8.雨、降る、振る
冷たい雨はしとしととアスファルトを打ちつけている。
講義はとうに始まっていた。けれど、今はひとりになりたくて、自主休講。初めてのサボりに、少し緊張する。
手持ち無沙汰。行くあても、目的もないし、しかし、食堂に行っては本末転倒なので、人気の少ない八号館と十号館を繋ぐ渡り廊下へと向かうことにした。二階はもちろん、講堂の多い三階と四階も、友人と遭遇する確率は高い。念のため五階まで上がったほうがよさそうだ。
五階に上ると喧騒は遠のき、予想通り学生の姿はなかった。安堵のため息を吐いて、私は渡り廊下の端にあるベンチに腰を下ろす。やっと手に入れた安息に、少しだけ気分が楽になった。
固い背もたれに身体を預ける。ぼうっと天井を眺めると、思考に靄がかかっていった。伊藤悟を思い浮かべてみたけれど、焦点が合わず、輪郭がぼやけていて上手くいかない。あれだけ追い求めていたのに、私は彼を記憶できていないようだ。
苦笑い。よくよく思い出してみれば、私は彼の背中ばかりを見ていたのだ、憶えていなくても不思議ではないだろう。虚しくて切ない想い。私は、幻想を追い求めていたのか。
けれど、この気持ちはホンモノである。これだけは譲れない。たとえ直視できていなかったとしても、幻想だとしても、私は彼を想っているのだ。
だからこそ、現実から目を背けたくなるわけで。
「私は都合よく認識してしまったのです」
つまるところ、彼という存在の真偽はどうでもよかった。私の双眼を通して映るセカイこそ、真実なのだから。それ以外は知りようがないし、知ってから考えればいい問題である。
もう、どうしようもないが。
確認して泣きそうになる。それでも泣けないのは、学生が通るかもなんて、どうでもいい懸念があるからだ。泣けたら楽になるのに。私は面倒くさい女だった。
どっちにしろ人がいなくてよかった。涙こそ出なくとも、きっと酷い顔をしているはずだ。さすがに、こんな姿を衆目に晒したくはないし、相手だって晒されたくはないだろう。
……いや、そもそも興味を持たれないか。存外、人は他人に興味がないものである。私は、違ったけれど。
「馬鹿みたいですね」
呟く。結局、私は伊藤悟と水瀬希の真似をしているに過ぎない。孤独とは物理的な距離を言うわけではないのに。だからこそ、私には理解できなかった。
伊藤悟を、水瀬希を、私は理解できない。
身体が沈んでいく感覚に襲われる。きっと今は何をしても上手くいかないだろう。何となくそう思った。
雨音に耳を傾ける。いつの間にか勢力を増した雨は、忙しなく音を紡ぐ。点は線となり、微かに聞こえていた喧騒を呑み込んだ。絶え間ないさざめきは、静寂をもたらしていた。
心地いい。しがらみや煩わしさから解放された気分だ。けれど、それは刹那の幻想で、儚い願望。あくまでも、私の日常は友人達と過ごす日々である。しがらみを感じても、煩わしさを覚えても、今さら脱却などできない。
全てを捨てる覚悟があるならば、話は別だけど。
「ままなりませんね」
本当に。何もままならない。
小さくて狭い世界に、私は生きている。手を伸ばせば誰かにぶつかり、声を出せば喧騒に埋れてしまう。息苦しさを覚えるほど人が詰め込まれたこの世界に、私という個人はどれだけの意味を持つのか。
詮ない話だ。いくら考えたところで何も変わらないし、カテゴリの外に出る勇気もない。私は私でしかないのだから。
もう考えたくなくて、視線を動かして空を見上げる。空は分厚い雲に覆われ、仄暗い。私の心を写しているような錯覚に戸惑った。
「こんなとこにいたのか、佐々木」
しばらく空を眺めていると、不意に呼ばれた。この場には不釣り合いな声に、私はため息をつく。静かに静寂は壊される。
声のした十号館の方へと視線を向けると、笑みを浮かべた松下がこちらに歩いてきていた。
「講義、もう始まってるけど」
松下はそう言い、私の隣へと腰を下ろす。どうやらこの人も講義に出るつもりはないらしい。サボるならどこか楽しいところに行けばいいのに。
やっぱり上手くいかない。現実逃避に上手くいくもあるのかは疑問だが、知人がこの場を訪れたのだ、失敗ではなくとも成功でもないだろう。
「今さら向かっても、逆に混乱しますから。何か用ですか? 用がないのなら私はもう行きますけど」
ひとりになりたくて自主休講したのだから、こうして一緒にいたら、サボった意味がなくなってしまう。そうでなくとも、私はこのオトコと関わりたくないのである。執拗なアプローチはもう懲り懲りだった。
「まってまって、ある。用はあるんだ」
焦ったように言う松下。用があるなら早く言って欲しいものだ。わざわざ私の反応を見る必要なんてないだろう。
「それで、なんですか?」
「いや、えっと……。あのさ、うん。なんていうかな、ちょっと話があるというか……」
煮え切らない態度に苛つく。私が急かしている理由を考えていないのだろうか。いや、松下は考えても思い至るまい。ここで思い至るようなら、もう少しいい関係を築けているはずだ。
苛つきが表情に出てしまったのだろう。松下は露骨に萎縮した様子で「あの、えっと」とどもりだした。そういうところだとは指摘しない。私だって空気は読むのである。
「話、あるんでしょ」
嘆息して気を持ち直す。苛ついていては何も進展しないし、長引くだけだ。進展させる気なんてないけれど、それでも一応は同じグループに属しているので、あしらうにしても気をつける必要があった。
こういうやり取りが面倒くさいと心から思う。だから、彼に惹かれてしまったのだろうか。一人で納得する。
「うん。それでさ……、俺、君のことが好きなんだ」
油断していたわけではない。けれど、意を決して言う松下に、私は気圧された。それだけ。冷静になる。やはり私はこの人があまり好きではないらしい。嫌いと言うほど負の感情を持っていないし、嫌いになるほど親しくもないのだが。
無関心。たぶん、私は松下に興味がない。興味が湧かない。それすら今気づくほどに。答えは決まっていた。
「そうですか。申し訳ないのですが、お断りさせて頂きます」
「……そう、か。ちなみに、理由を訊いてもいいかな」
「さあ。理由なんて好きじゃないからとか、そんな感じですよ」
私は立ち上がる。もう用は済んだのだから、ここで一緒にいる必要はないだろう。お互いのためにも、私たちは一緒にいない方がいい。傷つくだけだ。
では、とお辞儀をして、私は八号館の方へと歩きだす。すると、松下は、
「諦めないから。好きなんだよ。誰にも譲れないくらいに」
そう私の背中に向けて叫んだ。雨音を切り裂く、張り詰めた声だった。
私は振り返らない。感情を恥ずかしげもなく吐露する松下の姿は、まるで性別の違う自分がいるようで直視したくなかった。気持ち悪い。
「その気持ちは、少しだけわかります」
呟く。気持ち悪い。私もオトコも気持ち悪い。
私たちは似ている。似ているだけで、絶対に交わらないけれど。
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