いつかは終息すると思いながら
今回から17世紀のトスカーナ地方の疫病対策についてです。
1630年5月、イタリア北部で猛威を振るうペストが徐々に南下し、トスカーナ地方では緊張感が高まっていました。フィレンツェは衛生通行証の携帯を義務づけ、国境に検問所を設置します。
衛生通行証は氏名と身体的特徴、発行地、日付、過去40日間にわたり健康状態が良好だったことが明記されている必要がありました。RPG(ロールプレイングゲーム)でいえば入手しないと先へ進めないキーアイテムみたいなもので、旅人には必須です。持たずに入って後から罰金を科される人もいたとか。有効期間は8日間。記載事項をチェックできるよう、検問所には読み書きできる者が配置されました。
7月、フィレンツェの北東約5kmにあるトレスピアーノの村でペストの死者が発生。フィレンツェでも怪しい死亡例が現れはじめます。
フランチェスコ・ロンディネッリという人が書いた『1630年と1633年のフィレンツェの伝染病状況の報告』によると、流行のはじまりはトレスピアーノから来たひとりの子連れの女だったとか。彼女は日を置かずに死亡し、その後、市内のとある家で下女の足に膿瘍が発見されます。女はサソリに刺されたと言い張るものの、人々は騒然としました。
当時の様子をロンディネッリはこう語ります。
「ある者はペストだと言い、ある者はペストではないと否定したが、それは漠然とした反論ではなく、そう信じていたからであった。こうして街の意見はふたつに分かれた。一方は疫病だと言い――彼らは臆病者と呼ばれた――、他方は生活苦が引き起こす、毎年よくある普通の病気だと言っていた。」
流行の初期は、医師も簡単にはペストだとは認めない傾向にあったようです。10月、フィレンツェ近郊の街エンポリで、ある男の妻の大腿部に腫れ物が発見されました。公衆衛生局は家の閉鎖と隔離を命じますが、翌週には医師が「足の病変は壊疽」であり、患者は元気だから心配いらないと言います。
しかし、もうお察しかと思いますが楽観的な人々が間違っていたんですね。フィレンツェでは一家族がまるごと死にはじめ、疫病に侵入を許したことが確実となります。
この1630年のペストは、作家のアレッサンドロ・マンゾーニが長編小説『いいなづけ』で当時のミラノの状況を活写し、別名「マンゾーニのペスト」とも呼ばれます。死者は推定110万人。エンポリ、プラートなど小さな街も巻き込みながら、秋から冬にかけて徐々にトスカーナに蔓延しました。
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ペストの流行で問題となるのが医療従事者の確保です。
フィレンツェの
ちなみに、内科医と外科医の給料の差は当時の社会的地位によるものです。大学での勉強が必要な内科医に対し、外科医は実際の治療で訓練を積むこと、瀉血や手術で手を汚すことから身分の低い単なる職人とみなされていたんですね。
ペストでは腫れたリンパ節を切開して膿を出す治療が行われたので、感染しやすいのは外科医だったようです。内科医も、いちど隔離病棟に入れば感染を免れるのは難しく、多くは死にました。
外科医の死が相次いでいたトスカーナ北西部の街、プラートでは公衆衛生局がフィレンツェに医師の派遣を要請します。しかし、回答は委員たちを落胆させるものでした。
「要請には応じられない。というのも当地でも外科医は不足しており、領域全土において充分な人手がない状況である。そちらで優秀な外科医を見つけるよう善処されたし。」
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ところで、ペストの薬というものはあったのでしょうか。
中世でペストの治療薬に使われたのは主に真珠と貴石で、14世紀の医師ディーノ・デル・ガルボはエメラルドが「粉末を飲んでも、口に含んでも、首にさげても、単純に触るだけでも」ペストに効くとしています。
ハーブと香辛料も薬の材料でした。16世紀の内科医ジローラモ・メルクリアーレはオレンジの花、バラとルリヂシャ(ハーブの一種)のエキス、アロエ、
こうした薬はもちろん効かないので、唯一まともな予防策が患者の隔離だったわけです。
ペスト菌を媒介するノミは衣類や寝具に潜むので、物品の焼却もある程度の予防効果が期待できます。しかし、それは貧しい人には痛手でした。最下層の貧民はベッドをもたず、床に藁布団を敷いたり、袋や藁をひろげて寝る暮らしです。それを焼却することはたったひとつの寝具を失うことを意味し、補填も行き届いていたわけではありません。
このころ、プラートの公衆衛生委員はこんなことを書き残しています。
「1630年8月にはじまったペストの流行はゆるやかではあるものの、感染の拡大を抑え込むことができずにいる。いつかは終息するだろうと思いながら、また
暗闇で手探りせざるをえないフラストレーションはどれほどだったのでしょう。
さらに、敵は病原体そのものだけではありませんでした。
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