第2話
――――――
八江は死んだ。
高校の屋上から飛び降りた。
七月に入ったはじめ、一学期の期末考査が終わった日だった。奏がテスト明けで、まだサッカーへの未練を断ち切れずにグラウンドで後輩の練習に口出ししていたところ、音楽室からのいつもの笑顔がないことに気づいた。そういう日ももちろんあったけれど、自分が部活をやめたからもう見ることもなくなっただけかと思った。けれど、少しだけ気がかりだったので様子をうかがいに行こうと思った。初めて声を交わすであろう八江に、緊張しながら。
音楽室に彼女はいなかった。放課後をずっと音楽室で過ごすということを知っていた奏は、そこで待っていることにした。一時間たっても来なかった。
その場には僕も居合わせていた。英人と二人して、飛び降りようとする彼女を説得していたのだった。
屋上に彼女はいた。時刻は七時近く、うっすらと星が見えていた。彼が八江の姿を見つけたとき、彼女の体は屋上の柵を乗り越えた先の狭い足場にあった。男子生徒――英人が必死に引き止めていたが、間もなく、彼女は地面へと吸い込まれていった――。
――私は屈託なく輝くお星さまに、ずっとなりたかった。なれるかな? もう遅いかな。でも、私はどんなに汚くても、空から君を見てる。ずっと見てるから。
英人に、そう言い残して。
――――――
駅からでも星はきれいに見えるのだが、全天の三割ほどが茂みに隠れてしまっていた。星を見に来たことにしようと決まり、僕らは星がよく見えそうなところへ移動することにした。
「あっちに高台があるみたいですよ」
英人が準備よく言った。スマホのライトでホームに立つぼろ看板を指し示す。星屑台、駅左口からまっすぐに三キロメートル。
「三キロって結構長くない? しかも坂道でしょ」
みずほが不満を垂れる。が、本心から言っているわけではないと分かった。彼女に取って栄太や奏はただの知り合いだ、ここで待っていてくれても構わない、そう言うつもりだったが、みずほは行くつもりだ。誰からともなく、ICカード読み取り機が置かれた無人改札を抜けた。
まっすぐな道が伸びていた。しばらく舗装の綺麗な道を進むと、左手には線路、右手は田んぼ、あぜ道が延々と続いていた。少しずつ線路が坂の下へと離れていき、二手に分かれるように坂道が伸びていた。平らな田んぼは棚田へと変わっていた。
一応運動部だった僕や、奏はその道を歩くのに問題なかったが、みずほの足取りに疲れが見え始めていた。が、一番疲れているのは英人だった。僕たちは彼に歩調を合わせ、ゆっくりと高台に向かった。
「八江はいじめられてたんです……誰もクラス一緒じゃないから、知らなかったですけど」
ぜいぜいと吐く息も苦しそうだ。心の問題もあるのかもしれない。好き合った人を亡くして、まだ少ししか経っていないのだ。
「僕が、気づいてやるべきだったんです。僕に見せていた笑顔も、きっとかりそめのものだったに違いない。だって本当に苦しいことを、僕に伝えてくれなかったんですから」
「それは違うと思う」
僕は言った。
「いじめられてるのを隠して恋愛がしたかったんじゃないか。英人、君はいい彼氏だったと思うぞ」
英人は僕の言葉を脳内で反響させるように何度かうなずいた。
「それに、下級生の英人には頼りにくかったっていうのもあるだろうし」
「僕じゃ頼りなかったって言いたいんですか」
「まあまあ」
そう割って入って来たのは、奏だった。長年恋していた相手に彼氏がいると知って、なおかつ失った人。
「八江ちゃんは、一緒にいて心安らぐ人を求めていたんだろう。いじめのこととか、何もかも忘れて楽しめれば、それでいいってね」
「でも、もし話してくれていたら……」
「俺たちだけじゃ解決できないさ。いじめとかそう言うものの悪意は、とても大きくて、それでいて実態がないからね。大人にだって解決できないさ。本当にいじめを解決できるのは、いじめている本人が改心することなんだろうな」
「なるほど……ありがとうございます、励ましてくれてるんですよね」
彼ら二人ははじめ喧嘩が絶えなかった。なぜ八江の自殺を止めきれなかったのか、奏は一度英人の胸倉をつかんで問い詰めたそうだ。けれどもう、いなくなった人に好意を寄せていた同士ということで打ち解けている。今こうして奏が先輩らしく彼を励ますようにまでなっている。いいことだ。
「いまだから言うけどね」
みずほが彼女らしくなく、言いづらそうにそうに声を出した。
「私、八江がいじめられてることとか、どうやっていじめられていたかとか、知ってたの」
今まで黙っていてごめん、とみずほは頭を下げた。僕らの旅の目的は、奏や英人の心に安らぎを与えることだった。
「私も、八江を助けられなかった。本当に悪かったと思ってる。だから、今日は旅に来た」
はっきり言って僕のわがままでみずほを連れてきたようなものだが、彼女は彼女なりに目的を持っていたのだと知り、彼女への敬意を新たにした。
「私の知ってること、少しでも打ち明けてみんなが楽になるなら言うけど――ちょっと、英人君の前では言いにくいかな」
みずほが歩きながら僕に耳打ちした、一瞬唇が耳たぶに触れ、ドキリとする。
「わかった――おおいみんな、この辺で一休みしよう。英人がかなりしんどそうだ」
高台へ向かう道から折れた路地のはずれに、ちょっとした水飲み場が設けられているのを見つけた。僕らはそこで休むことにした。
「すみません、ずっと頭が痛くて」
「電車の中で本を読んでいたから、酔ってもいるんだろう。気にしないでいい。日付が変わるまでに帰ればいいんだから」
英人は水飲み場の蛇口をひねる。もう水道の栓は閉じられているらしかった。僕はお茶の入った水筒を彼に渡した。少しずつ彼は飲んでいる。まだ気分が悪そうな彼を置いて、僕とみずほが距離を取った。
「死んだ人のこと、悪く言いたくないけど。正直女の子たちの間で、八江の評判は良くなかったよ」
英人君にも黙っていてね、みずほが顔をしかめながら断りを入れた。その姿はしかし不満を吐き出しているようにも見える。
八江は男にだらしのない人だった。数週間で彼氏を変え、人の男を奪うのは当たり前だったという。男子生徒に色目を使っている彼女は、同性たちから疎外されていった。
「多分ね、くせになってたんだと思うんだ。男の子をからかったりするのが。私の見立てでは、男の子に付け入る隙を、わざと与えているようだった」
あるときクラスのグループの目玉となっていた女子生徒の彼氏を奪ったことで、かなり恨まれた。
女子生徒の取り巻きたちははじめ、嫌がらせを渋っていたという。
「いじめるにも、得体のしれない感じがして怖かったんじゃないかな。八江のまわり、いつも男子がいたもん。しかも柔道とかやってそうな、がたいのいい男子」
それでもひとたびいじめが決行されてしまえば、あとは雪だるま式にそれはエスカレートした。坂道の雪玉が転がらないよう打ちつけていた楔を、一気に引き抜いたように。それは膨れ上がり、だれにも止められないものになる。
「ひどくなってからは、男遊びもしなくなっていったんだって。いじめに耐えきれなくなって、死ぬってどういう気分なのかな。同じ女子として感心しないけど、耐えかねて自殺しちゃうぐらいなら、男遊びをして気を紛らせていたほうがまだましだよ」
僕の胸に、ちくりと痛みが走った。乱れがちだった彼女にくぎを刺すことが、できていたのは、僕だったかもしれない。
「みずほ……みずほだって、八江のこと嫌いだったんだよな」
「そこまでは言わないけど。好きではなかったな」
「今日は来てくれて、本当にありがとう。俺たちのために」
奏が礼を言った。
「ううん……三人だけだと、なんだか危っかしかったから。みんなして家出をたくらみはじめそうな感じだったからね。それに、こういうこと、明だけが背負いこんじゃだめだよ。ほんとはそういう器じゃないくせに」
急に熱いものがこみ上げてきた。夜風がそよそよと水飲み場を囲む木々を揺らした。なんだか急に寂しくなって、必死で顔をしかめて涙をこらえた。
頭をなでてくれた。優しく、心を温めるように。僕は少しだけ、みずほのワイシャツを涙で濡らした。僕のこころに気づいている奏は、そっと距離を取ってくれた。
「ねえ、昔の八江はどうだった?」
いずれ聞かれるであろうことだった。僕と八江は小中学校が同じだったからだ。
「僕たちは、仲が良かったよ」
みずほは僕の話に食いついた。
「でも、僕の持ってる八江のイメージからは、みずほの言うことが信じられない。おとなしい子だったよ。休み時間とか、ずっと読書をしていたし」
「そっか……高校一、二年の時のこと、知ってる?」
「高一の時は知らない。でも実は、高二の時、少しだけ付き合ってたこともあって。宮沢賢治が好きだったんだ。だから本を貸し借りしたり。そうしてるうちに、お互いに惹かれて。でもすぐ別れてしまった。気の迷い、だったのかもね」
なるほど、とみずほはうなずいている。
「その後は何も乱れたうわさ、聞かなかったよ」
「ありがとう。やっぱり高三になってから何か原因になる出来事が起こったんだね……」
その後、しばらく二人で考えていたが、僕らはその原因に思い至ることができずじまいだった。
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