死体を焼く煙が空へ立ち昇る

 先進的な検疫制度を誇ったヴェネツィア共和国ですが、1575年から77年の流行では5万人に及ぶ死者を出します。人口は18万人程度であったらしいヴェネツィアでは膨大な犠牲者数です。


 そうなった大きな原因のひとつは「対策の遅れ」でした。


 1576年2月の時点で死者が3,500人に達していたにもかかわらず、市内では活発な経済活動が行われ、議会や法廷も通常通りに開かれていたのです。ペストが流行すると経済が深刻なダメージを被るため、政府は流行宣言を差し控えたり、影響を過小評価したりする傾向がありました。


 疫病の発生は当時のヴェネツィアを脅かしていたオスマン帝国など、近隣の列強に弱体化の印象を与えることにもつながります。


 しかしその後も事態は収束せず、ようやく対策会議が開かれることに。元首ドージェと政府の要人、公衆衛生局の代表者、ヴェネツィアの医師会、パドヴァ大学の教授率いる医学界の重鎮が出席し、「現在流行している病気はペストであるか否か」をテーマに激論が交わされます。


 というのも、ペストかどうかは症状から判断するしかありませんでした。皮膚の紫斑などの典型的な症状から診断を下すことに懐疑的な論もあり、医師でも見極めは難しかったようです。さらに患者の大多数が労働者だったせいで、原因はペストではなく貧しい人々の栄養不足だろうと巷では言われていたのでした。もっとも、疫病の犠牲になるのは常に貧民だったのですが。


 公衆衛生局員とヴェネツィアの医師がペストだと主張する一方、大学教授らは逆の認識を示します。3月から5月の死者は1日およそ14人で、本当にペストなら死亡率はそんなものではすまないというのが理由でした。


 低い死亡率、患者が主に貧しい人々だったこと、医学の権威ともいうべき人々がペストを否定したこと。特に最後の影響が致命的でした。ヴェネツィア人は大学へ行く場合は原則としてパドヴァ大学で学ぶことになっていたので、同大学の教授の言葉を神託のように尊ぶ傾向があったそうで。井戸の汚染が原因だとする意見も飛び出し、ペスト対策に乗り出すべきという公衆衛生局側の主張は退けられてしまいます。


 状況に楽観的だった政府はこの結果を好意的に受け止めたようです。


 でも、お察しと思いますがやっぱりペストだったんですよね。


 対策会議にはジローラモ・メルクリアーレとジローラモ・カーポディヴァッカという2人の大学教授が出席していました。どちらも著名な内科医だったそうですが、彼らは健康な人を新隔離病棟ラザレットに送るのは


①家族が少なくとも4人死亡し、

②両名の同意を得た


場合に限るという新たな基準を提唱。公衆衛生局のガイドラインでは家族に1人でも患者が出れば新隔離病棟ラザレットに行くべきでしたが、これで症状のない人を施設へ送ることは事実上、難しくなります。


 メルクリアーレらは神父と外科医を伴い、ゴンドラに乗って患者を往診していました。6月30日、メルクリアーレに同行する神父ふたりが立て続けに死亡し、さらに外科医も死亡。政府はようやく誤りを自覚し、この2人を対策委員から解任します。ついでに言うと、井戸の汚染説をとなえたロドヴィーコ・ボッカリーニという人も会議から数日後にペストで亡くなりました。


 一般に、伝染病対策は最初の患者が確認されてから措置を講じるまでの時間が短ければ短いほど効果的です。経済を守ろうとしてペストの存在を認めたがらず、さらに医学会の重鎮の安易な結論に引きずられ、対策を遅らせたことが壊滅をもたらしたのでした。



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 1575年から77年にかけてのペストの症状はリンパ節の肥大や皮膚の紫斑に加え、発熱、頭痛、喉の渇き、嘔吐、ときに意識障害など、かなり苛烈なものであったとか。年代記作者のロッコ・ベネデッティは旧隔離病棟ラザレットを地獄にたとえ、当時の様子をこう語ります。



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 貧しい病人が外に運び出され、裸にされ、医者に調べられた。同じことが死者にも行われた。私も死んだ家族を3人運び出した。母、兄弟、甥である。生前も死後も彼らにペストの症状は現れていなかったが、医者は「懸念あり」と診断した。「懸念あり」が2件あると「感染疑い」とみなされたので、私は40日間自宅で隔離された。


 一人住まいの人が2、3日姿を見せないと死亡が疑われた。死体運び人が窓や戸を破って踏み込むと、ベッドや床の上、または錯乱して他の場所で死んでいるのが見つかった。……


 旧隔離病棟ラザレットは地獄のようだった。耐えがたい悪臭と呻き声に満ち、死体を焼く煙がいつも空へ立ち昇る。奇跡的に生きて戻ってきた人は、多い時はひとつのベッドに3、4人が寝ていたと話した。看護人が足りず、病人が自ら食べ物を取りに行かねばならない。死体をベッドから出して墓に投げ込む以外、誰も何もしない。瀕死の人が担ぎ上げられ、すでに死んでいるかのように死体の山に放り投げられたこともあったそうだ。もし誰かが戻ってきて助ける手間を踏んでくれれば、それはとても幸運なことだった。たくさんの人が錯乱して夜中に叫びながら通路をうろつき、互いにぶつかり、床に倒れて死んだ。ある人は意味不明の言葉を叫んで水に身を投げ、ある人は狂ったように外へ飛び出し、藪の中で血まみれで死んでいるのが見つかった。

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 1万人を収容可能な新隔離病棟ラザレットもパンクし、新たに施設が2つと木造の家が500棟建てられた、と彼は語ります。造船所の大型船や退役したガレー船も回復病棟になりました。


 犠牲者は地面に深い穴を掘り、死体と石灰の層を交互に重ね、穴がいっぱいになるまで繰り返すという方法で埋葬されたそうですが、旧隔離病棟ラザレットの敷地からは近年、そうやって葬られた約1,500体の遺体が発掘されています。


 旧隔離病棟ラザレットは風化の危機にさらされつつも修復プロジェクトやボランティアによって維持され、新隔離病棟ラザレットとともに一般公開されて毎年多くの人が訪れる場所になっています。



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