10.ベンチと背中

 別グループに属する友人の誘いを断って、中庭へと足を運ぶため、私はひとり大講堂をあとにした。

 八号館と十号館を繋ぐ渡り廊下へ出ると、太陽に暖められた心地よい風が吹き抜ける。何となく足を止めて、手すり壁から上半身を乗り出して空を仰いだ。空は青く、雲は少なく、太陽は高い。こうして風景をまじまじと眺めることはとても久しい。どうにも、大学に入学してからは忙しない毎日を送り過ぎていたような気がする。

 もう少し眺めていようかと思ったが、下のほうからけたたましい笑い声が届き、何事かとそのまま視線を中庭へと下ろした。

 中庭ではいくつかのグループが宴会さながらのテンションで、昼食を取っていた。その一つのグループが有希達とわかったとき、私は羞恥心に苛まれる。客観的に見ると、こんなにも品がないのか。そう気づいてしまうと、明日からはあのグループの一員として昼食を取りたくなかった。

 しかし、きっと明日は私もあの場に混ざっているだろう。

 今さら独りになる勇気が私にはなかった。悔しいけれど、水瀬希と私の差異は、その強度にほかならない。

 彼女は強い。だから選ばれた。

 私は弱い。だから拒まれた。

 私と伊藤悟らは違う世界に住んでいる。いや、彼らが違う世界に住んでいると言うべきか。伊藤悟と水瀬希。淘汰され、孤立した存在。孤独の存在。

 私は、そんな彼らと関わり過ぎてしまった。気がつけば、私は境界線に立っている気がした。境界線はとても曖昧で、だけど輪郭ははっきりしていて、その先にある光は手にしてしまえば帰ってこられない片道切符。分水嶺だった。

 勿論、答は決まっている。伊藤悟は手に入らず、加えて全てを失う選択をわざわざ選びたくない。そう思っているのに、中庭を俯瞰している私は矛盾していた。

「彼女はどうしてそうなったのでしょうか」

 考えてみたけれど、答はでない。当然だ。ここで答が出るようならば、私は彼の隣にいられたはずなのだから。難儀である。それでも……。やめよう、考えたところで詮ない話だ。

 ありふれていて、ちんけかつ普遍的で陳腐な存在。中庭で過ごしている大半の人間がそうだろう。代替可能な、いてもいなくても変わらない存在だ。しかし、カテゴライズされた私を含む大多数の人間は、その幸運を理解していない。

 カテゴリーから外れることがどういう意味かを、正しく理解していない。それなのに、やれ個性だとか、やれ自由だとか騒ぎたてて、自分を特別な存在だと疑いもせず頑なに信じている。個性とは、他人に証明するものではないのに。自由とは枠組みの中だけに存在するのに。

 私は思い知った。ホンモノの個性を手に入れたとき、孤独になると。そうして、カテゴリーの境界線へと立っている現状に恐怖する。あのふたりのようになりたくないと、心の底から願った。半分は本当。半分は嘘。

 嘆息。乗り出した上半身を戻し、再び歩み出す。中庭には行きたくなくなったので、生協前のベンチへと向かう。どうせならもう帰ってしまえばよかったのかもしれない。ここで逃げ出せないあたり、私は本当に弱い人間だ。逃げ出せたら楽なのに。彼ならきっとそうする。

 彼を想って歩いていると、生協前のベンチに座る彼の背中を見つけた。死角になる歩道橋の支柱の後ろに隠れて、観察する。相変わらず独りだった。どうやら昼食を終えた直後らしい。以前なら偶然を装って声をかけていたけれど、今回は装う必要もなく偶然だった。

 会いたくないときに限って……。心のなかで毒づいて、逡巡する。声をかけるかどうかではなくて、なんて声をかけるかを決断できずにいた。逃げ出せないだけである。

 いくつかの会話をシミュレートして、彼の元へと進む。どうせ軽くあしらわれてしまうのだろうけど。そんなことを考えつつ「お久しぶりです」と、できる限りの柔らかい声音を作り、私は言った。

「ん? ああ、君か。久しぶり」興味なさげに言う彼。「もう、会えないかと思ってた」

 私もそう思っていた。たぶん、これが最後。彼を追わなくなったのだから、当然といえば当然だった。さすがに、本人にストーカー行為をしていたなんて、告げるつもりはない。

「そうですね。私もそう思ってました。だから、これは運命ですよ」

 嘯く。伊藤悟との遭遇よりも、水瀬希との出会いのほうが運命的だったと思う。まあ、運命的であってもロマンチックなものではなかったし、この先も好きになんてなれそうにないけれど。少なくとも、大学の敷地内で出会すよりは、よっぽどドラマチックであった。ドラマといっても、昼ドラだが。

 彼は私の言葉を真に受けたのか、少し考えるように腕を組んだ。何を考えているのか、残念ながら全く見当がつかない。ただ、ひとつ確実に言えるのは、その思考に私の入る余地がないということである。

「運命ね、あったら嫌だなあ。……ロープが蜘蛛の糸だったら興醒めだ」

「なんですか?」

「いや、こっちの話」

 楽しげに小さく笑う彼。どうにも煙に巻かれている気がしてならない。やっぱり、私と彼は遠いようだ。

 会話に詰まりそうになったので、触れたくない話題を振る。私たちの唯一の共通の話題である。

「あれから、どうですか」

「さあ、上手くやってるんじゃないかな。よくわからない」

「ふうん。つまらない」

 本当に、つまらない。

「君はそうなんだろうね。僕は楽しいよ」

 そう言う彼は以前とは違って、人間らしい表情をしていた。彼女のもたらした影響だ。そう思うと、やるせなくなった。

 引き時だった。これ以上何を話しても無駄だ。私と彼は違う世界に生きている。彼を想った日々は夢に過ぎない。夢とはいつだって叶わないものであり、覚めるものである。

「それでも、あなたのことが好きなのです」

「君のことは苦手なんだよ」

 こうして、私は夢から覚めてしまった。悲しいとは思わない。苦しいとも思わない。いつだって、ただそこにあるだけなのだから。

「さようなら」

 私は、あなたと違う世界を生きていく。

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穴から抜け出して 白井玄 @siraigen

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