5.遠ざかる

 大学の帰り道、伊藤悟と水瀬希のデート現場に遭遇した。

 そりゃあ彼は大学の近辺に住んでいるのだから、こうして遭遇しても不思議ではない。ただ、私と遭遇する可能性を考慮しろよ、とは思う。

 デートと言うにはあまりにも質素だし、雰囲気だって仲睦まじいというよりは和やかと表現するほうが適切だと思うけれど、それでも彼らしく彼女らしいその寄り添う姿を前に、私の感情は羨ましさや微笑ましさを超越し、憎悪へと転化する。

 別に彼と彼女がデートするのは構わない。いや、本音を言えば構いたいけれど、悔しいことに私には口を挟む権利も資格もなかった。全てが曖昧かつ中途半端で、不明瞭だから。何を口にすればいいのかすら、わからないのだ。

 伊藤悟と水瀬希は恋人ではないと言う。さらには友達というわけでもないらしい。しかし、ふたりは同棲している。この段階で、理解不能。思考停止。価値観の相違。勿論、兄妹でもないし、親族でもない。まあ、ここまではまだいい。よくないけれど、諦める。きっと私にはわからない世界があるのだろう。そう無理矢理にも納得する。できないけれど。

 でも、彼と彼女の関係よりも。

 私と彼の関係をはっきりさせて欲しい。果敢にもアプローチを続けてきたけれど、手応えどころか反応すら返ってこないとはどういうことか。のらりくらり躱されたり、強い意志で拒絶されるなら納得、もとい諦めがつく。それがなんだ、正面から受けとめはしても、そのまま放置するなんて。

 許容はするけど、肯定も否定もしない。

 では、私はどうすればいいのだろうか。

 意地になっているだけだということは、自覚している。振り向いてくれない彼と、アプローチを邪魔する忌々しい彼女。上手くいかなすぎて苛々する。

 実にわかりやすく安っぽい展開だ。燃えるような恋を望む人にはあつらえ向きな障害と言えるけど、残念ながら私には必要ない。重要なのは結果である。彼にはとっとと振り向いて欲しいし、彼女は邪魔をしないで欲しい。

 それでも、デートを咎める気はない。ふたりの問題だから。しかし、順序があるだろう。メールひとつ返さずに、何もはっきりせずにいるなんて、あまりにも誠意がなさすぎる。

 ……癪に障る。どうして何事もなくすれ違おうとしているの。やましい気持ちがあるから? それなら話し合えばいいじゃない。無視なんてしないで。眼を逸らさないで。向き合ってよ。向き合いなさいよ。嫌なら嫌と言いなさい。口にしなければ伝わらないの。私は超能力なんて使えないしあなたにだってない。私は人間であなたも人間。対話以外に相手の気持ちを知る方法なんてないんだから。甘えないでよ。私は諦めないわ。あなたが答を言うまで、ずっと問う。何度でも、何度でも。

 私はここにいる。彼女はそこにいる。

 あなたはどこにいる?

 血管が膨張する感覚。視界は狭窄し、彼と彼女だけを捉える。雑音は遠のき、ふたりの足音が私の耳に届く。

 気がつけば私は、何食わぬ顔ですれ違おうとする彼の腕を掴んでいた。

 彼女が嘆息する。私の気持ちを知っていて、なおそういう態度をするのか。きっ、と睨みつけると、彼女ものほうも睨み返してきて、見えない火花が飛ぶ。どうやら対立するつもりらしい。望むところだ。

「あなたは、彼とどういう関係なんですか?」

「君に話す必要が見つからないのは、気のせいじゃあないよね」

 彼女は、まるで私には関係ないというように言い放った。確かに、ふたりの問題に私が口を挟む必要はないし、その気もない。しかし、これでは埒が明かないばかりか、またはぐらかされてしまう。

 彼女への追及を諦め、私は無言で伊藤悟に視線を向ける。彼は私の意図を汲んだのか、面倒くさそうな表情で、

「一緒に暮らしているんだよ」

 と、事実を口にした。以前、彼女にも同じことを言われたが、改めて彼の口から発せられた言葉に私は動揺を隠しきれなかった。

「……あなたは、恋人はいないと、以前に答えましたよね。どういうことですか?」

「別に、理由なんてないよ。恋人じゃあない。ただ一緒に住んでいる。それだけ」

「ルームシェアリングということですか?」

「違う。僕の部屋に、彼女と二人で住んでいる」

 沈黙。私には彼が何を言っているのか、何を言いたいのか理解できなかった。家族以外の異性と同居していて、ただ一緒に住んでいるだけということがあり得るのだろうか。もしあると言うのなら、それこそ動機も理由も必要だ。まだ、情婦を囲っているみたいな、下世話な理由のほうが信じられる。

 もし彼女が情婦だとしたら説明をしたくないのも頷けるのだが、こうしてよく観察してみると、どうにもふたりには男女の雰囲気というものを感じられない。

 たぶん、彼の言葉は真実なのだろう。恐らくふたりにも、お互いの関係を形容する言葉を知らないのだ。ならば、私の質問は意味を持たない。切り口を変えるしかなさそうだった。

「よくわかりません。が、ここは置いておきます。ではあなたがたは、相手に恋人ができたらどうするつもりなのですか?」

 そう口にしたとき、彼女は、彼を掴む私の腕を振り払った。どうやら彼女は我慢の限界を迎えたらしい。だけど、それは私だって同じだ。この不毛な問答をいつまで続けたくなどはない。

「さっきから私たちの話でしょう。あなたに踏み込まれる筋合いはない。いい加減どいてよ」

 黙っててくれればすぐ終わる。だから邪魔するな。そう意味を込めて、

「それこそ、あなたに聞いているのではないのですから、関係ないでしょう。私が彼に何を言おうと、どうなろうと私の勝手なはずです」

 吐き捨てる私。どうして私と水瀬希が揉めなければならないのだ。気に食わない女ではあるけど、わざわざ喧嘩をしたくはないのである。

 また口論になるのか、と陰鬱な気分になっていると、予想に反して彼女は踵を返し、彼を置いて独りで歩きだした。やってられるか、とでも思ったのだろう。少しだけ罪悪感を抱く。

 すると彼は「どこにいくの?」と間抜けな言葉を発した。自分が原因だと自覚していなようだ。きっと彼は彼女が去った意味すらも理解していないのであろう。

 嫌気が差してくる。けれど、ここで逃げ出しては彼女の取った行動が無意味になってしまう。そう思うと私は、彼女を追おうとする彼の腕を掴んでいた。

「まだ、話は終わっていません」

「僕としてはもう終わっているんだけど」

「あなたにとって彼女は何ですか?」

「また質問か。別に君には関係ないよ」

「……私じゃ駄目なんですか」

「僕は君が苦手なんだ」

 その言葉を聞いて、何故だか安心した。彼は私の腕を振り払い、彼女を追って駆け出す。遠くなる彼の背中を眺めながら、彼女が羨ましいと素直にそう思った。

 やっぱり、好きなのではないか。

 遭遇したのは、あまりにも不器用な彼と彼女。

 曖昧で漠然としたふたりは、私よりもずっと瞭然としたものに見えてしまった。

 私の入る余地など、最初からないではないか。苦笑いするしかなかった。

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