9.誘われて

 この世界は不確かだ。

 不確かで、不明瞭だ。不安定で、不透明だ。不規則で、不出来だ。不条理で、不公平だ。不公正で、不平等だ。不合理で、不気味だ。

 私の見ている世界と、他人の見ている世界は違う。それなのに、私たちはまるで同じものを見ているかのように振舞っている。

 たとえば友情というけれど、それはお互いが認識して初めて成り立つ概念である。しかし、私は相手が何を考え、何を思っているのかわからない。厳密に言えばわかったふりをしている。言葉にして訊くのは簡単だけど、相手が本当に私を《友達》として認識してくれているのか、真偽は定かでないのだから意味がない。

 そう考えてしまうと、何もかもが曖昧で、全てが漠然としたもののように思えて、恐くなった。自分だけがこの世界に孤立しているような感覚。存在を剥奪されてしまう錯覚。

 自分の顔を触ってみる。手にも顔にも感触はあるけれど、はたしてこの感触が私のものだといえる確証は、一体どこにあるのだろうか。背筋が震えた。

 問題は、不確かだとしてもこの世界が存在し、そしてこの先も存在し続けることにある。意義が揺らいだとしても消失はしないし、意味がひっくり返ったとしても、何も変わらない。

 それは、あってもなくても変わらない。

 自覚して、どうしようもなく不安になった。何も考えずにいられたとして、馬鹿になどできない。むしろそれこそが賢い選択。幸福そのもの。

 無知は罪。

 蜜は無知。

 忌々しい女、水瀬希はそれを踏まえたうえで、向き合っている。対峙している。

 憎たらしくて、羨ましくて、妬ましい。私と彼女の差異は、そんなにも大きいのだろうか。

 いや、きっと違う。彼女だって初めは絶望していたはずだ。孤独に喘ぎ、怯え、そして嘆いたはずである。伊藤悟と出会う前までは。

 では、私と彼女の差異を決定づけたものは何だろう。

「考えたところでわからないのですが……」

 ぼうっと考えながら、行き先を決めずに歩いていた。大学の周辺は閑静な住宅街。この辺りは街の喧騒から切り離されたように静かで、浮世離れした雰囲気がある。

 駅に向かおうか悩んだけれど、今は人混みを避けたくて、より静かな小道を選んで足を進めていく。次第に閑散としていき、陽が落ちた頃、私がたどり着いたのは寂れた小さな公園だった。

 無意識だった。だからこそ、戸惑う。ここは彼の住むアパートにほど近い、それこそ五分もかからない距離にある公園なのだ。

 苦笑い。自分がここまで未練たらしいオンナだったとは知らなかった。新発見。情けなさ過ぎて、笑うしかない。ひとしきり笑って、泣きそうになる。

 公園の敷地に足を踏み入れると、初めて彼を目にしたときのような感覚に襲われる。つまりは違和感。敷地内をぐるっと一周して、私は違和感の正体を突き止めた。

 三本ある電灯は点滅しているか、もしくは消えていた。点在するチープな遊具はどれも錆びついている。敷地の中央に深々と掘られた大きな穴と、その底に垂らされたロープ。

 この公園は、とっくの昔に公園としての役割を終えているのだ。

 けれど、続いている。終わってもなお、続いてしまっている。それは禍々しいというべきか、忌々しいというべきか、はたまた神々しいというべきか。

 ひっくるめて、気持ち悪いというべきか。

「私も似たようなものですね」

 呟いて、落ち葉の積もったベンチにそのまま腰を下ろす。もう何をする気にはなれなかった。眼を瞑る。葉のそよぐ音だけが聞こえた。

「あれ、あれれ。君はこんなところで何をしているのかな」

 しばらくして声をかけられた。ぎょっとして眼を開けてみると、そこには水瀬希が苦笑いを浮かべて立っていた。

 失敗した、こうなる前に早く立ち去るべきだった。けれど、立ち上がる気はしない。思っている以上に滅入っているらしい。

「別に……。理由はありません」

 こんなところにきておいて「別に」はないだろうと自嘲する。まだ、伊藤悟に会いにきたと開き直ったほうが信じてもらえるはずだ。

 しかし、予想に反して彼女は「ああ、ここ静かだもんね」と、納得したようにひとり頷いていた。嫌なオンナだと決めつけていたが、思っているよりもお人好しなようだ。

「隣り、いいかな」

 応えを待つより先に腰を下ろす彼女。自由奔放な振る舞いに、私は毒気を抜かれていく気がした。ちょっと自由過ぎる気もするけど。

「まだ許可してませんけど」

「公園はパブリックな場所ですよぅ」

 頭が痛くなる。テンションについていけずため息をつくと、彼女は不満そうに頬を膨らませていた。

「そんなに私といるのが嫌?」

 そりゃあ、あんなことがあったあとなのだから、いい気はしないだろう。無言を肯定と捉えたようで、

「まっ、そうだよね」

 彼女はおどけて言った。言葉と態度が乖離している。わかっているなら早く帰ってくれればいいのに。

 心の中で毒づく。まあ、口に出したところで、彼女はあっけらかんとしているのだろうが。

「あなたと私は、一体何が違うのでしょうか」

 無言でいることに疲れた私は、抱いていた疑問を吐露する。明確な答が欲しかったのである。

 けれど、人はは不確かだ。答は、そう簡単には手に入らない。水瀬希は一瞬驚いていたけれど、すぐに朗らかな笑顔を作り、首を横に振った。

「違わないよ。違わない。私と君はそう変わらないんだ」

「ならっ……なら、どうして……」

「私が、独りだったからかな」

 応えを聞いて、私は落胆した。それは小さな差異だけど、致命的な差異だったから。

 そんなもの、どうしようもないじゃないか。

 逃げ出したい気分に駆られて、私は立ち上がる。もう帰ろう。私はここにいるべきじゃないのだ。

 そのまま無言で敷地を出ようとすると、彼女も同じようについてきた。どうやら、彼女も帰るらしい。彼の元へ帰るらしい。

 敷地を出たところで立ち止まると、やはり同じく彼女も立ち止まった。つくづく嫌なオンナである。

「私はあなたが嫌いです」

「そっ、私は君を好きになれそうだよ」

 そう言って微笑む彼女は、とても嘘をついているようには見えなかった。確かなものに見えた。

 私たちは反対方向へと、歩いていく。

「嫌いですけど、仲よくはできるかもしれません」

 呟く。彼女の笑い声が聞こえた気がした。

 こうして、彼は奪われてしまった。

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