名字の歴史④ 中世の「身分証明書」

 血縁関係をあらわす、特別な事情がなければ同じ名字を使い続ける、ということのほかにを指すことも現代の名字の特徴として挙げられます。


 橋本さんとか。

 ミヤギ先生とか。

 ミスター・スタークとか。


 場合によってはファーストネームより重要視されます。親しい間柄でファーストネームで呼び合うことはあるけど、公の場では普通ラストネームを使いますよね。


 いっぽう、中世のラストネームは事情が違いました。レオナルド・ダ・ヴィンチは「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と自称していましたが、ヴィンチというのはすでに述べたように出身地です。人からレオナルドと呼ばれることはあってもヴィンチさんとは呼ばれません。


 さらに表記が定まっていませんでした。


 12世紀、とある町の、恐らく有力者であったリッコマンノという男性は、数十年間のあいだに次の8種類の書き方で文書に登場するそうです。



・リッコマンノ

・リッコマンノ・デッリソラ

・リッコマンノ・ディ・ピエロ・デッリソラ

・リッコマンノ・ディ・ピエロ・ディ・カロッチョ

・リッコマンノ・デル・フ・ピエロ・ディ・カロッチョ(フ《fu》は故人を意味する)

・ピエロ・ディ・カロッチョの息子リッコマンノ

・リッコマンノ・デル・フ・カロッチョ

・リッコマンノ・ディ・カロッチョ



 ピエロは父親で、カロッチョは祖父です。父親を省いて祖父の名を連ねているところを見ると、この祖父は地元で影響力のあった人だったのでしょうか。


 名前から親子関係がある程度推測できますが、ともかく、同一人物でもその時々で書き方が違っていたことが分かります。息子のロランドは祖父と曾祖父の名は使わず、父親の名を連ねてロランド・ディ・リッコマンノと名乗ります。


 重要なのは別人と混同しないことであり、固定しなければいけないわけではなかったので当然といえば当然です。すでに確立した名字があっても、政治的な理由で捨てられることもありました。


 つまり、変わらないのはファーストネームだけ。ファーストネームが我々で言う「氏名」にあたり、親の名前や職業、出身地、渾名などは現代のパスポートや運転免許証に記載される情報――識別番号、国籍、本籍、職業、住所や電話番号などに相当すると言えるでしょう。


 名前が一種の「身分証明書」だったのです。


 ただし地元でしか通用しない身分証明書です。叙事詩では登場人物が敵に対して自分の家系を長々と語ったりしますが、ルーツが意味をなすのは認識を共有できる狭い範囲に限られるような気がします。異文化圏で「俺は〇〇の子だ」と言っても、自分の士気は上がりますが相手に影響力を与えることはできないでしょう。


 そこで世代から世代に受け継がれる、広い範囲で有効なひとつの名字をまず身分の高い人々が最初に使いはじめたようです。


 一族でも力のある人が姓として定着することがありました。先ほどのリッコマンノのおじいさんが姓になるとすると、ディ・カロッチョ(di Caroccio)がいつしかカロッチ(Carocci)になり、子孫に受け継がれていくことになります。


 イタリアの自治都市においては、同じ家系の出身者ばかりが役職に任命されるのを避けるために血縁関係を明確にしておくことが重要になりました。名字が定まっていれば家系を把握しやすかったのは想像がつきます。姓を名乗ることが禁じられはせず、農村でも支配層を真似て使っていた形跡があるとか。


 こうして中世人は名字を獲得しました……と言って最後にまとめたいところですが、なんと16世紀になってもまだ人名の表記は安定しません。


 ルネサンスの巨匠である建築家・彫刻家のミケランジェロは一般的にブオナローティの姓で知られていますが、手紙の中ではミケランジェロ・ブオナローティだったり、父親と曾祖父の名を連ねてミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ディ・ブオナロータ・シモーニだったりします。


「メディチ家」「ハプスブルグ家」など姓が確立した支配階級においても、個々の構成員は原則的にファーストネームで認識されたようです。


 まだ解明されない部分の多い分野ですが、おおざっぱに言って11世紀の萌芽から数百年をかけ(フランス革命前後まで)、「姓」は少しずつ発展していったとみられています。


 個人が名字だけで呼ばれるようになったのは案外最近なのかもしれません。



 *



~変な名字~

 イタリアの名字を検索したり語源を調べたりできるサイトCognomixコニョミックスによると、イタリアの電話帳に次のようなちょっと変わった名字が載っているそうです。読みをふるとあまりにも生々しいので興味のある方はググって下さいね☆



 Chiappa(尻)

 Culetto(小さいケツ)

 Peto(おなら)

 Pipi(pipì=おしっこ)

 Pene(陰茎)

 Pompini(口淫)

 Sesso(性交)

 Orgasmo(性的興奮)

 Schizzo(液体の噴出)

 Maiale(豚)

 Porcile(豚小屋)

 Strozzacapra(ヤギ絞め殺し)

 Tritavitello(子牛みじん切り)

 Cacchione(蛆虫)

 Trombatore(イカサマ師)

 Incapace(能無し)

 Inutile(役立たず)

 Ciula(バカ)

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 ・



 人前で呼ばれたら注目を浴びそうです。まだまだありますが、この実在する姓の名誉のために申し上げておきますと、祖先がそういう意味のニックネームで呼ばれていたわけではありません。


 イタリアに111戸存在するというSessoセッソさんの《sesso》は性別や性交、生殖器官を意味しますが、名字の由来はそのいずれでもなく、地名だそうです。「第6」を意味するラテン語のSEXTUSセクストゥスだという説もあります。ローマ時代にはセクストゥスというプラエノーメンがあり、6番目の子を意味しました。


「尻」のChiappaキャッパさんはゲルマン語のklappa(罠)、または俗語のclapare(狩る)が由来だと考えられています。


 もとは違う意味でしたが、名字としてはハードな文字列。中には改姓する人もいるとか。なお、「滑稽」で「恥ずかしい」名字、または孤児のルーツをあらわす名字(前回述べたエスポージト捨て子など)の場合、改姓が可能であると法律で定められているそうです。



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