4.揺れる
タイミングを伺う。早くても遅くてもいけない。絶妙かつ絶好のタイミングが絶対に訪れるはずなのだ。
伊藤悟は学食をトレーに乗せ、空いている席に座った。食堂が混む時間を避けたのだろう。三限が空白なのを利用して、遅めの昼食と洒落込むつもりらしい。メニューはカレー大盛り。かなりの空腹と見た。
食堂はピークを過ぎているとはいえ、少なくない学生によって賑わっていた。これでもピーク時に比べれば半数以下なのだから辟易とする。昼休みは席取り戦争と化すので、全く心休まらない。その戦争に参戦したくなくて中庭を利用したり、弁当を持参する学生も多い。かく言う私も中庭派である。
彼がカレーを食べ始めたのを確認して、私はカウンターに並び、カレーを注文する。給仕のおばさんからカレーの注がれた深皿を受け取り、トレーに載せて会計へ。夏野菜カレー三百五十円也。
準備完了。あとは、もう突撃のみ。
「あら、こんな時間にお昼ですか?」
偶然を装い、何度もシミュレートした言葉を白々しく口にする。そうして応えが返ってくる前に、流れるような動作で彼の向かいの席へとトレーを置き、私は当然と言わんばかりに堂々と腰を下ろした。
私があまりにも堂々としているからだろうか。彼はカレーを乗せたスプーンを口に運ぶ途中、中途半端な高さに持ち上げたまま固まっていた。混乱している様子の彼はちょっと可愛い。
さて、このままでは会話にならないし、伊藤悟のほうも現状が把握しにくいだろうから、私は次の言葉を考える。あくまでも目的は彼の意識を私へと向けることにある。無言のまま昼食を摂るのでは意味がないのだ。
「驚いていらっしゃいますね。たまたまあなたを見かけたものですから、声をかけたんです。ほら、前は逃げられてしまったでしょう」
苦々しい記憶を呼び起こす。つい先日、意を決して彼の住むアパートを訪ねると、ドアの内側から忌々しい女、水瀬希が現れたのである。水瀬希は、彼の部屋の内側から解錠し、まるで自分の住まいのように、ドアを開けたのだ。
水瀬希との邂逅の瞬間はもう、時間が引き伸ばされたように長く感じ、そして落雷を間近で見たような衝撃だった。たぶん、彼女のほうも、ただごとではないと思ったのだろう。刹那ののちに驚愕は姿を隠し、次いで表れたのは警戒だった。けれど、それは私も同じだ。彼のことを知る私と彼女からすれば、どちらの立場にしても、異常事態には変わりないのである。
だから、お互い油断も隙もなかったように思う。ただ、地の利は相手にあって、そのときは《まだ》彼と明確な接点を持っていなかった私は戦略的撤退を余儀無くされた。さすがに扉の内と外では、外に分がないのは明らかだ。
苦虫を噛む思いだったけれど、疑われてありもしないことを彼に報告されては困る。私は探究者であって、ストーカーではないのである。
泣く泣く駅まで撤退すると、運は私に味方した。なんとチェーンの喫茶店で彼を発見したのだ。はやる気持ちを抑えつけ、私は今のように自然の流れに身を任せて、彼の向かいの席へと腰を下ろした。そこで、念願であった連絡先を交換し、晴れて大学の一同級生から連絡先を知る知人にまで昇格したのだ。
しかし、二人の出逢いを邪魔したのはまた忌々しい女である。おかげで、彼はすぐに帰ってしまった。ああ、今思い出しても腹が立つ。
とにかく私は、彼の連絡先入手を契機に、関係の進展を目標として、アプローチをかけることにした。水瀬希というぽっと出のイレギュラーな存在に、彼を取られて堪るものか。
それに、彼と彼女の関係が曖昧なうちに狙わないと勝機は薄いだろう。どうにもふたりは私の語彙では形容できない関係らしい。同じ部屋で生活しているのに、彼も彼女も、お互いを恋人ではないと言うのだから、最早理解不能だった。
まあいい。
むしろ、狙い目だ。現状戦況は芳しくないけれど、付け入る隙をわざわざ相手が用意してくれると言うのならば、ありがたく利用させてもらおう。
そう、決意を改めていると、彼は持ち上げたスプーンを口には運ばず皿に戻していた。やっと思考回路が再び機能しだしたようだ。
「うん、あのときはごめん。それで、どうして君はここにいるの?」
訝しむように、真っ黒な瞳を私に向ける彼。その漆黒に、私は吸い込まれるような錯覚に陥る。
私は気を持ち直して、
「先ほども説明しましたが、偶然あなたを見つけたので声をかけました」
はぐらかした。
もちろん、彼がこんな説明を求めていないことはわかっている。それでも、この場は鈍いフリをしなければ、私は立ち去らなくてはならないのだから仕方がない。
「いや、そうじゃなくて。ほら、今の時間なら他にも席あるんだから。わざわざ僕の前に座らなくてもいいんじゃないかな」
「席は他にもあるけれど、あなたはここにしかいないでしょ?」
「そりゃあ僕が何人もいるなんて、ぞっとしない話だけどさ」
ため息混じりに、うんざりとした様子で言う彼。その気持ちには、私も同意するところだ。彼が何人もいたら、きっとこの空間はとても居心地が悪いことだろう。彼は人を不安にさせる雰囲気があった。
「そういう意味ではないのですが……。それより、カレー冷めてしまいますよ」
「それこそ言葉の意味、本当はわかっているんだろ?」
「さあ、何のことだか」
私はジェスチャーを混じえておどける。そんな態度に、彼は呆れたようだったが、追及するのを諦めたのか、黙々とカレーを食べ始めた。
「ひとつ訊いてもいいですか?」
なに、と彼はスプーンを口に運びながら、続きを促した。私は彼を不愉快にさせないように言葉を選びながら、慎重に続ける。ここで嫌われるわけにはいかないのだ。
「どうして、あなたには友達がいないのですか? こうして話しをしていると不思議に思うのです。あなたには嫌われるだけの要素がない。それなのに友達はおろか、知り合いがひとりもいないとは、ちょっと不自然すぎるように感じます」
実際、人格に難がなく、ある程度普通の生活をしていれば自然と人付き合いは生まれるものである。友達とまではいかなくとも、知り合いぐらいはいるものだ。多かれ少なかれ。社会で生活している以上、多寡はあっても零はおかしい。
「……じゃあ僕からも訊かせてもらうけど、君の友達は、本当に友達なのかな」
彼はスプーンを口に運ぶ途中、とんでもないことをなんでもない風に言った。質問返しはマナー違反だと思うけれど、その言葉があまりにも強烈で、そんなことを指摘する気にはなれなかった。
「え、ええ、友達ですよ」
「へえ、君の主観でしかないのに。断言できるんだ」
「……何が言いたいんですか」
「別に、深い意味はないよ。ただ、不思議なんだ。どうしてそこまで相手を信じられるのかな、てね」
「信じられないから友達ができないとでも?」
「いや、便利な言葉だなと思っただけだよ」
彼はトレーを持って立ち上がる。気がつけば彼はカレーを食べ終えていた。
「じゃっ、食べ終わったし僕は失礼するよ」
私は話すのに夢中でほとんど手つかずなのだが、彼は私が食べ終わるまで待つ気はないらしい。
何かを言わなければ。わかっているのに、何も思いつかない。そんな私を数秒見下ろして、彼はそのまま食器返却口へ向けて歩きだした。
「そんなこと気にしていたら……」
呟く。彼のことをわかった気がしていたけれど、そんなことはなかったようだ。私の価値観が根幹から揺らされた気分。突撃は失敗だったのかもしれない。
どうして彼は、あんな風に世界を捉えてしまうのだろう。
去り行く彼の背中を眺めつつ、ぼんやりとそんなことを考えた。
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