第7話 だめだよ、一人にしたら

「お母……さま?」

「ええ、リビングで待たせていますが、どうなさいますか?」

 母。

 記憶の中の姿は、まっすぐ伸ばした背筋と、冷たく厳しい顔。母の微笑みや暖かさなんてものは、他人の口から聞かされたお伽話でしかなかった。

 やんごとなき家の出身で、政略結婚によって父と結ばれた。欲にまみれた父との婚姻に文句一つ言わず、ただ淡々と、家を守り、子を成して育てる。女の鑑、とはまさに母のような女性を指す言葉でしょうね。

 でも、教育は確かに厳しいけど、決して暴力や虐待などをするような人ではなかった。失望させたことはたくさんあったけど、母は私を責めることなく、むしろすぐさま教育方法を検討し、私のためになることを考えてくれる。

 だから母は何も悪くない、その圧倒的な正しさについていけない私が、悪かった。

 お祖父様はそんな母を人間の心を持たない機械と罵り、あの父と同じか、それ以上の嫌悪を示したけど。私はどうしても、母が悪いだなんて、思えない。



 リビングで、母の姿を見つけた。

 あの頃と寸分違わず、ぴたりと記憶の中の姿と重ねた。視線はまっすぐ私の方に向け、座ってるのに、私の方が見下されてるように思えた。

「お、お久しぶりです、お母様」

 いつもびくびくしてると自覚がある私ですが、この人の前では逆に震えを必死に我慢してしまう。まるで頭から爪の先まで審査されるような視線に、私は動くことすら怖くなる。

「ええ、本当に久しぶりね、スレイ」

 起伏がまるでない、けどはっきりとその存在感を醸し出す。

 母の声。


 突然の来訪、きっと何か大事な用件があるのでしょう。

 だって何度もお祖父様に追い返された父と違って、私がお祖父様に引き取られた以来、母は一度も私を会えに来たことはなかった。お祖父様の葬式ですら、顔を出してない。

 しかし、母は挨拶を交わした後、一言も喋らず、ただじっと、なにかを待っているような。なにかを試しているような。


 不思議と懐かしさが湧き出るような心地で、私は自然の背筋を伸ばして。

「それで、お母様。本日はどのようなご用件で?」

 まるで自分のじゃない、しゃきっとした声。

 弱さも、臆病さも、母の視線に駆逐されたように、存在を消した。


「本来なら、もはや私が口を出すべき問題ではないけれど」

 母の心の内は計り知れないけど、とりあいず用件を話す気になったことを私は密かに安堵を覚えた。

「しかしお父さまが亡くなったのなら、私も母親としての本分を果たさなければならない」

 そして次の一言で、不安が再び蘇る。

「スレイ、あなたはすでに当主になったと聞き及んでます。ならば当主であるあなたには家を守り、発展し――」

 蘇って、膨らむ。

「――そして次の世代へと継がせる義務があります」

「……っ」

 それってつまり……母の意味を理解した私は、動揺を隠せなくなりました。

「スレイ、お父様はあなたの婚姻について、なにか言い遺しましたか?」

 淡々と口から出たその質問は、私を酷く狼狽えさせる。

 けど

「そん、なこと……な、ないと……思います」

 辛うじて答えを吐き出した私を見て、母は一体なにを感じたか私にはわからない。

 そしてそれがどうして次の言葉に繋がったのかも。

「スレイ、あなた……恋を――」

 その一文字に心当たり、それとも願望なのでしょうか。頭の中に浮かび出したそれに、後ろめたさや恥ずかしさを覚えた私は、不覚にも目を逸らした。

 そして幸か不幸か、なぜか逸らした視線の先に、彼の姿を捉えた。

 どうしてそこに。いつから……心がさらにざわつく。微かにこれは運命なのでしょうかと喜びながら。

 当然、母が見逃すわけもなく。


 注目の的になったことで、彼は一瞬迷った素振りを見せ、こちらに近づく。

 足音が沈黙のリビングに響くたびに、私の心が弾き飛ぶ。

 ――き、聞かれた? でもそんなに大きい声じゃないし、それに答えたわけでもないし。

 顔がかあっと熱く、きっと誰から見ても一目瞭然なのでしょう。

 私は、彼に――


「邪魔したようだな、悪い。俺はノーマン・ディネイス、爺さんから……」

 ソファのそばまで来た彼は謝罪と挨拶をしようとして。

「あなたが、噂の後見人さんですか」

 これも珍しく、母が人の話を遮った。

「以前主人が大変ご無礼をなさったようですね。こちらこそ謝罪が遅れて、申し訳ありませんでした」

 音もなく立ち上がり、母は深々と頭を下げる。

「いや……あんたが悪いわけじゃないし、謝れるのも筋違いだ。それにもう掘り返すようなことでもない」

 彼は少し面食らって、この話はここまでとまとめる。

「ありがとうございます」

 礼を言って、母は再び元の位置に戻る。

 

 気づいているのか、それとも気づいていないか。

 自分でもあからさますぎた私の反応については何一つ言及されることなく、彼も母もまるで何事もないように話を進める。


「邪魔して悪かったが、知っての通り俺も後見人として立ち会いしなければならない」

 そこで初めて、彼はちらりと私に視線を向ける。

「彼女に何かを強要しない限り、俺は基本的に無干渉と思ってもらって構わないから、話はそっちで続けてくれ」

 それだけを言い残して、一人でまたさっきのところへ戻ってしまう。

 それ、だけ。

 チクチクと、痛みが広がる。

 どうして。どうしてノーを言ってくれないんですか? いつものように、私の代わりに。

 あなたは認めるのですか?

 私が、結婚しても。他の人と結ばれても、あなたにとってはノーじゃないということですか?

 ねえ、ノーくん。私はそうじゃ、ないよ? はやくノーって言って、私の代わりに。

 握りしめた拳で胸を押さえ、離れていく彼の背中を見つめる。

 けど彼は振り向く事無く、元いた場所に、静かに佇む。


「そういうことなら、準備してた資料が無駄になることはなさそうね」

 そう言って、母はいくつかのファイルをテーブルの上に置いた。

「あなたにふさわしい、そしてこの家にふさわしい相手を、私なりに選んできた」

 けど私の視線は戻れず、未だにぼーと彼の方を見つめている。

「もちろん、親権を手放した私に、当主であるあなたを指図する権利も権力もない。それにそこの後見人さんにも釘を刺されたばかりですから、これは単に母親としての責任を果たしているまで、どう使うかはあなた次第」

 母はそんな私も構わずに、事務的に用件を述べ続ける。

「いくらあなたの周りの人が優秀でも、これはあなたにしかできないこと。家を任せられるというのは、個を犠牲にしても家の存続、そしてさらなる発展へと繋がなければならない――」

 ぷつりと母の言葉が止まり、軽い、息を吐き出す声が聞こえた。

 まだ母の元にいた頃、習い事についていけない私を、何度も方法を変えて教え、そして最終的に駄目だと判断された時に、唯一母が見せてくれた感情。

 それを表す仕草が、私を母へと引き戻した。

「ごめんなさい、お母様、わた……」

 無意識に繰り出す謝罪と、湧き出る後悔の念。

「いえ、こちらこそ出すぎた口でした。もう私にあなたを教育する義務も、権利もありません」

 しかし母はすでに私に興味をなくしたように、立ち上がって。

「用件はすべて伝わりました、私はこれで失礼します」

 別れの言葉を告げる。

 その無機質さに、なぜか失望を見せた時より、遥かに私を落胆させてる。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん……なさいっ」

 まるで壊れた人形が主人の捨てられたように、私は意味もなくただその一言を繰り返す。

 そんな私を見て、母の口は最後に一度だけ開いた。

「覚悟を決められないのなら、そこから降りなさい。欲にまみれたあの人でも、今のあなたよりは当主としてふさわしいでしょう」

 その目には、失望と似た、私の知らない母の感情が潜んでいたように思えた。


 いろんな感情が渦巻き、押しつぶされてしまいそう。

 ノーくん、私を守るってあなたは言ったよね、身の安全も、それ以外も。

 そこに私の心は、含まれてないのですか?

 痛いよ、ノーくん。心が、すごく、痛いよ。

 なのに。どうして、あなたはそばにいてくれないの?

 だめだよ、一人にしたら。

 そんなんじゃ私を、守れないよ?

 私はリビングの隅っこを見つめて、いつの間にかそこから消えた人に、声なき言葉で問い続けた。

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イエス? 絶対ノーだ 知葉 @dour

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