第十二話 椎名菜月は告げる
「はぁ……。はぁ……」
朋くんと圭くんの二人と別れた後、僕は全力で、逃げるように走っていた。
行き先なんてなかった。
逃げるように、というよりもむしろ、ただ逃げただけなのだ。
「はぁ……。何してんだろ、僕……」
いつのまにか僕は、商店街のすぐ近くまで来ていた。
この近くには大きなショッピングモールなどはなく、商店街に様々な店が集結しているため、この時間は大勢の人が集まってくる。
「考えてもなかったけど。人ごみに紛れて隠れるにはちょうどいいかも」
そもそも、なぜ僕は隠れようとしているんだ。
自分が何を考えているのか、わからなくなってくる。
大体追ってくるなんてことはないだろうし。
――いや……。圭くんならありえるかな。
そう思った瞬間、ふと少しの違和感に襲われた。
――まさか、追ってきてくれることを期待してはいないよね……。
そのまさかな気がしてならなくなってきた。
「僕っていったい……何なんだよ~……」
思わず心の言葉が漏れてしまった。そのとき、
「やぁ、おじょうさ~ん!こんなところで何してるんだ~?」
その言葉を聞いたとき、鋭く戦慄が走った。なにかトラウマを思い出させるような、そんな感覚が僕を襲った。
その声の元を目で追うと、そこには数人の男たちがいた。
「お前、本当にショートカットの子好きだよな~」
「た、たまたまだよ!俺が気になった子がたまたまショートカットなだけだわ!」
「いや、それ絶対たまたまじゃないから……。連敗続きなんだから、今度こそうまくやれよ~」
「わぁってるよ!……ったく」
ただのナンパだろうか。
いや、そもそも男の僕に男からナンパされること自体、おかしな話なのだが。
そんなことよりも、なんでさっきあんな気持ちに襲われたのか。
ナンパなんて正直初めてじゃないし……。
何かがひっかかる。
「あの、すみません……。盛り上がってるところ悪いんですけど……」
僕の言葉に、最初に呼びかけた男が振り向く。
「あ、ごめんごめん!で、何だった?」
その瞬間、背筋が凍りついた。この人、いや……。
――こいつ、小学校の頃に僕をイジメてたやつだ。
「え、なに、どうしたの?ちょっと様子がおかしくない?――あれ、あんたどこかで……」
早く逃げなきゃ。逃げなきゃいけないのに、足がすくんで動けない。
――ほんとに何なんだよ!これじゃあ男らしくなったどころか、逆にひどくなってるじゃないか……!
「あ、お前……。菜月か?」
気づかれてしまった。どうしよう。早く逃げないと、逃げないと……。
僕の様子をじっと見ていたその男は、ニタァと気味悪く笑った。
「あ、すまん。こいつ俺の知り合いでさ。ちょっと積もる話もあるから~、先帰っててくれない?」
「はぁ?お前ほんとに勝手だよなぁ……。まぁいいや、明日にでも話聞かせろよ~」
一人がそう言って、他の男たちは去って行った。
待って、行かないで。
こいつと僕を、二人きりにしないで。
そんな心の声は届くはずもなく、僕はこいつと二人きりになった。
「お前、女装やめてたんだな」
「……」
「まぁ、女装やめたところで女にしか見えないのは驚きだよ。最初本当に何も気づかずにナンパしちまった」
「……」
「はぁ、無視かよ。まぁいいや、ついてこいよ」
そう言って、その男は僕の手を引いて行こうとした。
「や、やめてっ!」
僕は必死に手を振りほどこうとした。しかし、その手はびくともしない。
「これも何かの縁だろ?ちょっとは俺を楽しませろよ」
「やだっ!放してよ!お願いだから放して!」
その時、男の表情が厳しいものに変わった。
「……お前、いつからそんなに偉そうになったんだよ。俺をイラつかせるんじゃねぇよ……!!」
男は大きく弧を描くように、握り拳をこちらの方へ振りかざした。
殴られる。
そう思った時、僕は恐怖と悲しさと、そして情けなさでいっぱいになった。
あまりにも自分自身がみじめだった。
これなら、あの頃の無感情な僕の方がマシだった気がする。
圭くんに合わす顔は、どこにもないと感じた。
なのに僕は、愚かにも心の中で、振り絞るようにこう願っていた。
――助けて、圭くん……。
男の声が聞こえた。
それは何とも形容しがたい、漏れるように出た言葉ともいえない声だった。
僕は思わず、きつく閉じていた瞳を開いた。
そこには、あの時よりも大きな、それでも同じ背中が見えた。
「菜月をイジメるんじゃねえぇぇ!!」
その背中は、僕を庇うかのように目の前に立ち、大声で叫んだ。
「な、なんなんだよお前は!?」
「その口でそれを言うか!?久しぶりに見たと思えば、懲りずに菜月に立てつきやがって……!!」
「え、お前……。長月圭か!?なんでここにいるんだよ……!?」
「それはこっちのセリフだ!今度また菜月の目の前に現れたら、俺が許さねえからな!!」
僕は耐え切れずに、崩れるようにひざをついた。
信じられないような光景を、僕はただ茫然と見ていた。
「こんなところで会って、まだ二人でいるとか……。お前何なの?菜月の彼氏かなんかなの?」
男は圭くんに向かって、冗談めかした言葉をさもバカにするようにつぶやいた。
やめて、そんなこと言わないで。
そんなこと言われたら、圭くんが僕から遠ざかっていきそうな、そんな恐怖が芽生えた。
僕は身を震わせながら目をつぐんだ。
長い沈黙が訪れた。
いや、僕が長く感じただけで、実際は一瞬の間だったのかもしれない。
圭くんがおもむろに口を開いた。
「お前にその答えを言う義理はねぇよ。ただ、菜月は俺にとって大切なヤツなんだ。大切なヤツを守りたいって思うのは、当たり前のことだろ」
その瞬間、僕の心に住みついていたある感情が、一気に込み上げてきた。
子供のころに勘違いしていた、あの感情が。
「くそっ……。このホモ野郎が」
男は吐き捨てるようにそう言って、この場から去って行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
菜月の後を追ってきてよかった。
まさかあいつとまた会っていたなんて、思ってもみなかった。
最近様子がおかしいと感じたのも、あいつのせいなのだろうか。
いや、それとは関係ないのかもしれない。
現に菜月とあいつは、久しぶりに会ったかのような雰囲気だったし。
さて、
――どう話しかけたらいいものか……。
思わず菜月との小学生の頃の話を持ち出してしまった。菜月はあの頃俺と会っていたことなんて、忘れていたかもしれないのに。
菜月が本当に忘れているのか、あえてあの頃の話をしないのか、俺はまだ知らない。
俺があえて話をしなかったのは、あの嫌な思い出を思い出させないためだったのに、つい口走ってしまった。
菜月は何も口にしない。
もしかして、怒っているのだろうか。
何を叫んだのかもあまりよく覚えていないが、もしかしたらすごく偉そうだったかもしれない。
俺があの頃のことを覚えていたのに、あえて話さなかったことに怒っているのかもしれない。
ここは念のため、先に謝っておこう。そう決めて、
「あの、菜月。ごめ……」
振り向きざまにそう口にしたとき、
「ん!?」
いきなり菜月に抱きつかれた。
「……」
「あ、あの……。な、菜月?」
「……また僕を、助けてくれたんだね。あの頃のように」
「菜月……。覚えてたのか?小学生のころの、俺とのこと」
「もちろん。忘れるわけないよ。あの頃、どれほど圭くんに助けられたことか」
「……ごめんな、菜月。あの頃のこと覚えてたのに、菜月に話さなくて」
「いいよ、そんなこと。僕も話さなかったんだし。僕と同じように、圭くんにも何か理由があったんでしょ?別に理由を教えてくれなくてもいいよ。まぁ、大体予想はつくんだけどね」
そう言って、菜月は俺から一歩下がった。菜月の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「ごめんね。卒業式のあの時、もう圭くんを困らせないって決めたのに。助けられないためにも、少しでも強くなろうって思ったのに。結局あの頃と何も変わらない。むしろあの頃よりも情けないよね。ごめん、ごめんね……。本当に、ごめんね……」
耐え切れなくなったのか、菜月はぽろぽろと大粒の涙を流し始めた。
必死に抑えようとしているが、抑えきれない声を、俺はただ聞いていた。
泣くなよ、菜月。
お前が泣いているところなんて、もう見たくないんだよ。
そう言ってやりたかったが、そう言ったところで菜月が泣き止むことはないだろう。
もし泣き止んだとしても、それは相当我慢している証だ。
――俺はこいつに、なんて言ってやればいい……。
俺はこらえきれずに、泣いている菜月をそっと抱きしめた。
「ぐすっ……圭くん……?」
その時、かけるべき言葉が、かけてやりたい言葉が、見つかった。
「菜月。あの時お前は男らしくなれるって、俺は確かに思ったよ。だけど、無理しなくていいんだ。いきなり強くなるなんて誰だって無理なんだし、自分のペースでいいんだよ。それに、無理に強くならなくたっていい、弱くたっていいんだよ。お前は強くなくたって、いや、むしろ強くないほうが魅力あるかもな。お前可愛いし……。ってあれ、俺何言ってんだろ……」
俺の言葉を静かに聞いていた菜月の体は、しだいに震えが止まっていった。
「とにかく、お前は無理に強くならなくたっていい。もしお前が強くなれなかったら、強くならなかったら……。その時は、いつだって俺が守るから」
「……」
菜月は何も口にせず、俺の胸に顔をうずめるようにした。
「……ねぇ、圭くん」
「ん、なんだ?」
「僕の彼氏なのかとかなんとか聞かれたときに、あえて正確には答えないでくれたよね。あれはなんで?」
「あ、あれは……。まぁあいつの質問に素直に答えるのも癪だったし。まぁ変に否定したりすると、お前を傷つけちゃうかな~とか思ったから……」
「……そっか。圭くんはやっぱり優しいね」
そして菜月は、うずめていた顔を俺の方に向ける。
菜月の身長は俺よりも顔一つ分ともう少し低いため、俺を見上げるように見つめる。
その視線はどこか熱っぽく、頬は赤く染まっていた。
「そんな圭くんが……僕は大好きだよ」
「――えっ?」
ぴたっと俺の動きと思考が停止した。
それから冷静に考えてみる。
何を勘違いしていたんだ俺は、恥ずかしい。
「あ、友達としてっていうことね!もちろん、俺もお前が大好きだぜ!」
「……まぁ、普通はそう思うよね、違うんだよ。僕の感情は、友達としてじゃないんだ」
友情としてじゃない、別の感情。そう言われて、俺も感づき始めた。
「正直、この気持ちは伝えないままでいようと思った。普通じゃないって僕自身わかってたし、もし伝えてしまったら、今の関係が崩れてしまうんじゃないかって。でも、今日あんなことが起きて、決心したんだ。僕の気持ちを、正直に伝えようって。もうこの気持ちを、抑えられる自信がなかったから、伝えるだけでも伝えたいって思ったんだ。わがままで本当にごめんね」
菜月はさきほどと同じように、体をわずかに震わせていた。
「お願い、圭くん……。こんな僕を、嫌いにならないで……!」
振り絞るように、菜月はそう口にした。
思いもよらない言葉だったのは確かだ。
どおりで、いつにもまして女の子にしか見えなかったわけだ。
ただな、菜月。
俺を見くびるなよ。
「俺がこんなことで、嫌いになるわけないだろ」
「えっ……?」
菜月は見開かれた大きな瞳で、俺を見つめた。
「確かにすっごく驚いたよ。まさかお前が俺をそんな風に思ってくれてたなんてな。素直にすごくうれしいよ。別に同性愛が変だなんて俺は思ってないし、菜月は何も変じゃない。むしろ勇気を振り絞ってその気持ちを伝えてくれたことが、本当にうれしいし、かっこいいと思う」
「えっ……えっ?えっと、じゃあ、つまり……」
菜月は伏し目がちになり、顔を真っ赤にしながらしどろもどろになっている。
う~ん、本当に可愛いなこいつ。本当に男なのかといまだに疑問に思ってしまう。ただ……。
「だけどな、菜月。悪いけど、今お前とは付き合えない」
その時、菜月は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
しかし、菜月は小さく笑みを浮かべていた。
「……そっか。びっくりしたよ~もぉ~。もう少し早めに言ってよね!」
さもこうなるとわかっていたかのような反応で、俺の方も少し驚いた。
どうやって慰めようか少し考えていたのだが、どうやら杞憂だったらしい。
「相手は、朋くんだよね?」
「……え、えぇ!?俺何も言ってないよね!?好きな人がいるとかもまだ言ってなかったよね……!?」
「そんなの、圭くんのことをず~っと見てた僕にはお見通しだよ!」
「ちょっ、菜月マジで怖いんだけど……」
「あはは~ごめんごめん」
朗らかに笑っていた菜月は、途端に真剣な顔になった。
「……実は、朋くんと沢渡さんをくっつけようって口にしたのも、そのことを知ってたからなんだ。あの時とっさに、圭くんと朋くんを少しでも放すチャンスかもって思って。もちろんあの後すごく後悔したよ、なんであんなこと言っちゃったんだろうって。でも、後でやっぱやめようって言うのも不審がられるかなって……。圭くん、無理して僕に乗っかってくれたんだよね。本当にごめん」
「……なるほど、そういうことだったのか」
今の話を聞いて、菜月が朋に礼を言われたとき、なぜあんな表情をしていたのか納得できた。
「いや、気にしてないよ。むしろ朋が沢渡さんのことが気になってるって知ってたから、俺は喜んで協力したんだ。お前は何も気に病む必要はないよ。むしろ、そこまで思ってくれていたことが純粋にうれしいというか……」
「――圭くんは、優しすぎる気がする」
「え、なんか言ったか?」
ボソっと菜月は何かを言った気がしたが、俺は聞き取れなかった。
「……いや、何も言ってない!」
菜月は、俺の元から一歩離れた。
「圭くんにも謝ったし、朋くんにも謝っておかないと……。あ、ついでに圭くんに好きな人がいるってだけでも教えておこうか?」
菜月は悪い笑み……になってない可愛らしいニヤニヤ顔で、そんなことを口にした。
「え、それはやめて!あと謝るっていうのも、連鎖的に朋に気づかれる恐れが……」
「僕が……一体何だって……?」
「「……えっ?」」
思いもよらない声が、俺の背後から聞こえた。
菜月は俺の背後に視線を向け、口を押えながら茫然としている。
俺はとっさに背後を振り向いた。
そこには、息も絶え絶えな様子で膝に手をついている、朋の姿があった。
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