人の命を犠牲にして学ぶ

 クリストーファノ・チェッフィーニは1630年のペスト禍でプラートの公衆衛生委員を務めた人です。


 前回の続きになりますが、公衆衛生委員の仕事は誰もがやりたがるものではありませんでした。

 気苦労が絶えず、責任は重いのに無給で、自分も感染して死ぬ危険は、低くてもゼロではない。後で述べる理由により、居住地を離れるのは禁止です。死者がしだいに増え、危機感が高まりつるあるなか、就任を承諾してくれる人を見つけるのは困難でした。そんなとき、


「わかりました。やりましょう」


 と静かに立ち上がったひとりがチェッフィーニさんだったんですね。


 彼は財政や軍事部門の行政官をつとめてきた貴族で、その豊富な行政経験が評価されたのか、公衆衛生局においては業務をスムーズに行うための現場責任者に選ばれます。このときのプラートは管理体制がずさんで、隔離病棟から脱走した病人が外をふらふらし、中央から視察にきた人が眉をひそめる有様だったので事態の収拾が急務でした。


 ここではチェッフィーニさんの活動のすべてをご紹介はできないので、現場監督として任されたという業務のリストを引用しましょう。



 1)隔離病棟および回復しつつある患者用施設の管理と必要物資の供給。

 2)症状のある人を家に隔離し、生活必需品を与える。

 3)閉鎖された家は、時期を見極めてしかるべき時に再開する。

 4)毎日の会議で決議を行う。

 5)隔離された人を上回る補助金が国庫から出ないよう気を配る。つまり死亡やその他の理由で対象者に変動がある場合は報告させるよう、現場の人間を監督する。

 6)医療現場で患者がよい扱いを受けているか、また死者が適切に埋葬されているかを監視する。



 役職者なので特別に報酬が認められましたが、なんと月にたったの8スクード。最下層の労働者の給料と大差なく、これだけの仕事を任されてこの報酬では無給に等しいです。


 資金不足に悩まされながら業務をこなしつつ、彼は任期中の出来事を詳しく記録に残しました。隔離病棟の患者数や毎日の死者数、閉鎖した家の数、経費、etc……。数字に正確な人というのはどんな時代にもいるもので、チェッフィーニさんの報告書には計算ミスがひとつもないそうです。電卓も表計算ソフトもない時代に凄いお方です。


 長らくお付き合いいただいた伝染病対策編も今日が最後ですが、ここで改めてペストの犠牲者に光をあててみましょう。1630年の流行におけるイタリア北部での死者は推定110万人。その多くは前回みたような、壊滅的な衛生状態にある人々だったと伝えられます。


 疫病で死ぬのは常に貧民でした。


『デカメロン』はペスト禍のフィレンツェを逃れて田舎で気楽に物語を楽しむ男女が語り手だったことを思い出していただきたいのですが、裕福な人はこのように別荘に避難できました。医師や公衆衛生委員が国外に出るのを禁じられたのもそれを防ぐためでしょう。しかし、逃げられるのは社会の上層にいるほんの一握り。貧しい職人や労働者は疫病が猛威をふるっていても働かなければやっていけません。


 公衆衛生局には医師や看護人、事務員、警吏にくわえ、病死者を運び出して埋葬する死体運び人ピッツィカモルティとか墓掘り人ベッキーノと呼ばれる係がいました。すぐ感染して死んでしまうので常に空きがあるといってよく、大勢の貧しい男女がこの職にありついたそうです。命を危険にさらしても生活の糧を稼ぎたい人には不足しなかったんですね。医師が足りなかったのとは逆の現象です。


 フィレンツェでは、感染予防のための隔離が実施されているあいだ食料や物資の配給が行われました。以下はその内容です。



・約340グラムのパン2個、時々それに加えて約230グラムのビスケット

・ワイン250ml程度

・170グラムの肉、週に3回

・火曜日にソーセージ1本

・水曜日、金曜、土曜に約110グラムの米、同量の油と塩

・薪の束

・酢4分の1リットル



 これらが毎朝、荷車に積まれて各家庭に配られました。対象は貧困と認定された約3万2千人。17世紀に「ステイホーム」するのに必要と考えられたのは何かがみえてくる面白い史料です。ここから想像できる食事はとても質素ですが、貧しい人の普段のメニューはパンとワインだけだったので通常よりは栄養豊富だったのでは。


 ちなみに当時のフィレンツェの人口はおよそ6万3千人なので、住民の約半数が生活保護を必要としていたことになります。


 さらに、燃やして室内をいぶすためのビャクシンや糸杉、松などの木の枝。宗教的祭日には卵やチーズ。家の敷地に井戸がない人のために係員が二人組で水を配りました。


 死者には医師や看護人はもちろん、意外かもしれませんが聖職者も多くいます。同時代の人によれば、フィレンツェとその周辺で病人の支援にあたった聖職者191人のうち、分かっている死者は112人で、実際には何人死んだのか不明だとか。

 Covid-19(新型コロナウイルス感染症)のパンデミックでも聖職者の死が相次ぎましたが、聖職者は臨終に立ち会うほか、当時は医師といっしょに患者の家をまわることが多かったので病原箘との接触をまぬがれない職業です。


 クリストーファノ・チェッフィーニは任期中のあれこれを『衛生の書』という書物にまとめ、その中で現代にも生きる次の言葉を残しています。


「人は、このような困難な任務において自分の行いを導く光明や経験もなく、疫病という天災をこうむった時に何が起こるかを人の命を犠牲にして学ぶ。」


 フィレンツェで終息の兆しがみえたのは最初の死者が確認されてから2年後の1633年、初夏。7月には患者と死者が0人になり、それを記念して空砲が放たれ、市内のすべての教会の鐘が打ち鳴らされたのでした。


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