第3話(完)


「さっき、この短編集の『よだかの星』を読みました」


 英人はカバンにしまっていた文庫本を取り出した。あらすじは知っていた。醜い姿をしているよだかが、空を飛び続け、最後には星になって光り続ける――その程度のおぼろげな認識だったが、しかし僕はそれを確かに読んだことがあった。


「私は屈託なく輝くお星さまに、ずっとなりたかった――八江は死ぬ前にそう言い残しました。意味が、全然分からないんです。なりたかったじゃない。もうなっていた。僕たちの間ではそうだった」


 その場の全員がうなずいた。


「それだけ、いじめられるということはつらいことなのかもしれないよ」


 奏が優しく言った。あまり納得がいっていない風に、英人はうなずいた。


「……この本は、八江の形見なんです」


 英人は決して、気取ってその本を読んでいたわけではなかったのだ。


「もしかすると、その本そのものを僕も読んだかもしれない」


 英人にカバーを外すよう言った。まさに僕も手に取った本だった。中学校の時に借りた本だった。


「よほど好きだったんでしょうね。マーカーで線とか引いてあって。作品の中の名言にひかれていることが多いんですが、ちょっと気になるところがあって」


 ――おまえはひるの鳥ではないのだからな。


『よだかの星』の一節だ。そこに、目立つ赤い蛍光ペンで丸がしてあった。


「文脈からして、この文章から啓蒙されるようなことは特にないはずなんですが……」


 みんなが首を傾げるなか、僕の脳裏にちらりと痛みが走った。こんなに目立つ線を引いていた記憶はない。それは僕が読み終わった後で引かれたものだ。


 僕の中で、旅の目的が変わった。





 英人に八江を紹介したのは僕だった。彼の体裁を繕うのが大好きな性格は、同じ部活動をしていたのでよく知っていた。僕に女の子を紹介してくれ、と言ってきたのも、高校生活でも彼女の一人や二人と付き合いたい。そう言った、あまり褒められたものではない理由からだった。


 けれど彼の義理堅さや、人に無礼を働かないところは知っていた。それで、僕は高校二年の終わりに、八江を紹介した。

八江は英人といると、僕のそばにいた頃より、素敵な笑顔を振りまいた。


 それで僕は――。






 星屑台まで、英人やみずほを気遣いながらゆっくりと三十分かけてたどり着いた。僕は英人の歩調に合わせていた――本当は僕が英人に合わせてもらっているのかもしれなかった。本当はここに来ないほうが良かったのかもしれないと何度か思った。引き返そうとも。


「腹減ったなー」


 奏は努めて和やかな空気を出そうとしているようだった。そう、和やかな旅行であれば、勿論よかったのだろう。


 すでに、各々が八江を偲びすぎるほど偲んでいた。だったらこうしてみんな集まって、思い出に浸るような場所を設けなければよかった。


「うわ、ほんとに綺麗」


 みずほが感嘆の声を上げた。吸い込まれそうなほど巨大な大空に、星々が煌めいている。ミルク色の――ミルク色の!! 天の川が僕を責めさいなむ! もうやめてくれ! 僕のせいなのか。僕のせいじゃないと思いたいんだ。そんなのは、ひどいことだ。


「流れ星ですね」


 英人が言った。


「もしかして、流星群ってやつ?」


 みずほが声を上げた。まったく意図していないことだった。星の屑たちがたくさん集まって、最後の火を燃やして辺りを照らしていく。僕に取っては、それが当てつけのようにしか見えなかった。


「みんなでお願いしましょう。八江が天国で安らかに過ごせますように」


 僕は彼に従って星に手を合わせ、目を閉じた。



――○○○○○○○○すように。



 早口で三回唱え終わっても、周りのみんなはまだ何か願いごとをしているようだった。


「そんなにあっさりしてていいんですか」


 声をかけてきたのは、英人だった。


「八江が僕に、笑顔だけを振りまいていたかといえば大間違いだ」


 英人は肩を怒らせていた。僕に――逆上したり、口ごたえをする気力はなかった。ただ、あの時のイメージが僕の脳裏によみがえっていた。


「八江は、いじめのことを、一つも気にしていなかったんでしょう。けれど、僕だって彼女が浮気していたことぐらいは知っています。そのくらいは、付き合っていて分かります。それを僕は、許しました」


 英人は僕に、ためらいなく言った。


「本当はいけないことかもしれないけど、それを否定して別れていくにはあまりに不憫だったから」


 明らかな敵意を持った彼の声を、僕は初めて聞いた。彼の体裁を繕わない、生身の声だ。そうして、冷たく言い放った。


「明先輩、八江の浮気癖は、あなたのせいだ。彼女はあなたのしたことに非常に、コンプレックスを持っていたんです、ずっと」




 流れ星が煌めく。ちょうど僕の手に、その一つが降りかかるように。白い――白い天の川がまた、脳裏にちらつく。僕は夜空から目を背ける。掌に、ねばりつくように白い光の残影が見えた。股間のあたりに、えも言われぬ膨張を感じた。



 ――きもちいい、うん、きもちいいよ。



 あれはそういえば、別れる直前だった。行為をせがんだのは僕だった。


 彼女の張りのある肌が、恥じらいとともにさらされる――そのさまを、僕は思い出して、勃起していた。それでいながら、何か黒くどろどろした液体が胃にたまっていくような気分がした。


「八江だって喜んでいた。それに――八江はそれで、男遊びを始めたのなら、僕だけがトラウマの原因とは言えないだろう」

「彼女は浮気を繰り返していたのではありません、そのように見えただけです。男の自慢交じりの噂の中で、俺は八江と付き合ったぜ、と言い合っていただけです――当然、セックスなんてしていない」

「わかった。わかったよ。僕が悪かった」

「悪かった、では済まないことだとは思いませんか? そう言うところが、あなたの薄情なところなんだ。部活動でもずっとそうだった。へらへらして、真面目に取り組まず、何か面倒なことが起きればすぐに身を引いて、自分だけ呑気に気分転換――この旅だってそうなんじゃないですか」


 少しずつ、黒い感情が形を成してきた。怒りとして。


「だからと言って、僕がなんで責められなきゃいけないんだ!」


 しかしそれは、何に向けられているのかわからない。それはきっと自分の、何者でもない自分の中にあった無限の夢の、吐瀉なのかもしれない。


「もちろん先輩が悪いわけじゃないかもしれない。けれど、彼女からは強く聞いています。何度も何度も聞いています。あなたに襲われて、怖かったと」

「あなたが、現実から目を背けたからです。いじめられている八江を、ずっと見て見ぬふりをしていたからです」


 彼は僕の両目を強くにらんでいた。認めたくなかった。


 八江ははじめて付き合った相手だった。はじめて――求めあった相手だった。


 流れ星に、もう一度願いを唱える。そのつもりが、何度も何度も同じ言葉が脳内を

去来する。



――○○を○○○○ますように。

――八江を忘れられますように



 僕は八江が飛び降りた、その場にいた。もしかしたら、八江は僕に向けて最期の言葉を放ったのかもしれない。いや、間違いなくそうだ。


 心からの恨み。僕は怖くなった。願いを終えて目を開けると、目の前には心配そうに上目遣いで僕を眺めるみずほがいた。前かがみになっているせいで彼女の薄い夏の上着は前がはだけ、乳房の上のほうが見えていた。僕は股間になおも熱さを感じていた。


「どこ見てんの」

「なあ、僕は悪くないよな。僕は」


 全部を言い終わる前に、平手が飛んだ。


「全部聞いてた。あんたが一番子供ね。まるで八江に悪いと思ってないじゃないの」


 みずほの言葉が、僕の胸に、鋭くとぎすました刃物のように突き刺さった。


「謝りなさいよ、英人に。あんたはそんな適当な終わらせ方、逃げるような終わらせ方でいいの? この先の彼女を背負っていく覚悟もないのに八江と、そんなことしたの?」


 みずほの正論がなおも続く。


「見損なったわ。明がそんな軽い人間だなんて思ってなかった」


 僕は――みずほに嫌われてしまった。もう脈がないだろう。


「私、明のことが好きだったよ。でも、付き合えないな。この先の人生、あなたと一緒になる女の子が、可哀想」


 やっと心に強い張り手を食らった気分だった。


 流れ星は、大気圏に突っ込んできた宇宙のチリだ、そう理科の授業で習った。燃え尽きる刹那にまたたき、僕らを照らす。そして消えていく。けれど僕の命はまだ続いていくのだ。


 鈍い光の星が、僕を見ているのだろうか――。ようやく、涙があふれた。


 あの日――セックスをした日、僕は明らかに拒絶していた八江が嫌になった。幼い僕の腹の中いっぱいにたまった欲望を、全否定された気分になった。それがいやで、逃げて、逃げ続けて僕は生きていきたかった。


 だめだ、それはだめだ。僕は英人のほうを向いた。


「――順番が逆だ、僕と八江が付き合っていたとき、まず彼女の浮気に気づいたんだ。だから無理やり、僕のものだって示したかったんだ。僕には覚悟が足りなかった。八江と一緒に楽しく過ごした思い出はない。放課後、寄り道デートをしたり、休みの日に二人でちょっと遠出をしたりした覚えがない。ヤリ目、そういう言葉を駆けられても仕方ないと思ってる。最低な男だな」


「――もう、いいですよ」


 英人が急に優しい目をした。


「八江が俺から離れてからも、毎日彼女のことを考えてオナニーしたよ。もっとひどい、いやらしいプレイをしてる想像もしながら、何度もしたよ。気持ちよかった」

「そんなことが聞きたいんじゃない!」


 みずほがまた、僕に大きな声を出した。


「今すぐに変わらなくてもいいし、そんなことは期待してない。けれどあなたが更生するまでは、振る舞いを監視してるから。ダメなところがあったら容赦なく突っ込むので、よろしく」


 みずほは厳しい顔を崩さないまま、


「女の子を大事にする。それに気づいただけで、今日は偉い」


 そう言った。


「さ、そろそろ帰ろうか。もう目的は達成したでしょ?」





「ありがとうな、明。いい気分転換になったよ」


 それまで遠くにいた奏が呑気に言って近づいてきた。話を聞いていたかどうかは、分からない。


「ほら、綺麗だぞ」


 奏が僕の背中をたたいて、走り始めた。子供みたいだと思いながらも、僕も彼の後を追った。


 僕は大声で打ち明ける。


「僕のせいだ! 僕のせいで、八江は死んだんだ。本当にごめん」


 奏は――それでも僕に手を差し伸べてくれた。


「そんなの、本人にしか分からないだろ」


 僕の手に降って来た流星のまたたきを、僕は握り締める。それを懐に入れたところで何の温みもない。この先も、こういった距離感で僕たちは進む。夢を抱え、破れ、欲望に押しつぶされながら、思うようにいかない世の中を恨んだりして、それでも人生は続くのだ。


 八江――僕を見ていてほしい。そして駄目なことがあったら、どうか声をかけて、叱って。

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星屑を、ポケットに入れて持ち帰る 綾上すみ @ayagamisumi

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