第2話(現実Fall, Fall, Fall)

スラッと背が高く、最上階では富士山を拝むことができる、真新しいマンション。

住んでいる階層によって、奥様方のヒエラルキーが変化するこのマンションの6階に、僕たち一家は住んでいた。

玄関ドアを開けると、室内から男女が愛を囁く甘い声が聴こえる。

それだけで母が今、リビングにいることを知った。


玄関で靴を脱ぎ、一直線にリビングへ向かう。


「おかえりー、ご飯できてるわよ」


母はだらしなくソファに寝そべり、肩肘をつきながらテレビドラマを見ていた。

曰く、奥様方の9割が視聴しているという、男女が別れたりくっついたりを繰り返すメロドラマだとか。

僕はすかさず、父さんがすでに帰宅しているか尋ねた。


「まだ定時じゃないし、それに今日も残業で遅くなるって言ってたわよ―」


今の僕なら分かる。

その話は嘘だ。

やはり父は、家族に嘘をついている。


すっかり重たくなった制服から部屋着に着替え、食卓に着く。

すぐに、食欲をそそる香りを引き連れた料理が運ばれてくる。

今晩のメニューは豚肉の生姜焼きと、色鮮やかな蒸し野菜。

それにひじきの煮物としじみ汁という、和食の見本のような美しい献立だった。


僕が箸を取ると同時に、母も食卓へ着いた。


母の自慢は、元キャリアウーマンであること。

専業主婦となった今も、最低限の労力で最高の家事を!がモットーで、嫌味に思えるほど几帳面で潔癖な部分に、少し辟易することもある。

父とは元同僚の関係で、結婚を機に仕事を辞めるはめになった、と以前愚痴を聞いたことがあった。


「お父さんはね、私にダメ出しされるのが嫌で、遅くまでお仕事がんばってるのよ」


母は父の席を一瞥した。

主が不在の席には、当然夕飯も配られていない。


「仕事の話を聞くとね、どうしても口出ししたくなっちゃうの、あの人すごく効率悪い仕事の仕方するから」


父の席から視線を外し、スッと僕に向けて顔を上げたその表情は、少し寂しそうに見えた。

ついさっき繁華街で見た父は、一体どんな表情をしていただろうか。

少し記憶の糸を辿ってみたが、やはり思い出せそうになかった。


夕飯を平らげ、空いた食器を台所へ下げる。

母に一声かけてから、そのまままっすぐ自室へと向かった。


もう5月だというのに、相変わらず僕の部屋は肌寒い。

マンションの共用廊下側に大きな窓があるせいで、鍵をかけてカーテンを閉めても、すきま風が割り込んでくるのだ。


お年玉を奮発して買ったリクライニングチェアに体を預ける。

いつもと違って、パソコンの電源をつけることはしなかった。


まぶたを閉じて、繁華街で見かけた父の後ろ姿を思い出す。


―――あれは父さんで間違いない


スーツの色だけでなく、背格好に横顔、歩き方のすべてが父であることを示していた。

まず、間違いないだろう。


次に、父が入っていった雑居ビルに関する記憶を掘り起こす。

ネットカフェと、風俗店が入居していることは確認できたが、とにかくあのときは距離が離れすぎていて、父がどの店舗に入ったかまではわからなかった。

この点に関しては、失態であると認めざるをえない。

隣りにあるゲームセンターには頻繁に出入りしているくせに、雑居ビルの名前もおぼろげだ。


考えあぐねるも答えはでないと判断した僕は、文明の結晶であるスマートフォンを取り出す。

地図アプリでゲームセンターの名前を入力すると、周辺地図の中にあの雑居ビルの名前があった。

そこからさらに、雑居ビルの名前をウェブブラウザで検索する。


結果、問題の雑居ビルは4階建てで、ネットカフェと、系統が異なる風俗店が3店舗の、計4店舗が入居していることを突き止めた。


ただ数分、スマートフォンとにらめっこしただけで、疲れがドッと押し寄せる。

母は口うるさく、ときにヒステリックで、几帳面で潔癖な人だ。

黙って仕事を早上がりして、嘘をついて帰ってこないだけでも大変な罪だが、行き先がこんな不衛生な店と知ったら、ヒステリーを通り越して卒倒するかもしれない。

”家庭崩壊”と”離婚”の二文字が頭をよぎる。


しかし残念なことに、僕は親不孝な子どもだった。

真相はどうあれ、今の父は僕たち家族を騙している、つまり矛盾した行動をとっている。

”家庭問題”という不謹慎なカテゴリーではあるが、僕にとっては初めてで、待ち望んだ非日常だ。


父の矛盾した行動を調査することで、僕の説を立証する足がかりにならないだろうか?

極論だが、たとえばどう見ても異形の者と交流している場面を目撃できるかもしれない。

照明は暗いのに、モニターに全人類の顔が表示されているせいで、まぶたが開けられない部屋を発見できるかもしれない。


そうと決まれば、早速明日の放課後から父の素行調査を開始しよう。

手始めはシンプルに、父が会社から出たところを尾行し、行き先と目的を特定する。

今日のような失態は二度とごめんだ。


ふと、あることに気がついた。

立ち上がり、そそくさと自分の部屋を出て、父の書斎を目指す。

テレビの音声が変わらず廊下に響いていることから、母はまだひとりでリビングにいるようだ。

母に見つかったときの言い訳を考えるのが面倒なので、足音を殺して10歩ほど進み、そっと父の書斎のドアを開ける。

開けた瞬間にノックをしなかったことを後悔したが、幸いにも父はまだ帰宅していなかった。


ドアを開けた先では、4畳半のスペースにPCデスクと衣装ダンス、それとベッドがひしめき合っている。

”書斎”というのは建前で、本当は父の部屋そのものであること、そして両親の溝をはっきりと感じ、少しだけ胸が痛んだ。

さっさと目的のものを探してしまおう。


まず、PCデスク周りを後で気づかれない程度に漁る。

どうやらここにはなさそうだ。

次に、ハンガーにかけられたスーツのポケットに手を突っ込む。

すると、すぐに上質で小さな紙が指先に触れた。

引っ張り出すと、それは僕が求めていた、父の名刺だった。

これさえ手元にあれば、もうこの書斎に用はない。

書斎前に人の気配がないことを確認すると、行きと同様にそそくさと自分の部屋へ戻った。


自室に戻り、再びリクライニングチェアに体を沈める。

尾行しようと決めたときに気づいたのだが、僕は父が勤める会社の名前も部署も、何も知らなかったのだ。

そしてもちろん、会社の場所もわからない。

危うく調査初日で手痛いミスをしでかし、自分を責めるはめになるところだった。


スマートフォンのウェブブラウザを立ち上げ、父の会社名を検索する。

表示された検索結果の一番上のリンクをクリックし、入手した名刺の住所と照らし合わせ、ここが父の会社であることを確信した。

父の勤め先はCMで名前を見たことがあるくらい、大手の製薬会社だった。

最寄り駅から会社までのマップ画像を、スクリーンショット機能で撮影し、スマートフォン内に保存する。

第一段階はクリアだ。

2つ目にして最後の課題もクリアしようと、サイト内のリンクを飛び回る。

仕事が終わる時間を知りたいのだが、なかなか該当する情報は見つからない。


小さい画面の中で右往左往するうちに、求人情報ページにたどり着いた。

すぐさま名刺に目をやり、父の部署名を確認する。

同じ部署ではなかったが、掲載されているすべての求人票に”勤務時間:9時〜18時”と記載されていた。

父が朝、家を出る時間と通勤時間を鑑みても、おそらくこの時間帯に間違いはない。


つまり18時より前に、父の会社に到着して張り込めば、尾行できる確率がグンと跳ね上がる。


次々とピースがハマっていく感覚に、正直心が踊った。

何もなくてもいい、けれどどうせなら、何かあってほしい。

立ち止まっていた場所から一歩踏み出せるという喜びが抑えられず、無意味にデスクの袖机を上から順に開閉してしまう。

ガシャンガシャン、と、無機質で乱暴な音が響く。

すると、三段目の棚の中に、見慣れているけれど見覚えのないものを見つけた。


見た目はおろかA4サイズも罫幅も同じ、つまりはまったく同じ大学ノートが2冊。

確か随分前に立ち寄った文房具屋で、今だけ2冊セットで80円!というコピーにまんまと釣られて衝動買いした気がする。

ページをパラパラとめくってみても、やはり等しくまったくの白紙だ。


さらに2冊の大学ノートのすぐ隣には、ソーイングセットが無造作に転がっている。

これに関しては自分で購入した記憶が皆無なので、おそらく母から押し付けられたものを、何も考えず引き出しに突っ込んだのだろう。


思わぬところから降って湧いた調査案件と呼応するように現れた、2冊の大学ノートとソーイングセット。

これを今後、何かに活かせないだろうか……。

僕はしばらくの間、思案した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ひとりぼっちイグジステンス きじとら @kijitora_kick

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ