7.手を伸ばして
四限の終わりを告げるチャイムが鳴る。
教授が手に持ったチョークを教卓に置くと、次第に講堂はざわめきを増していった。学生は筆記用具を鞄にしまいながら、隣に座る友達とつまらない会話をする。そうしてしばらくすると、席を立ち、講堂を後にしていく。
そんないつも通りの光景に、私は胸が痛む。感傷的になっているだけだと自覚していても、痛みはなお引かない。もう終わったのだと、そう告げられているような錯覚に苛まれた。
終わりたくなかった。いや、厳密にはまだ終わっていない。そもそも始まってすらいなかったのだから、終わりようがないのだ。
終わりではなく、崩壊。私の想いは自壊する。
バラバラと、音を立てて崩れ墜ちていく。
落ちる残滓は儚げに輝き、刹那の夢を見させる。手を伸ばせば届く距離。私の斜め前に座る彼。手を伸ばそうと決心したとき、彼は立ち上がり、そして講堂の外へと歩き去って行った。
空虚を掴む感覚。伸ばし損ねた手は空を切って、だらしなく垂れ下がる。視線は出入り口に釘付け。本当ならなりふり構わず追いかけたいのに、どうしてか身体は重く、動ける気がしなかった。
遅効性の毒を呑んだ気分。もちろん、毒なんて呑んだことはないけれど、じんわりと私の身体を蝕む想いは、きっと毒に相違ないだろう。だから、今、私は動けずにいる。毒が回りすぎて。動けない。
自嘲する。この苦痛も悲痛も、いつかは忘れてしまう一過性の感情だ。いつかは忘れてしまう。そんな感情に振り回されるなんて、実にくだらない。馬鹿馬鹿しい。
そう思うのに、どこからか湧き上がる感情の奔流を、私はせき止められなかった。
どうでもいいことか。あとは時間が解決してくれる。半年なのか一年なのか、はたまた十年なのかはわからないが、いずれにせよいつかは風化するのだ。もう放っておくしかない。
胸の痛みに耐えて、涙を堪えて、悲しみを紛らわして。そうやって騙していくしかないのである。少なくとも今は。
よし、と私は思考を切り替える。切り替えられたかは疑問だが、切り替えようという心意気が重要なのだと信じたい。
私は長机に散らかした筆記用具を鞄にしまっていく。ルーズリーフは真っ白。講義は座っているだけで、板書はおろか教授の話すら聴いていなかった。授業料を無駄にしているよな、なんて思ってみたり。
準備を終えて立ち上がると、隣に座る有希に袖を引っ張られた。私が男だったらきっとときめくのだろうけど、生憎私は女なので何とも思わない。むしろ、今はもうここにいたくなくて、逃げ出しくなっていたから、できるだけ早く離して欲しかった。
振り払うこともできたのだが、さすがに友人を冷たくあしらうのは気が引けた。だけど、気を使う余裕もないので、
「離してください」
と、一言。出そうとしていた声よりもずっと、棘のある声音になってしまった。ほんの少し申し訳なく思いつつ、自己嫌悪。だから、早く離して欲しいのに。
しかし有希は、関係ないと言わんばかりににこにこと微笑み、私の袖を掴んだままゆっくりとした動作で立ち上がった。
「うーん、ちょっと離せないかな。……そんな表情しないでよ。ほら、ゆっくり話したいかなって」
有希はそう言うと、ふわふわとした雰囲気とは裏腹に、有無を言わさぬ力強い足取りで私を引っ張り、どこかへ向かって歩きだした。私は抵抗を諦めて、おとなしく引っ張られる。これではまるで、だだっ子と母親だ。
たしかに、私はだだっ子だろう。あのときはそう、だだを捏ねていた。嫌だ、置いていかないで、と。みっともなく、みすぼらしく。思い出して死にたくなる。なるだけだけど。
廊下を進み、階段を上る。しばらくして、有希の足が止まったのは八号館と十号館を繋ぐ渡り廊下だった。五階まで上った甲斐あって、喧騒は遠のき、周囲に学生の姿もなく、静閑としている。有希は納得したように「うん」と頷き、私は端にあるベンチまで再び引っ張られた。
私たちは腰を下ろす。さすがにここまできて反抗するほど子供ではない。それに、いつかは話すことになるのだから、遅いか早いかの差でしかなかった。
「ここ、構内の穴場なんだよ。特別に教えてあげる。いい場所でしょ」
「ええ、確かにいい場所だと思います」
本当に。大学にこんなに静かな場所があるとは驚きだ。現実逃避をしたくなったらここにこよう。心の中で呟く。
「約束したよね」優しく言う有希。「慰めるって」
「約束ではなかったように思いますけどね」
「それでも……ごめん。私が無責任なこと言ったから」
申し訳なさそうに頭を下げる有希の声は震えていた。責任を感じ、泣いているのかもしれない。そうだとしたら誤解だ。有希は悪くないし、責任を感じる必要すらないのである。
最初から、手遅れなだけだったのだから。
勝手に舞い上がり、突撃しただけなのだから。
「面を上げてください。違うんです。あなたのせいじゃありません」
「でも……、私が言わなければ、こうはならなかったでしょ」
「いえ、遅かれ早かれですよ」
水瀬希の存在を知るのがいつかの問題であって、どう足掻いても結果は最初から決まっていた。有希は悪くない。それどころか、早くに結果が判明したということは、傷が浅くて済んだとも言える。感謝こそすれど、責める気なんて毛頭ないのだ。
事情は知らない有希は納得できないのか、勢いよく顔を上げ、私の双眼をじっと見据えて、
「なら、私にできることは何?」
と静かに言った。その潤んだ瞳は真剣そのもので、とても何もないとは応えられないような凄みがあった。
迷惑とは思わない。単純に嬉しいとさえ思う。たとえ裏があったとしても、打算的な言葉だったとしても、この時に限って言えば、救われた。
「少しだけ……、もう少しだけこの手を離さないでください」
「うん、気が済むまでお好きなように」
人肌を求めていたのかもしれない。有希の手は、私のよりずっと温かかった。その温もりに、凍った心が溶解していく気がした。
たとえこの温もりが刹那的なものだとしても、すぐに寂しさに襲われるとしても。
少なくとも今は、寂しくなかった。
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