3.決める
ぽっかりと、心に穴が空いた感覚。
失って初めて大切さを知ると言うが、私の場合、知ったのは退屈だった。読み終わっていない小説を取り上げられたような気分だ。問題なのは、小説を一冊しか所有していないということ。
小説がないならゲームをすればいいなんて、マリーアントワネットさながらの発想の転換をしてみたけれど、ゲームもコンピュータもなかった。つまり、代替が利かない。
だだっ広い部屋に、ひとりで佇んでいる錯覚。退屈をしのぐには、娯楽がなさ過ぎる。やらなければいけないことはあるので、暇ではないけれど。
ため息が漏れた。講義開始五分前の講堂は、学生で溢れかえっている。座席が埋まり喧騒に包まれたこの光景も、最初の数回こそ圧倒されたが、今や見慣れてしまっていた。それなのに、伊藤悟がいないというだけで、どうしてこうも退屈な光景に見えてしまうのだろうか。
異常事態ではあると思う。友達のいない彼にとって、講義を欠席するということは、かなりリスクの伴う行為なはずだ。ノートを借りる相手がいないのだから、補填のしようもないし、そうなれば期末試験にも影響を及ぼす。そんなことは本人が一番わかっているだろうから、リスクを天秤にかけてでも欠席する重大な理由が発生したということになる。
けれど、それは私には関係のない話だった。と言うか、友達ですらない私にはどうしようもない。冷たいかもしれないが、連絡先も知らないし、この場にいないとなると手の施しようがないのである。できることと言えばあとからノートを貸すぐらいだろう。それはそれで構わないが(むしろ接点を持てるので願ったり叶ったりと言えるけれど)現状、この退屈をどうしのげばいいのか、私は困惑していた。
伊藤悟を見かけなくなってから、三日が経つ。
私にとって彼の観察は最早日課となっている。勿論、私の眼は彼の私生活にまでは及ばないので、観察した気になっているだけなのだが。
……嘘です、ごめんなさい。数回、彼のアパートまで追跡してしまいました。誰にともなく心の中で謝罪する。どうにも私は自制が足りないらしい。ストーカーはこうやって生まれるのだと察する今日この頃。
なんだかなあ。
こう、うじうじ考えるぐらいなら、いっそ彼の住むアパートへ突撃したほうがいいのかもしれない。病に伏している可能性もあるし、そうでなくとも何か困った事態に陥っているのなら助言ぐらいはできるはずだ。彼の身を案じる気持ちは本心なのだから、口実としては悪くないように思えた。
ただ、問題は彼の住処を知る理由をどう説明するか。さすがに、真実を口にすることは憚られる。いくら変わり者の彼であってもストーカーに助けられたいとは思わないだろう。いや、私はストーカーではないけれど、友達ですらない女が突然訪ねてきたとしたら、そう思われても仕方がない。
八方塞がりだった。いくら思索しても、私と彼には接点が少なすぎて、ストーカー的要素を排除すると何も残らない。一番無難かつ妥当な言い訳が《偶然目撃したから》というあたり、関係の希薄さを表している。これを実行するのはもう少しお近づきになってからにしよう、と心の中で呟いた。
さて、住居を訪ねられない、もとい訪ねる理由がないとなるといよいよどうしようもない。彼が自力で復帰してくるまでおとなしく待機するほかないようだ。
そして、結局原点回帰。
「……退屈です」
「ん、急にどうしたの。いつにもまして難しい顔してるよ」
独り言のつもりだったが、有希は可愛らしく首を傾げていた。私にもこういう気さくさと愛嬌があれば、もう少し簡単に彼と仲よくできるのに。ある意味、この友人には学ぶべきところが多い。こうなりたいとは、思わないけれど。
「別に、特に何というわけではないのですが……」
何もないから退屈なのである。しかし、友人に面と向かって《退屈だ》なんて、お前といてもつまらないと宣言しているに等しい。当前、有希に落ち度はないし、伊藤悟のことを話す気もなかったので、私は言葉を濁すしかなかった。
有希は私の意図を察したうえで、口角を上げる。悪巧みをする子供のような表情だった。
「なになに、おっと。その表情は恋煩いだねっ」
「違います。どうしてそうなるのですか」
「だって物憂げにあの辺りを眺めてたじゃない」
そう言って有希は、普段伊藤悟が座る辺りを指差した。今日は彼がいないので別な人が座っていた。
そんなに熱心に眺めていたのか。指摘されるまで、全く気づかなかった。無意識。隠しているつもりはなかったけれど、いざ指摘されると緊張する。
「ええ、まあ。けれど、ぼうっとしてたので意味はないです」
だから、誤魔化すような口調になってしまった。もちろん、有希は見逃してくれない。
「嘘だね。と言うか、無意識に眺めていたのだとしたら決定的だよ。それで、どんな人」
「……変な人です。私にもよくわからないというのが、正直な感想ですけどね」
私の感情も、彼のことも。よくわからない。
拗ねたように言うと、有希はおかしそうに笑った。あまりに楽しそうに笑うものだから、嫌な気分にはならない。ある種の才能だ。
「へえ、一度お目にかかりたいものだね。まあさ、わからないなら直接訊いてみたらいいと思うよ。あなたのことを教えてくださいって」
「それができたら……」
苦労はしない。きっかけもなく、唐突に声をかけられたらどう思うか。少なくとも私なら警戒する。警戒して突き放す。たぶん、私じゃなくてもそうするだろう。
私の気を知らずか、有希は平然と言う。
「苦労しないってか。まあ、気持ちはわからないでもないけど。でも、言うほど難しいとも思わないんだよね。ほら、案外単純なものじゃん」
この世界のことなんて。そう締め括った。有希のおどけて言う姿に、私は感心する。なるほど、たしかに単純である。
声をかけるか、かけないか。つまるところ二択でしかない。周囲の眼を気にし、相手の感情を邪推し、話をややこしくしているのは私自身なのだ。
「その通りなのかもしれません。近いうちに声をかけてみます」
「うん、それがいいよ。玉砕したら慰めてあげる」
そうして私たちの笑い声は重なった。不思議とさっきまでの退屈はもうない。胸の内には高揚感。
とりあえず、今は彼が再び大学にくるまでまとう。
私は期待を膨らませて待機する。早く復帰して欲しいと願いつつ。
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