伝染病との戦い
男も女も鼠径部または腋窩に腫物ができた
これまで数回にわたり、テーマを定めずに『デカメロン』などのお気に入りエピソードを紹介してきました。
アンドレウッチョが一段落したら中世の恋愛・結婚事情を語る章にしようかと思っていたのですが、ふとデカメロンはペストが猛威を振るっていた年に時代設定されていることに思いあたり、中世から近世の疫病対策について書いてみたくなりました。
主な参考文献はカルロ・チポッラ著 Contro un nemico invisibile: epidemie e strutture sanitarie nell'Italia del rinascimento(『見えない敵との戦い―ルネサンス期イタリアの疫病と公衆衛生制度』)とアルヴィーゼ・ゾルツィ著 Venezia nel secolo di Tiaiano(『ティツィアーノの世紀のヴェネツィア』)、Melvin Santer著Confronting Contagion: Our Evolving Understanding of Disease(『伝染病に立ち向かう ―進化する病気への理解』)。
1冊目のタイトル「見えない敵」はずばり病原体です。微生物なので見えないわけですが、肉眼で確認できないのは現代の我々にとっても同じ。そこで語られるパニックも、
「これは今の話をしているのでは……?」
と錯覚するくらい現在と共通点のある内容です。何年も前に和訳で読んだのに、改めて読み返すと共感できるエピソードばかりで驚きました。『シラミとトスカナ大公』のタイトルで和訳が出ているので、興味があればぜひ手に取ってみてほしいです。
恋愛話はもう少しお待ち下さい。私が書いたものを読んで下さっている方はお察しだと思いますが、私は三角関係が殺しに発展したりする展開が好物なので、セレクトもそんな感じになると思います。
ファラナンナ(無能男)ことマリオット氏が女房を寝取られたところで止まってますが、それも別の機会にエンディングまでご紹介したいと思ってます。
本題に移りましょう。『デカメロン』の1日目は次のような書き出しで始まります。
「しとやかな皆様、つらつら思いますに、皆さまがた女性は天性たいへん感じやすくていらっしゃいます。それだけに本書のこの出だしの部分は皆さまに重苦しい不快な印象を与えるのではないかと懸念されてなりません。それと申しますのも、事もあろうに、ペストの思い出が本書の冒頭部分に現れるからでございます。ペストは今でこそ過去のものとなりましたが、しかしそれを目撃した人、見聞きした人には、痛切な思いを残しました。一人残らず心の傷を負いました。……」(平川祐弘訳)
すでにご紹介したように、このお話は登場人物がペストを逃れ、田舎にこもって物語をし合う設定なので、1日目はペスト禍のフィレンツェで幕を開けます。
ヨーロッパは天然痘、チフス、マラリアなど様々な疫病に脅かされてきましたが、ペストはなかでも最悪でした。腺ペスト、肺ペスト、敗血症ペストの3種類があり、日本感染症学会の説明文によると次のような症状を呈します。
【腺ペスト・敗血症型ペスト】
潜伏期は2-7日で、腺ペストでは発熱、悪寒、倦怠感、嘔吐、筋肉痛、衰弱、リンパ節腫大・壊死、敗血症型ペストでは局所症状を伴わず、ショック、昏睡、手足の壊死、紫斑が出現する。
【肺ペスト】
潜伏期は2-3日で高熱、血痰を伴う肺炎、強烈な頭痛、嘔吐、呼吸不全、ショックに至る。
いずれも適切な治療を行わなければ致死的となり、19世紀末から20世紀初頭の研究によると、致死率はそれぞれ腺ペストが77%、敗血症ペストが90%、肺ペストが97%。最も恐れられ、治療法が確立するまでは多くの死者を出したのも納得です。
最初の大流行は6世紀に地中海地域を席巻した「ユスティニアヌスの疫病」で、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)では毎日1万人が死亡したとか。これは腺ペストであったと推定されています。
『デカメロン』のペストは中央アジアで発生したようです。活発な交易路に乗って1347年にイタリア半島に上陸。イタリアでは人口の半分が命を落とし、ヨーロッパの残りの地域では1350年までの3年間で全人口の3分の1が死んだと伝えられていますが、正確な死者数は不明であるとか。
ボッカッチョの記述を要約すると、フィレンツェを襲ったペストは次のような感じです。
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東地中海の方では鼻からの出血が死の兆候であったが、フィレンツェではそれと異なり、男も女もまず鼠径部または腋窩に黒や鉛色の腫物ができた。大きさはリンゴや鶏卵ほどで、大小さまざまなその斑点が次は体の至る所に現れた。最初の腫物が死の兆しで、斑点ができた者も同じ運命を辿った。医者の助言も薬も効果がなかった。なぜその病気に罹るかが不明なので治療法もなく、治る人は僅かで、腫物ができてから大体3日以内に、ほぼ全員が発熱や他の症状もないのに死んだ。
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腫物の色は内出血で肌が黒紫色になるためで、このことから黒い死、「黒死病」の別名で呼ばれます。歴史的には、これに19世紀のインド・中国での流行を加えた3回が記録に残るペストのパンデミックということになっています。
ペストはペスト菌(Yarsinia Pestis)に感染した齧歯類などの動物やノミが菌を媒介することが現代では分かっています。しかし、かつては「瘴気」を体内に取り込むことで感染すると信じられ、迷信的な治療法に頼るしかありませんでした。
感染源も経路も治療法も不明。つまり戦うための武器がなかったわけですが、疑問も湧きます。黒死病の終息後も、ペストはヨーロッパで散発的に流行します。繰り返す凄惨な光景を、人々はただ手をつかねて見ているだけだったのでしょうか。
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