星屑を、ポケットに入れて持ち帰る
綾上すみ
第1話
八江(やえ)がけして引き返すことのない旅に出た。僕らも旅に出た、終着駅を決めないままに。
人生の終わりなど誰にも分からないようなものだ。僕らはそういう、悟りきった考えに憧れていた。まだ、その意味をかみ砕いて自分の糧にすることはできないけれど。
それで放課後に、普段一度も乗ったことのない鈍行列車に乗り込んだのだ。
大学受験の疲れから、ひと時逃げるように。僕らは親にそう告げながら駅に向かった。受験の話題を意図的に遮断するまでもなく、僕らの脳裏に勉強という文字は思い浮かんでいなかった。
奏(そう)は先ほどから空腹を紛らわすように駅のホームの自販機で買ったコーヒーを飲んでいる。
――何もやる気が出ないなら、行こうぜ。
どこに、と聞いた奏に、僕は決まってるだろ、という顔をしてみせる。これまで自分の決断が、目顔で伝わったためしは、ないが。
――あてどのない旅ってやつだ。
「車内での飲食はご遠慮くださいー」
ポイント通過で電車が揺れ、奏が飲みかけのコーヒーを床にこぼしたのを見て、みずほはからかい口調だった。
「うるせ」
そう言い返すのと同時に、みずほの腹が鳴る。気恥ずかしさに顔を俯けるようなしおらしさが、みずほにあっただろうか。
いずれにせよみんな腹が減っていた。僕らの世代の腹の中には、そのほとんどが空と消えるような夢が雑多に詰まっている。夢では腹は満たされない。腹が満たされなければ、高三の僕らは集中力が途切れる。家に帰ってお菓子でもつまみながらゴロゴロしたくなる。その考えを頭から必死で振り払う。そうしてふと、無為な時間を過ごしているときこそ、思いに沈んでしまって、一番つらいのだから。
「風情がないですね」
一年後輩の英人(えいと)が、言ってすぐ文庫本に目を落とした。ブックカバーをしているが、宮沢賢治を読んでいることが、横から見て分かる。ページの上のほうに、風の又三郎、などと見えるからだ。彼は形式を重んじる人間で、どうせ趣がある雰囲気を出したいのだろう。ただ、鉄道は石炭ではなく電気で走るし、イーハトーヴのモチーフとなった土地は、もっと北だ。うんと北のほうは、むしろ夏に行くならうってつけなのだが、僕らが向かっているのは残念ながら南だった。いつも部活動で突っ込みを入れまくっているので、今日ぐらいは控えておいてやることにする。
「もっと旅らしく、車窓からみえる景色とか楽しめばいいんじゃないですか」
英人が言った言葉を、誰も真に受けていない。
「外を見たって茂みと田んぼしかないじゃん」
そう言って奏があっという間に缶を空にし、爪ではじいてきんきん音を鳴らしていた。乗客は他にいないので咎める必要もなかった。その様子をみずほは、脚をぶらつかせながら見つめている。缶の握る部分を変え、がきっぽく、音階をつけようとして楽しんでいる彼の仕草を、やれやれ、と小ばかにしている。みずほを誘ったのは、今日の放課後。いきなりで突飛すぎる提案に、しかし彼女はついてくると言ってくれた。感謝しきりだ。
車内に差す日差しが弱まって、いよいよ景色は見えなくなる。旅の初めの浮つきが、静まってくる。その頃電車は長い長いトンネルを通りはじめた。車内の音が変わり、単調なまっすぐの路線が続き、揺れも少なくなった。僕ら四人は、なんとなく話すこともなくて、黙っていた。
高校三年生の夏休みの始まりだった。僕たちの高校はサッカーの強豪校で、奏はその部のエースストライカーだった。高校サッカー選手権、県大会の決勝で、1対0でわが校は負けた。相手のゴールキーパーは全国でも有名な選手だったのだが、ケガで出場できなくなり、急きょ二年生がゴールを守っていた。その代理キーパーから、一点も取れなかった。
惜しいシュートがいくつもあった。しかしその二年生が非常に調子が良く、長年培った技術でゴールを狙う奏を気合で阻止していた。誰も奏を責めなかった、一番攻めていたのは奏自身だ。
彼は、全国大会に出る瞬間を八江に見せたかったのだ。彼の想い人に――。
音楽室から微笑みながら彼女が練習を見ているのを、奏は励みにしていた。奏にふりまかれる八江の笑顔は、僕たちからすれば、陶器の面のようなもろいものに映っていた。
車窓からはトンネルの、オレンジ色の明かりしか見えなかった。単調な揺れが続く車内で、風情云々と言っていた英人が、一番先にまどろみはじめた――もともと本など読む人間ではないし、まだ高二の彼のうなじには、あどけなさが残っている。ウトウトするも、時々体の筋肉をひくつかせ、かろうじて起きている。
「寝てもいいんだぞ」
僕は彼に柔らかく声をかけた。どうせ最近寝ていないのだろう。
八江の恋人だった英人は、僕の肩に首を預けた。女もののシャンプーの匂いでもすれば舞い上がるが、男は恋愛対象に入らない。汗臭さが鼻についた。数日、風呂にも入っていないかもしれない。
「完全に寝てしまうと、夢が始まるじゃないですか。夢の世界は、残酷ですね。――八江先輩のこと、いつ寝ても思い浮かんで参ってしまいます」
「無理もないよ。僕だってたまに夢に見るから」
英人は、真の笑顔を見せてくれた、八江の姿を思い浮かべでもするのだろう。彼女らしく丁寧に屋上にそろえたローファー。彼女が落ちたときの音――。いつしか本当に英人は眠っていた。肩を貸したままにしておいてやった。
「明(あきら)が旅の提案なんて、珍しいよな」
「そもそも高校生で、旅をしようというのは背伸び感がありますね。しかも鈍行の旅」
何かにつけ背伸びだらけの英人が言うな、と思ったが、なるほど電車の旅というのは、年寄りくさいかもしれない。
「まあ、たまにはいいだろ」
僕は答えた。
鈍行の旅。答えを自分で出さなくてもいい、狭苦しい僕たちの生活の、些細なわがまま。僕が四人を鈍行の旅に誘ったのは、彼彼女らのために何か、心安らぐことがしたかったからだ。退屈ではないかとも思った。けれどもみんな、ついてきてくれた。
車内で僕は、色々と考えた。いつしか車内は静まり返り、各々沈痛な面持ちをしていた。
若いころの悩みなんて、必要ないものだったと笑い飛ばすことができる、そんな日が来ると笑いかける中年のおじさんおばさんもいた。けれど僕たちは、今を生きているんだ。
これは僕なりのプレゼントなのかもしれない。最近起こった出来事――悲しい出来事に向き合って悩む。せめて、各々物思いに沈むだけの時間を、作ってやりたかった。奏も栄太も、あまりに辛そうだったから。最後には時の流れが解決してくれるにしても。
「俺は退屈じゃないぜ」
奏は僕に向けてそう言ってくれた。
「ねえ、綺麗じゃない!?」
みずほが、トンネルを抜けるとすぐに歓声を上げた。指さす先の空を、僕らは目で追った。
きらめく白い星々の転がりが見えた。牛乳をこぼしたような天の川の一部が、大きな鳥のおのように流れている。みずほが無邪気に見とれるさまを見て、それまでみずほに感じていた申し訳なさが吹き飛ぶ思いがした。みずほは放課後、いきなりで困るんですけど、と言いながらも明るくうなずいてくれた。明の突飛な思いつきはいつも、私たちにとって意味のあることだから。正直に言って、僕は彼女に気がある。かわいいと思う。独り占めしたいと思う。
それが、どうも行動に移せない。勇気がないというのもある。長年連れ添って、お互いにお互いを知りすぎているというのもある。
「あの星の中の一つが、八江なのかなあ」
しかしなにより、そういう出来事があった矢先、色恋沙汰など起こしている場合ではないのだった。
「光り輝いているといいな。誰よりも、奏や英人を照らしてくれた子だから」
僕はみずほの言葉に、涙ぐみそうになる。奏もすでに感から車窓に意識を映していたが、みずほの言葉につられて、涙もろい彼はすでにぼろぼろと床に涙をこぼしていた。
英人もみずほの一言を聞いていたようだった。彼は体の震えを、こぶしを握り締めて押さえていた。
「僕たちには何もできなかったんですよね。それが辛いです。僕に話してくれていたら、僕だって対処法を考えましたよ、必死になって。それなのに、いじめをひた隠しにして……死んじゃったら、意味がないじゃないか……」
「次の駅で降りよう」
奏が言った。誰も異を唱えなかった。僕たちは山の中の無人駅で降りた。電車を見た。まだ電光化していない、目的地の標識に年季を感じた。次の電車のことなど、考えもしなかった。電車の明かりが消え、足元もホームの電灯でかろうじて見える程度だった。急に世界が暗く、絶望的になったかのように、不安が押し寄せた。
僕らの今は、星々に照らされて、恥ずかしくないだろうか。八江の星に――。
山のかなり頂上近くに作られたその駅は、ホームだけだだっ広く、ただあるのは灰皿と自販機、それから公衆トイレだけだった。みずほが、実はずっと我慢してたんだよね。そう言って大げさにスカートの前を押さえ、トイレに駆け込んだ。僕は急に彼女を誘ったことを少しだけ反省した。同時に、周りをそうやって和ませるみずほに尊敬の念も抱いた。
みずほには、悩みがなさそうに見える。見える、と言ったのは、僕らの世代、悩みを抱えないことはあり得ないからだ。それでもそれを、自分の中でうまく消化することができる。ムードメーカーとして明るくしていられる。断言してもいい、それは彼女の天分だと思う。
「お待たせ、長くてごめん、だいぶたまってたみたいで」
ダメ押しの笑いを買ってから、
「で、どうする?」
この先の行動を促した。
「星を見に来たんだよな」
「いや、そうでもないよ」
え、と僕以外の三人がこちらを向く。
「言ったじゃん、あてどのない旅って。でも、今決まった」
僕はもったいぶってタメを作ってから、
「天体観測だ。そしてしっかり、八江とのことに向き合おう」
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