6.薄まっていく

 伊藤悟のことを考える。

 今、何をしているのかとか、元気なのかとか、水瀬希と上手くやっているのかとか、何を考えているのかとか。そんな些細なことを考えてしまう。

 彼がいても、いなくても。私は伊藤悟を考えてしまう。

 つまり彼は、いてもいなくても変わらない、曖昧な存在。漠然とそう考えてしまう私にとって、彼は一体何だったのだろうか。今となっては意味のない疑問を心の中で投げかける。

 答は出てこない。伊藤悟が曖昧な存在だとして、その彼によってもたらされた私の感情もまた曖昧模糊としているから。考えるだけ無駄なのかもしれない。

 遠ざかる彼の背中を思い出す。私は拒絶された。はっきりと明確に、拒絶されたのだ。それまで受け流されてきただけに、そうしてはっきりと答を出されたことを嬉しく思う反面、やっぱり悲しいと思う私もいる。何だかもう、わけがわからない。

 思考回路が逆回転している感覚。自分の存在があやふやになっていく気分。怖くて寂しくて悲しくて、泣きそうになるけれど、ぐっと堪えて普段通りを装う。

「ねえ、聞いてる?」

 有希に声をかけられて、私の意識は急速に現実へと引き戻されていく。自分の世界に閉じ籠っていたらしい。現状確認。昼休みに中庭にて、私は属するグループの面子で昼食中。まあ、私も含めてみんな食事は終わっているのだが。

 居心地の悪さを覚えたので周囲に視線をやると、みんなの視線を集めていることに気がついた。

 雰囲気から察するに、何かを決めていたのだろう。きっと飲み会の企画か遊びの予定あたり。有希の言葉は、参加の確認か意見を求めてきたのか、いずれにせよ、私の反応待ちだった。

 はて、具体的な話題は何だったのか。会話を思い出そうとしてみたけれど、友人達の言葉は、聞き流す以前に耳まで届いていなかったので、そもそも記憶になかった。

「えっと……すいません。ちょっとぼうっとしてました」

 軽く頭を下げる。罪悪感。こんなことならひとりで食べればよかった。彼と彼女と修羅場を演じて以来、どうにも私は上の空で過ごす時間が増えている。考えないようにしても彼を想ってしまうのだ。以前よりもずっと、私の中で彼の存在は大きくなっているのである。友人達の存在が霞むほど、伊藤悟の存在感は増している。

 だから、罪悪感。彼の存在と友人達とを天秤にかけてしまう自分が嫌だった。私にとって友人達の存在は一体何だろう。やっぱり、考えてみても答は出ない。

 何もかもが曖昧だ。

 けれど、それは……。

「やや、珍しいねっ。寝不足かな?」

 茶化すように言う有希。再び思考の渦に飲み込みかけられた私は、その明るい声によって救出された。精神論は後にしよう、それよりもこの場をどうにかしなければ。

 今はまだ、悟られたくはないのだ。

「ええ、まあ……夜更かしが続いてまして」

 嘘ではない。ただ、色々なことを考え込んでしまって寝るに寝れないだけだけど。

 有希は訝しむように、へえふうん、と私を見据える。勘のいい有希のことだから、もしかしたら察しられたのかもしれない。けれど、確信はないのだろう。有希は「やっぱり珍しいね」と微笑み、それ以上は追求してこなかった。

「たしかに珍しいな。まあでもそんなときもあるよ。俺も昨日は朝方までゲームしてたし」

 向かいに座る松下が笑う。それに同調するように、他の男性達も頷いた。松下のおかげで空気が和む。普段あまり関わらないようにしていたので気づかなかったが、この松下がグループの仲を取り持っているようだ。

「それでさ、四限終わったらカラオケに行こうって話だったんだけど、君はどうする?」

「すいませんが、私は遠慮させていただきます」

「うい、了解。じゃあ五人だね」

 松下はあっさりと言った。別に悪意はないだろうし、言うなれば私の被害妄想だけれど、何となく、お前がいなくても大丈夫と言われているような気がした。まったく、面倒くさい女だ、私は。

 それから、私は昼休みが終わるまでぼんやりと、待ち合わせの時間や、場所を決めるみんなを眺めていた。ときどき相槌を打ったり、みんなと合わせて笑ったり。そんないつも通りの時間を過ごしたのである。

 そう、この時間こそ日常。

 なのに、どうしてこうも苦痛に感じてしまうのだろう。

 

 本日最後の講義を終えて、私はひとり帰路へつく。

 結局、覚えた苦痛の正体を見破れぬまま、また払拭できぬまま、私は静かにグループの輪から外れた。たぶん、友人達は私がいなくとも、いつも通り過ごしているはずだ。そう思うと、醒めていく私。

 別に、自分の存在に大きな価値や意味があるとは思わない。しかし、それでも誰かに求められたいと願うのはおかしいのか。

 これでは私も、いてもいなくても変わらない、曖昧な存在ではないか。友人達にとって、私は一体何だろう。

 考えるまでもなく、答は出なかった。

 きっと答なんてないのだ。私達がしがみついてきたのは、どうしようもなく不明瞭で不明確なものでしかない。群体の中において、一個人の意義や意味は存在しないに等しいのである。つまり、私の代わりはいくらでもいる。

 友人達の代わりだっていくらでもいる。

 それなのに、どうして伊藤悟の代わりはいないの。

 彼は特別だ。群体に弾かれ、マイノリティにすら分類されず、孤独に生きている。カテゴライズされなかった彼は、唯一の存在を手にしているのだ。私達の言う個性とは、全く別の概念。彼は世界の外にいる。

 だから、世界の外から眺める彼からしてみれば、世界の内側にいる私は隣にいる誰かと同じようにしか見えていない。

 私にはかけがけえのない存在だけど、彼にはどうでもいい存在。

 それが私と彼のお互いの認識の差だ。こればかりはお互いの立場が違うのだ、仕方がない。そう割り切れれば、どれだけ楽か。

 彼はいてもいなくても変わらない、曖昧な存在。変わらないけれど、代わりはいない。どこを探してもいないのだ。

 堪えきれず、涙がこぼれた。もうひとりなのだ、何も気にする必要はない。

 だから、せめて今だけは、泣いてもいいだろう。

 悲しみと出会う前に、私は泣いた。

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