第十九話 沢渡雫は問いかける
「あ、朋さん!いらっしゃいませです~!どうぞ上がってください!」
沢渡さんに連れられ彼女の家にたどり着くと、すぐさま心葉ちゃんが迎え入れてくれた。
家に向かうまでの合間、二人きりで話す絶好の機会だったにもかかわらず、僕は何を話せばいいのかわからなかった。
いつもならなんとかして話題を探そうとするのに、今日はそんな気力も湧かない。
何かもわからないもやもやが、僕の胸をしめつける。
僕はいったい、どうしてしまったのだろうか。
「――朋さん?お~い、聞こえてますか~?」
「……あ、ごめん!ちょっとぼ~っとしてた」
「寝不足なようですが……大丈夫ですか?食事の前に少し寝て行かれます?」
「いや、ほんとに大丈夫だから!心配かけてごめんね」
心葉ちゃんはいかにも心配そうな顔をしていたが、
「……わかりました!それではすぐにご飯の支度をしますので、どうぞ上がって待っていてください!」
そう言ってすたたっと家の中へ入っていった。
僕が心葉ちゃんと話している間、沢渡さんは終始僕の方をじっと見ていたが、ばつが悪かった僕は「おじゃまします」とだけつぶやいて中へ入っていった。
沢渡さんの家は二階建ての建物で、案内されたリビングダイニングは僕の家よりも少し天井が高く、広々としていた。
しかし、そこにはテーブルや椅子、テレビなどの生活必需品しかなく、とてもさっぱりとした雰囲気を感じさせた。
沢渡さんと心葉ちゃん以外人の気配が感じられないが、ご両親はまだ帰ってきていないのだろうか。
――とにかく、こんなことで二人に心配をかけるわけにもいかない。いつも通りの僕でいないと。
そんなことを考えながら四つあるうちの一つの椅子に座ろうとしていると、
「お待たせしました~!」
心葉ちゃんがテーブルに料理を運んできた。
見てみると、豚肉のほかにじゃがいもや人参などの野菜がたくさん入った野菜カレーだった。
「すみません……。お詫びと言っておきながら、こんなものしか出せなくて……」
先ほどまでの元気はどこへやら、心葉ちゃんはいきなりしょんぼりとした顔になる。
「いやいや!すごくうれしいよ!僕カレー大好きだよ!!」
「本当ですか!?どうぞどんどん食べてくださいね!おかわりもありますから~!」
元気を取り戻した心葉ちゃんを見て、僕は少し安心する。
そのとき、ふと昨日の圭の言葉を思い出す。
心葉ちゃんのことを「忙しい子」って思った気持ち、僕にもわかるよ。
でもそれは、心葉ちゃんが何に対しても一生懸命だという証拠なんだと思う。
そう伝えたら、きっと圭なら「そうだな」って返してくれるはずだ。
……。
圭、今何してるのかな……。
――って、あれ……なんで今、圭のこと気にしてるんだろ……。
「……古河さん。大丈夫ですか?」
ふと我に返ると、左隣に座る沢渡さんが僕の左腕をとんとんしていた。
「あ、いや、本当に大丈夫!ちょっと考え事してただけだから……!」
「そうですか?なら、いいのですが……」
沢渡さんはそうつぶやいて、今もなお慌ただしく準備している心葉ちゃんの方へ視線を向ける。
心配かけないようにとさっき決めたばかりなのだが、三十秒もたたないうちに早くも心配をかけてしまった。
――はぁ……。僕ってほんと馬鹿……。救えないほど馬鹿……。
……と反省するのも今はやめておこう。
今の間だけでも自分の世界に入らないよう、僕は固く誓った。
「お待たせしました~!」
本日二度目の言葉を口にして、心葉ちゃんがやってきた。
どうやら夕飯の準備は一通り終わったようだ。
最後に三人分のお茶を持ってきて、僕の向かい側の椅子に座る。
「では!冷めないうちにどうぞ召し上がってください!!」
心葉ちゃんは満面の笑みで、小さく手を前に出す。
沢渡さんの方へ視線を移すと、彼女は無言のままこくりと頷いた。
「ありがと。じゃあ、遠慮なくいただくね」
僕は用意されていたスプーンで目の前のカレーをすくい、口に入れた。
「……おいしい」
「ホントですか!?よかった~!頑張って作った甲斐がありましたよ~!!」
「いや、本当においしいよ……。これ全部心葉ちゃんが作ったの?」
「はい!昨日のうちに作って、それを寝かせておいたんです!レトルトを使わずにこだわって作ったんですよ~!昨日の夜に朋さんを今日家に誘ってもらえるようお姉ちゃんにお願いして、もし朋さんが来られなかったら二人で食べるつもりだったのですが……。来てくださって本当によかったです……!!」
にっこりと微笑みながら胸をなでおろす心葉ちゃん。
実際心葉ちゃんが出してくれたカレーは、女子高生が趣味で料理をするほどのレベルではなく、そこらにある飲食店のものと肩を並べられるほどおいしかった。
大げさではなく、料理人でも目指しているのかと思うくらいだ。
「実は、我が家の食事はいつも心葉に作ってもらっているんです。心葉の料理は何を作っても一級品ですよ」
妹の料理を褒められてうれしかったのか、沢渡さんの口調はいつもより少し饒舌な気がした。
「そ、そんな……。どうせ作るならと思ってこだわりが強くなっていっただけですよ……」
対する心葉ちゃんは少し照れながらも、満更ではない様子である。
それにしても、いつも心葉ちゃんが食事を作っているというのには少し驚いた。
沢渡さんたちのお母さんは、よほど仕事が忙しいのだろうか。
「それじゃあ、私たちも食べよ!」
心葉ちゃんの言葉に沢渡さんは頷き、二人も目の前のカレーを食べ始めた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
僕たち三人が食べ終わった頃、時刻は夜の六時半を回っていた。
食べている間は心葉ちゃんの将来の話で盛り上がっていたのだが、
「あ、すみません……。私七時から塾があるので、そろそろ行きますね!」
そう口にして、心葉ちゃんは立ち上がった。
「え、今日塾の日だったの?そんな忙しい日に来ちゃってごめんね……」
「いえいえ!朋さんを呼んだのはそもそも私ですから!どうしても朋さんに早くお詫びがしたくて……。むしろこんな日に呼んでしまってすみません……」
「そんなの全然いいよ!呼んでくれて本当にありがとね」
僕は心葉ちゃんに気を使わせないよう、努めて笑顔でそう言った。
「はい!それじゃあお姉ちゃん、行ってくるね!」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「うん!それでは朋さん、どうぞゆっくりしていってください!」
そう言って、心葉ちゃんは足早に家を出て行った。
――あれ……?
さっきまで一緒にいた心葉ちゃんが、今家を出て行った。
そして、もともと僕が来てからは自分も含め三人しかいなかった。
と、いうことは、もしかして。
いや、もしかしなくても……
――さ、沢渡さんと……二人、きり……?
今の状況を理解した途端、急に緊張がこみ上げてきた。
ど、どうしよう。
とりあえず何か……何か話しかけないと……。
「そ、そういえば、沢渡さんのご両親はまだ帰って来てないね!いつ頃、帰ってくるの……?」
緊張を何とか落ち着かせながら、あさっての方向に話しかける。
しかし、沢渡さんの応答はない。
少し不安になり横目でちらっと見てみると、沢渡さんは少しもの寂しげな表情をしていた。
そして、意を決したかのように沢渡さんは口を開いた。
「――私たちの両親は……もう帰っては来ません……」
「……えっ?」
僕は一瞬、耳を疑った。
予想もしなかった"もう帰ってこない"という言葉。
"今日はもう帰ってこない"という意味なのかとも考えたが、恐らくそれは違うだろう。
それは、今の沢渡さんの表情が物語っていた。
「……ごめん」
「なんで古河さんが謝るんですか……?古河さんは何も悪くないですし、どちらにしてもあなたに話しておこうと思ってました」
僕を安心させるように微笑み、沢渡さんはうつむいた。
そして……。少しの沈黙の後、彼女は唐突にこう尋ねた。
「古河さん……あなたにとっての"ひだまり"は、誰ですか?」
「――え……。"ひだまり"……?」
沢渡さんが何を言っているのか、よくわからなかった。
"ひだまり"の意味は分かる。たしか「日が当たりやすい、あたたかい場所」のような感じだったはずだ。
しかし、沢渡さんは「誰ですか?」と聞いてきた。
"ひだまり"という言葉は人に向けて指すものだっただろうか。
「あ、すみません……。この場合『ひだまりのようなあたたかい人』という感じにとらえてほしいです。誰よりも自分のそばにいてほしい、誰よりも縋っていたいと……強く感じる人です」
僕の様子を見て察したのか、沢渡さんは補足をするかのように説明してくれた。
そして沢渡さんは、自分達の過去について話し始めた。
「私と心葉が小さい頃、父が交通事故で死にました。その当時は『遠くへ行ってしまった』とだけ言われていて、実際に死んだと伝えられたのは私が中学一年になった頃なのですが……。父が死んでからは母が私たち二人を一人で育ててくれました」
沢渡さんの言葉に感情は含まれておらず、ただただ淡々としていた。
「私は小さい頃、母のことが大好きでした。母が、私の"ひだまり"でした。きっと心葉もそうだったと思います。母はそれこそ"ひだまり"のように、私たちにあたたかい優しさを与えてくれました。私が中学一年になったとき私たち二人に父の死が伝えられ、すごく悲しかったですが……それでも、母さえいてくれればそんな悲しみも我慢できる。そう思えるほどに、母のことが好きでした」
しかし、無機質だった沢渡さんの表情は、しだいに少しずつ曇り始める。
「私が中学二年の冬、学校が終わった後いつものように家に帰ったら、母が居間で私に背を向けるように寝転がっていました。その日は母の仕事が昼から夜までのはずだったので、なぜ母が家にいるのか疑問には思いました。しかし、そんなことよりも母が家にいることがうれしくて、横になっていた母に寄り添うように、私も横になりました」
曇った表情はやがて悲しみに変わり、沢渡さんの瞳には涙が滲んでいた。
「母が起きるのを、私は待っていました……。母が目を覚ますまで、私は母に寄り添っていようって……そう、思ってました。一時間たっても、母は起きませんでした。もうあと一時間で……心葉が部活から帰ってくるとか、思いながら……ただ、待っていました。それから、三十分たっても……母は、起きませんでした。そのとき、ようやく違和感を感じました。母の体が、ピクリとも動かないことに……。心配になって……か、顔を、覗き込んでみたら……は、母は……母は……!!」
「沢渡さん!!もういいから……。もうやめて……!!」
大粒の涙をぽろぽろと流しながら震わせる肩に僕は手をのせ、沢渡さんに制止を促した。
それでも、沢渡さんは首を横に振った。
そして少し落ち着くまで時間を置いた後、彼女は再び口を開いた。
「――死因は、脳幹出血でした。何の前触れも感じられず……私たちの目の前から、母は突如としていなくなったのです。あまりに唐突のことで、私は死んだという事実を、受け入れられませんでした。私に抱きついて号泣する心葉を、ただ茫然と見ていました。『きっとこれは夢なんだ、そうに違いない』そう信じて疑いませんでした」
未だに潤ませる瞳で、沢渡さんはただ両掌を見つめている。
「私たちは、小さい頃からよく面倒を見てくださっていた、私の母の姉にあたる明美おばさんに引き取られました。それから、何日が経ったのか……恐らく、一カ月ほどでしょうか。私は学校に行かず、おばさんにあてがわれた自室にずっといました。いつからか、母の死は受け入れていました。でも母のいないこの世界に、生きる価値を見いだせなかった……」
落ち着きを取り戻したのか、先ほどのような無表情で沢渡さんは話し続けた。
「ある日の午後六時を過ぎた頃。私が布団で横になっているとき、自室のドアが静かに開く音がしました。私はドアに背を向けた状態でしたが、そちらの方を振り向く気力さえありませんでした。しかしこの時間帯であることと、かすかに聞こえる足音で、恐らく心葉だろうということは分かりました。そして、きっと私を怒りに来たんだろう。私を軽蔑した目で見るんだろう。そんな予感がして、なりませんでした」
そのとき、沢渡さんの表情がふっとあたたかくなったように見えた。
「しかし、心葉は怒鳴ることなどせず、そっと私がかけている布団に潜りました。そして私の背中に手を当て、寄り添う形で横になりました。私があの日、母に対して行ったように。そして小声で一言、私につぶやきかけました。何と言ったと思いますか?」
沢渡さんは静かに、涙を流し始めた。そして、
「『私が、お姉ちゃんを守るから』……。確かに心葉は、そうつぶやいたんです」
そう言って、沢渡さんは見つめていた両掌を静かに握った。
「その言葉は、私が姉として……私が心葉に言ってあげなければならない言葉でした。そして、自分自身の愚かさを嘆きました。しかし心葉の小さな体は、そんな私のことを、温かく……優しく包み込んでくれました」
そして、涙を拭いながらふぅっと息を吐くと、
「――すみません……。喋り始めたら止まらなくなってしまって……」
僕の方へ視線を向け、沢渡さんは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「……ううん。沢渡さんと心葉ちゃんとの絆の深さが知れたようで、うれしかったよ」
沢渡さんが笑ってくれたことに、僕は少し安心した。
そして僕の言葉に応えるかのように小さく笑い、再び口を開く。
「あのとき、私は間違いなく心葉に救われました。あの日以来、心葉が私にとっての"ひだまり"なのです」
そして、沢渡さんはこう口にした。
「――古河さんも、お母さんはもういないんですよね……。お父さんも行方知れずと聞きました」
「えっ……?沢渡さん、どうしてそのことを……」
「――すみません。実は、私の母と古河さんのお母さんが、同じクリニックで働いていたらしくて……。仲が良かったと母が話しておりました。古河さんのお母さんがお亡くなりになったときも、ひどく悲しんでいて……古河さんと、祐君と……涼ちゃん、でしたよね……?両親がいなくなってしまって大丈夫なのかと、心配していました。それから間もなく、私の母も亡くなったのですが……」
確かに僕のお母さんは看護師だった。
病院の名前までは聞かされてなかったのだが、間接的ながらも思いもよらないところで沢渡さんとの接点があり、正直かなり驚いた。
そしてそれとは別に、ときに現実はひどく残酷だということを、改めて思い知らされる。
しかし、沢渡さんは悲しみを振り切るかのように、こう口にする。
「私は一度、母という"ひだまり"を失いました。しかし今は、心葉が私にとっての"ひだまり"です」
そして沢渡さんは真剣な眼差しを僕に向け、さきほどと同じ質問を投げかけた。
「あなたにとっての"ひだまり"は、誰ですか?」
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