99パーセントが健康で生き延びた

 前回の続きです。ペスト対策を行ったのは「公衆衛生局」と呼ばれる、伝染病の侵入と拡大防止を目的とする機関でした。15世紀にイタリア北部の大きな都市に設立され、しだいに小さな街や村にも見られるようになります。


 ヴェネツィアの公衆衛生局を構成するのは3人の貴族で、任務は検疫のほか、保健所の設置、伝染病を運ぶと考えられた物乞いや売春婦の監視など多岐にわたります。


「疫病の拡大を防ぐために遵守すべき事項」として1541年に発布された項目を以下に挙げてみました。ヴェネツィアがペストを水際で食い止めるだけでなく、予防や治療にも力を入れていたことが分かります。


①病人が数時間や数日で死亡した場合、公衆衛生局は医師を派遣し、膿瘍、腫れ物、その他の症状の有無を調べる。


 一般的に、発病後5〜6日以内に死亡すると伝染病の疑いありとされました。ペストであることが確認されたら、


②患者および遺体と所持品は旧隔離病棟ラザレットに、同居人は症状がなければ所持品とともに新隔離病棟ラザレットに送られ、個別に聞き取り調査を受ける。


 その際、特に次の点を質問すべきとされました。


・患者が、過去に死者を出したことのある家に滞在したか

・外国人が下宿しているか

・よそから物品を持ち込んだか

・いつ症状が出たか

・医者は何回往診したか

・どの薬屋で薬を買ったか

・瀉血(静脈を切開して血を抜く治療)はしたか

・司祭や修道士が告解のために家を訪れたか

・親戚や友人が見舞いにきたか。何回きたか、患者のベッドに近づいたか

・近所の人が家の手伝いをしにきたか

・家から物品が持ち出されたか。誰によって、どこに持ち出されたか


 こうした情報は感染源や接触者の特定に役立ったと想像できます。


③患者を往診した医師は22日間にわたり隔離される。患者が住む同じ建物の住民も22日の隔離措置を受けるが、台所を共有する共同住宅なら40日隔離される。


④治癒して旧隔離病棟ラザレットを出た者は新隔離病棟ラザレットに移るが、所持品は持って行けない。30日間滞在し、その後自宅で10日間隔離される。


⑤旧隔離病棟ラザレットの医師は上記の規則に気を配り、患者についての報告書を提出する。病気の再発を防ぐために膿瘍はきれいに取りのぞき、清潔を保つこと。回復した患者に対しては、秩序を乱さぬよう言い聞かせること。


 が具体的に何をさすのか不明ですが、元気になった患者をおとなしくさせておくのが大変だったのかもしれません。大抵の人にとって入院生活は退屈ですからね。


⑥複数の家族を新隔離病棟ラザレットに送る際は互いに距離をあけさせ、所持品は離して外気にさらすこと。すでにいる人と新参者を混ぜてはならず、別々に隔離すること。


 物品を外気にさらすのは、瘴気説が言うところの「腐敗した空気」対策と思われます。窓をあけて空気を入れ替えることも頻繁に行われました。


 海外駐在のヴェネツィア大使は現地の感染状況や船の情報を常に提供するよう求められ、ときには公衆衛生局の官吏が視察に派遣されることもあったとか。流行が確認されれば渡航は禁止され、ヴェネツィアに向かう商船やガレー船が感染していると分かれば、情報が入りしだい全力で接近を阻止しました。

 港の検問所には最新の流行地域のリストがあり、それをもとに検疫官が積荷や関係書類をチェックします。油断はできません。感染者が船内にいるかもしれないし、死体があるかもしれない。航海中に死んだ乗組員の死体を埋葬しに運んできている場合があったりしたそうで。流行地域からきた船なら、病気の乗組員は旧隔離病棟ラザレットに、元気な者は新隔離病棟ラザレットに送り込み、船内は消毒。


 患者が出た家も硫黄とミルラ(没薬)、松脂でいぶして消毒されました。住人は新隔離病棟ラザレットで服をぜんぶ脱ぎ、酢で体を洗います。死者の埋葬には公衆衛生局の許可が必要で、教区の司祭は死因と主治医の名前を明記した報告書の提出が義務づけられました。


 研究者によると、こうした対策は感染防止のうえで非常に適切でした。そのおかげか1555年の流行では新隔離病棟ラザレットに避難した人の99パーセントが健康で生き延びたとか。

 しかし次の1575年から77年にかけての流行は大失敗で、人口およそ18万人のうち5万人が命を落とすことになります。

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