中世の棺―アンドレウッチョの帰還

 ここで作品の背景に触れておきましょう。ジョヴァンニ・ボッカッチョ作『デカメロン』は、疫病が蔓延するフィレンツェを避けて田舎にこもった10人の男女が、退屈しのぎに小話を披露し合う設定です。


 フィレンツェは1438年にペストに襲われ、ボッカッチョ自身も父親や友人を亡くしました。『デカメロン』の前書きでは黒死病に見舞われたフィレンツェの地獄絵図が語られますが、それは作者がまのあたりにした惨状をもとに描かれているのです。こんなご時世なので、手にとってみようと思う人が最近多いとか。


 1人10話、合計100話の超大作で、アンドレウッチョの物語は2日目に登場します。


 さて、墓荒らしのために大聖堂に侵入した3人。大理石でできた巨大な棺を鉄の棒でこじ開け、人が通れる程度に蓋を持ち上げてつっかえ棒をします。


「誰が中に入る?」

「俺は入らない」

「俺もだ」

「アンドレウッチョが入れ」


 アンドレウッチョは嫌だと言った。2人の盗人は怒り出した。


「お前が入るんだ。でなけりゃこの棒で頭をぶん殴るぞ」


 恐る恐る棺によじ登り、アンドレウッチョは考えた。


(宝物を全部渡したら、こいつらは僕を置いて逃げるにちがいない)


 自分の分け前を確保するために、アンドレウッチョはまず最初に大司教の遺体から500フィオリーノのルビーの指輪を抜き取って自分の指にはめた。そして錫杖と司教帽ミトラ、手袋を剥ぎ取って渡し、これで全部だと言った。


「指輪は?」


 アンドレウッチョは「見つからないなあ」と言いながら捜すフリ。


 何度か酷い目に遭って抜け目のなさが身についたようです。しかし相手はプロの盗人、一枚も二枚も上手。なんと彼がまだ中にいるのにつっかえ棒をはずし、その場を立ち去ってしまいます。


 棺の中に閉じ込められたアンドレウッチョの悲観たるや。重い蓋を肩と背中で押し、持ち上げられないとわかると気が遠くなって大司教の上に倒れます。誰かがそれを見たらどっちが死体なのか分からないような有様。


 ところで、ここで言及されている「大理石の棺」、火葬の文化に慣れ親しんだ我々には今一つ想像しにくいですね。


 映画「デカメロン」では、このシーンの棺は長さ1メートルほどの4本の脚があり、蓋の位置がちょうど人の頭と同じ高さです。高いところにあることを窺わせる描写があるので、原作の想定もこのタイプの棺で間違いないでしょう。高位聖職者や君主はこんな立派な棺で大聖堂に安置される栄誉を得ていたわけです。


 シチリアの州都、パレルモの大聖堂には神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(1250年没)の棺があります。偉大なルネサンスの王にふさわしく、重さの見当はつきませんが巨大な赤斑岩の墳墓。


 このお話の棺はそれよりはだいぶ安っぽいはずですが、1人で持ち上げられる重量ではありません。中に閉じ込められたら、自力で脱出はまず不可能でしょう。


 アンドレウッチョは正気に戻ってわあわあ泣き出した。この棺はもう開けられることがない。死体に湧く蛆虫にまみれて空腹で死ぬか、見つかって盗人として縛り首になるか、残された運命は2つにひとつしかないからだ。


 すると人がどやどや入ってくる気配がした。話し声から察するに、さっきの盗人たちと同じ目的の連中だった。蓋を開けてつっかえ棒をし、彼らは誰が中に入るかで揉めはじめた。誰もその役をやりたがらなかった。


 ついに1人の司祭が言った。

「あんたらは何を怖がってるんだね。噛みつかれるとでも言うのか。死人は人を食ったりしないだろうが。もういい、私がやる」


 司祭は棺によじ登り、足から中に入ろうとした。アンドレウッチョはその片足をつかんで引っ張った。人の手が足に触れたのを感じるや、司祭はものすごい叫び声をあげて棺から転がり出た。他の全員は悪鬼の大群に追われたかのように一目散に逃げた。


 アンドレウッチョは大喜びで棺から出た。宿に帰ると、旅の仲間が心配して一晩中待っていた。すぐにナポリを離れたほうがいいという宿の主人の助言に従い、アンドレウッチョはただちに出発する。


 お人好しの若者が馬を買いにナポリに行き、その金で指輪を手に入れて無事に帰還したというお話でした。


 ところで、前述のフリードリヒ2世の墓を調査で開けた時、保存状態の悪い遺体が3つ入っていたそうです。1体はフリードリヒ2世、もう1体は子孫にあたるシチリア王ピエトロ2世と判明したものの、残りの1体は身元を示すものがありません。


「ひょっとして閉じ込められた泥棒だったのでは……」とガクブルしそうになりますが、近年のDNA検査で女性と判明したとか。


 しかし、この女性が誰なのかは一切不明で、ちょっとした歴史のミステリーのまま今もパレルモの大聖堂に安置されています。


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