火が燃え移るように人々に襲いかかる

「伝染」の概念は疫学が未発達の時代からありました。


 引き続き『デカメロン』ですが、フィレンツェでペスト患者が増えていった様子は次のように書かれています。


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 この病は、油や渇いた布に火が燃え移るかのように健康な人々に襲いかかった。病人と会って話すことが死に直結し、衣類や所持品に触れるだけで感染した。

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 火の燃え広がりはインパクトある例えです。


 ローマ教皇の侍医を務めたフランスのギー・ド・ショーリアックは「そばにいるだけでなく、見るだけで」感染すると述べました。同じくフランス人で近代外科学の祖と称えられるアンブロワーズ・パレは「香水の香りがうつるように」ペストが人から人へ伝染うつると言ったとか。気品を感じるコメントですわ。


 とにかくメカニズムは不明でも、ある種の病が伝染することは確信されていました。


 感染症がどの程度理解されていたかを知るために、そもそも「病気」がどう捉えられていたかに目を向けてみましょう。


 大昔、健康を含む自然界のあらゆる事象は神のわざでした。雷はゼウスに、地震はポセイドンに関連します。病気も超自然の存在が癒やすとされ、人は神殿に捧げ物をして治癒を願いました。


 ところが紀元前6世紀のギリシャに、疾病は神の力と無関係であると考える人々が登場します。彼らは最古の哲学者で、既成の概念にとらわれずに世界の神秘を追求しました。万物の始源アルケーは自然界にあり、人間も自然界と同じ物質から構成される。従って、自然への理解なしには病気も理解できない。ここでようやく病の原因から神が退けられます。


 古代ギリシャ人の考えでは、世界は「火・水・空気・土」の四元素から構成されます。これらは「湿・温・乾・冷」の4つの性質をもち、人体を構成する4つの体液、「血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁」と対応します。ラノベの魔法の設定に登場しそうなこの理論は体液病理説としてまとめられ、西洋医学を支配します。


 体液のバランスが崩れると病気になりますが、流行病に関しては何か要因があるとするのが当時の知識人の共通認識だったようです。


 医学の父ヒポクラテスを中心とする学派は、「悪い空気」や「悪い水」が大勢の人を病気にすると考えました。

 哲学者アリストテレスは「肺炎や眼病はうつるのに、なぜ脳卒中など他の病気はうつらないのか」と問い、患者の息が腐敗していると考えました。呼気によって同じ病気になるという、ヒポクラテス派と根底は同じながらも現代の「飛沫感染」に通じると言えそうな考え方です。

 ローマ時代に活躍した医師ガレノスによれば、疫病は空気中の有害物質によるもので、不摂生な生活で抵抗力のなくなった人が罹りやすいと考えました。前提条件を導入することにより、同じ空気を吸っても感染する人としない人がいる理由を説明しようとしたのです。


 すべてに共通するこの「有害な空気」は【瘴気】と呼ばれ、19世紀まで悪者であり続けます。瘴気は湿った土地の地面や腐乱死体から発生し、人体を餌にして微細な有毒物質を増殖させ、人を病気にする。マラリアや天然痘、コレラも瘴気のせいにされました。

 ちなみに、マラリアはイタリア語の「悪い空気mal aria」が語源です。沼地や湿地の腐敗した空気が原因とされたわけですが、そういう場所は菌を媒介する蚊が多いのでした。

 ペストの流行はノミの活動と連動するので、寒い季節は沈静化し、暖かくなると勢いを取り戻します。悪臭が漂いやすい夏にペストが発生することは瘴気説の根拠になりました。


 いっぽう、医師で天文学者のジローラモ・フラカストーロはペストの伝染力を目に見えない因子に求める「コンタギオン説」を展開します。コンタギオンとはラテン語で伝染を意味します。ちょっと面白い考え方なので次に詳しくご紹介しましょう。

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