人間の主観的な考え方で、実際に滅んでいるのは人間だ。誰もいない砂浜を見ることができるのは人間しかいない。そしてまた、そこに誰もいないのだと感じることができるのも人間だけだ。
ぼんやりと考え続けていたら、言いようのない不安が湧いてきた。
この静けさは、僕らには荷が重すぎる。
立ち上がって、不意に鳥肌が立った。
「沢渡?」
賑やかだったはずのあの声が、いつしか聞こえなくなっていた。
胸の内側がにわかに騒がしくなる。砂が熱いなどといっておれず、僕はよろけながら砂浜を横切り波打ち際を走った。
幸いなことに、沢渡はすぐに見つかった。岩場で横になり、頭を抱えて横になっていた。ふくらはぎの中ほどまで波が迫り、引いていく。湿った砂の上で、沢渡は青い顔で浅い呼吸を繰り返していた。
「立てるか」
「……ごめん、ちょっときつい。何これ。私死ぬの?」
「ただの熱中症だよ」
とはいえ、油断すれば命に関わる。僕は来ていた上着を沢渡に被せておき、無人の海の家を目指した。製氷機が稼働していたので、氷をビニール袋に詰め込み、店先にあったパラソルも持ち出して、波打ち際に戻ると沢渡の傍にパラソルを差し、氷を喉の周りと脇の下に挟ませた。沢渡の呼吸が落ちついてくると、僕は彼女に肩を貸して、海の家の中へ連れていき、茣蓙の薫る店内に沢渡を寝かせて、溶けかけていた氷を取り替えた。
「ごめん」
顔色は良くなったけれど、沢渡の顔は悄げたままだった。
「なんで謝るんだよ。病気になって謝る奴なんかいねえだろ」
「でも、海に行こうっていったの私だし、巻き込んじゃった」
「今更だし、それもやっぱり謝ることじゃない」
僕が言い切ると、沈黙が続いた。風鈴の音が鳴っていたが、静寂を埋めようとするには心許なかった。
「腹減ったろ。食欲は?」
「……ちょっとなら」
「良し。食材ならあるはずだ」
キッチンを漁ってみると、冷蔵庫の中に焼きそば用の生麺とタネが入っているのを見つけていた。電気は来ているのでホットプレートも同じように稼働するだろう。
「料理できるの?」
沢渡が目を見開いた。そこまで驚かれるのは心外だった。
「ずっと家にいたら、手伝わされてたんだよ。少しは奉公しろってさ」
何かを焼いたり、煮たり、それくらいのことはできる。味に糸目をつけなければなんだってそれなりに食べられるようになる。考えてみたら、学校へ行かないうちに、僕もそれなりに学ばされていた。
「あ、でも、焼きそばはきついか」
「いや、そういうわけじゃないけど」
沢渡は髪の先を指で弄りながら続けた。
「なんというか……優しいんだね、意外に」
反応に困る言い方だった。
「大したことじゃないよ」
普通、普通と、僕は口の中で繰り返した。
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