僕が部屋から出た理由

泉宮糾一

第1話

 僕が学校に行くと告げたとき、母はあからさまに驚いていた。部屋から自分で出てきた時点ですでに驚いていたのだけれど、さらに輪をかけて口をあんぐりと開けて、「大丈夫なの?」と訊かれてしまった。僕としては、頷くよりほかない。

「何かあったの?」

「……まあ、ね」

 あったといえば、あった。ただし説明するには面倒だった。言葉を濁らせたままにすると、母も何か察した顔で頷いてくれた。

 久方ぶりの部屋の外には梅雨空が広がっていて、傘を広げるかどうか迷う程度の小雨が降り注いでいた。歓迎されているとは思えないけれど、粛々とアスファルトを踏みしめた。

 緊張で掌に汗が滲むのがわかる。考え込むと、暗闇に沈み込みそうになる。前だけを見て、苦しくなったら灰色の空を見上げた。動悸がおさまるまではその姿勢で歩き続けた。

 数日前、梅雨の切れ間があった。前線と前線の間に差し掛かり、陽光がカーテンの向こう側から差し込んで、部屋で寝転んでいた僕の眼を刺激した。

 そのときの僕は、自分が部屋から出るつもりは一切なかった。いつもと変わらない、引きこもった生活が延々と続くだろうと思っていた。


 僕が部屋から出た理由は、空腹を感じたからだった。

 普段なら、朝の七時には扉の前にお盆にのった食事が配膳されてくるのだが、届けられなかった。母が忘れているのだろうか。わざわざ促すほどの意欲がなかったのでしばらく眠り続けていたのだが、腹が悲鳴を上げ始めていてどうにもならず、やむなく人間らしく二足歩行をすることにした。

 引きこもりである僕のことを責め立てるのに疲れた母は、とうとう愛想をつかして僕をいないものにしたのかもしれない。朝食くらい自分で作れというメッセージなのではないか。そんなことを考えながら階段を下りていると、汗が滲んだ。いつもと違うというのは嫌なことだ。何かを無理矢理変えようとしたら、大抵は痛みが伴うものだ。そのままで何も問題がないのならば、僕は率先して現状維持を続ける。それが僕のモットーだ。貫き通せたことは今まであまりないけれど。

 居間には誰もいなかった。

 テーブルには新聞が無造作に置かれている。これは食事を終えた父が仕事に出た合図だ。だとすれば母は、起きていないわけがない。それなのに姿は見えなかった。父と僕の食事が終わると、母はいつも洗濯をする。それが終わると掃除を始め、ベランダにある小さな花壇の手入れをしたり、今後の食事の計画に従い買い物の算段を始めたりする。つまるところ、普段はこの部屋の中にいる。だいたい僕に何も言わずに出て行くとは考えにくい。

 ぐるぐる回り始めた思考は空腹が限界に達したために中断された。台所に常駐されているカップラーメンを手に取り、お湯を沸かして食べた。何気なくテレビをつけたら砂嵐になった。どのチャンネルも同じだ。アンテナが壊れたのだろうか。そのせいで母は出かけているのだろうか。

 しかたなくスマホの画面を見て、噎せ返り、カップラーメンが噴き出しかけた。

 ロック画面にはいつもは時計が移るはずなのに、数字が飛び散っていた。正常な画面ではない。鳥肌が立った。ぶん投げると、スマホは放物線を描いて壁に激突した。壁に掛かっている時計も狂っていて、長針も短針も自分に課せられた役割を忘れたかのように自由な回転を続けていた。

 鼓動が速まる。家僕の知らない何かが部屋の中に潜んでいるような感覚がした。気分が悪くなり、助けを求めたくなって部屋の外に出た。アパート二階の廊下の欄干に手を伸ばして、道路を見渡せば、誰もいなかった。歩いている人も、車も、何一つ見当たらなかった。

 僕がその部屋から出たのは久しぶりのことだった。走るのも久しぶりだし、半狂乱になって隣室のドアを叩きまくったのはおそらく初めてのことだった。普通なら怒られる行いだ。むしろ怒って欲しかった。普通にドアから体を出され、どやされた方がまだ良かった。いつもと変わらない日常だったのだと気づくことができるからだ。

 その願いは叶わなかった。隣室は鍵すら掛かって折らず、中は電気を切られた状態になっていた。隣の隣も、その隣も、アパートの前室を叩いて回ってもそれは同じだった。

 誰もいない。俺以外に誰もいない。アスファルトは半分だけが舗装されている。手つかずのままの方にはひび割れが目立ち、裂け目から草花が生えて小さな花々が咲いている。

 俺は一旦玄関に戻った。靴箱の中には俺の靴がある。父の靴はないが、母のはあった。どこにも出かけていない。父が出て行ってから、母は消えたのかもしれない。

 考えても始まらないので、俺は自分の靴を取り、アパートの階段を下りて敷地から外へと出た。

 風に梢がそよぐ音、気の早い蝉の声、それ以外は静寂に包まれていた。日差しの強い太陽がアスファルトに常に降り注ぎ、陽炎を立ち上らせている。休日の昼間、たまたま外に出てみたら、誰もいない瞬間に出くわした。そう言われても、何も疑問は抱かないだろう。人の存在以外は特に変化していなかった。

 住宅街の小路を抜けて県道に辿りつく。スーパーマーケットや飲食店、車屋、家電量販店、パチンコ店の看板。見慣れた街の風景を歩き続ける。車の姿はあるが、期待して近づいても無人だった。

 県道はやがて別の県道と合流する。挟まる形で窮屈そうに佇んでいるコンビニエンスストアに入った。さすがに冷房はついていなかったが、日差しが遮られる分、外よりは過ごしやすかった。

 ぬるくなったスポーツドリンクを引っ張り出して、イートインコーナーで飲み干した。身体が水分を欲していた。こんなに汗をかいたのは久しぶりだった。

 結局、僕は誰にも出会わなかった。

 徒労感がしみじみと胸の内に広がる。

 この世界には僕しかいないのかもしれない。

 途方もない想像が膨らむ。

 碌でもない世の中だとは思っていたけれども、壊してしまいたいとは思っていなかった。どちらかといえば僕の方がこの世に相応しくないと思っていた。埋めがたいズレを肌で感じて、自分から暗い部屋に閉じこもることを決めたのだ。

 コンビニエンスストアの外にあるゴミ箱にペットボトルを捨てる。拝借した薄っぺらい帽子を目深に被り、溜め息をついて壁に凭れた。

 人のいるはずの場所を彷徨っても誰にも出会わないだろう。そうだとすれば逆に、海辺にでも行こうか。だからといって何ができるわけでもないが。

 逡巡しているときに。音が聞こえたが、微かな風の音だとばかり思って無視した。

「塚原くん」

 それが僕の苗字だと気づいて、僕はようやく自分の聞き間違いではないことに気づいた。凭れていた壁から体を離すと、目と鼻の先に女の子が立っていた。

 僕の名前を知っているのだから、同じ中学の人なのかもしれない。ただし、制服ではなく、ふんわりとした軽装だった。短く切り揃えられた、明るい色合いの髪の下で、目元が笑っている。理由はわからなかった。僕には仲の良い友達などいない。

「えっと、ごめん。誰だっけ」

 失礼かなと思いつつ、それ以外に言いようがなかった。

「同じクラスの沢渡だよ。わからない?」

「同じって、二年二組?」

「それ以外にどこがあるの」

 確かに常識的にはそうだろう。沢渡が笑うのももっともなことだ。ただ、長らくクラスから遠ざかっていた僕にしてみれば、宛がわれたそのクラスにはまるで実感がなかった。

「ここさあ、他に誰もいないんだよね」

 沢渡は諸手を挙げて指し示す。こことはこの世界ということだろう。

「まあ、私のせいなんだけど」

「君のせい?」

 僕が繰り返すと、沢渡は大きな仕草で頷いた。

「私は神の力を手に入れたからね」

 沢渡は腕を広げたまま、くるりと回ってステップを踏んだ。

「気に入らない奴は全部消したの」

 率直すぎるその言葉を信じるのには、誰もいない世界にいるとしても、やはり結構な時間を要した。

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