名字の歴史③ セカンドネームのつくりかた
複数の単語で人名をあらわす習慣が11世紀にリバイバルする流れを追ってきました。今回はその構成を掘り下げます。
公証人という職業をご存知でしょうか。公正証書の作成や会社の定款の認証という、あまり身近ではないかもしれない公証人の業務。発祥は12世紀頃のヨーロッパで、名字の発展と深い関わりをもっています。
中世イタリアは何でも記録に残す社会でした。日常の出来事から人生の重大事まで、あらゆることを文字にします。取引は口約束ではなく契約書で。作成された文書は何百万通と言われ、内容は不動産売買、賃貸借、雇用契約、結婚の持参金、遺産の分割など多岐にわたります。
当然、人の名前が多く登場します。
およそ人名に見えない名前が優勢だった中世初期に比べ、後期では個人の区別が難しくなったことはすでに述べましたが、この問題に頭を悩ませていたのが公証人でした。
ユダヤ・キリスト教関連の名前は種類に乏しく、そのうえ自分の親の名前を好んで子供につけていました。「人名の由来と意味」で引用した商人グレゴリオ・ダーティの息子のように、誕生日の聖人にあやかって名づけることも行われました。
祖父母と孫、いとこ同士が同名だったり、同じ誕生日の人が同じ名前であるケースが少なくなかったと思われます。
町の守護聖人の名前も人気でした。
フィレンツェの守護聖人は洗礼者ヨハネ(イタリア語ではジョヴァンニ)。そのせいか中世のフィレンツェの男性名はジョヴァンニが最多数で、1282年から1532年の間に政府の役職についた成人男性約13万5,800人のうち約13,260人、割合では10人にひとりがジョヴァンニです。
証書は登記簿に保存され、争いが生じたら必要に応じて法廷に提出されますが、この状況で関係者名がファーストネームしか書かれていないと
「このジョヴァンニって、どのジョヴァンニ?」
なんてことになりかねません。
公証人といえばラテン語と法律に精通した文書作成のプロフェッショナル。当事者の特定ができないようでは沽券にかかわります。
それを避けるために、彼らは「セカンドネーム」を追加して同名の人を混同しないようにしました。複数の名前で個人を区別する習慣がこうしてはじまったのです。
具体的な記載法は以下の5つのカテゴリーに分類できます。
①個人名
最も多いのが、父親の名前を併記する方法でした。例えばアルベルトという人がいて、父親の名前がグイドだとすると
アルベルト・ディ・グイド(Alberto di Guido)
となります。ディ(di)は所有や所属をあらわす前置詞で、「~の」を意味します。ラテン語風に書けば アルベルトゥス・グイディ(Albertus Guidi)。
女性は未婚なら父親の名前、結婚したら夫の名前を連ねるのが一般的でした。
歴史上の人物では画家のピエロ・ディ・コジモや画家で建築家のジョット・ディ・ボンドーネなど。ルネサンス史で「ディ・〇〇」という人名が出てきたら、ディの後ろは父親、あるいはそれに類する深い関わりのあった人物の名前とみて大体は間違いありません。
②地名
ヴィンチ村出身のレオナルド・ダ・ヴィンチが有名ですね。ダ(da)は出発点や由来をあらわす前置詞で、英語のfromに相当します。
食生活編で画家ポントルモの日記を引用しましたが、ポントルモは出身地に由来する名で、本名はヤコポ・カルッチ。人からはヤコポと呼ばれていたようです。
③役職や社会的地位
例:コメス(伯爵)、クレリクス(聖職者)、セルウス(従者)
これらはやがて家族の姓として定着します。ポデスタ(司法長官)、ヴィカーリオ(行政の役人や代理人)、レットーリ(行政長官)、カンチェリエーリ(書記官)などの現代の名字は、その役職についていた人が先祖にいることを推測させます。
④職業
例:ネゴティアンス(商人)、アウリフェクス(彫金師)、マギステル(高級官僚、現場の親方)
ファッブリ、フェッレロ、ファヴァロ、フェッレリなどは職業姓で、すべて鍛冶屋をあらわします。日本の名字「鍛冶」も起源は同じだそうですが、だからといって今、鍛冶屋をやっているわけではないのはイタリアでも同様です。
エスポージトやトロヴァートは孤児の出自を意味します。意味はそれぞれ「捨て子」、「見つかった(子)」で、かなり露骨に祖先の事情が分かる名字です。
フィレンツェに、インノチェンティ捨児養育院(Spedale degli Innocenti)という歴史的建造物があります。ルネサンス建築が美しいこの建物は15世紀の創設からおよそ400年間にわたり、捨てられた子や事情があって親元で育てられない子供を一時的に預かっていました。いわゆる孤児院。
やってきた赤ん坊は職員によって名前をつけられましたが、まれに「マリア・インノチェンテ」のように施設の名称を連ねて命名されました。後にこれが養育院出身の子供たちの名字となっていったそうです。
インノチェンテ(innocente)は「罪のない人」を意味し、新約聖書でヘロデ王の命令により虐殺された嬰児に関連付けられる語で、意味合いはポジティブです。孤児の幸福を願ってつけられたのかもしれません。
イタリアで最もポピュラーな名字であるロッシ、ビアンキに次いで、現代のフィレンツェでは3番目にインノチェンティが多いという統計があります。
⑤通称名
あだ名も個人を区別する要素として公文書に記載されました。
バッソ(チビ)
ロッシ(赤毛)
ファルコ(ハヤブサ)
ヴォルペ(狐)
ヴァッカ(雌牛)
などは現代の名字ですが、すべて先祖のニックネームに由来すると考えられています。
人名が多く登場するのは公証人文書だけではありません。フィレンツェの刑事裁判所である
ロ・スコンチョ(身なりがだらしない男)
イル・グーフォ(ふくろう)
ラ・レプレ(野兎)
ラ・クッチョラ(子犬ちゃん)
ラ・ソルダータ(女兵士)
ココーメロ(スイカ)
〈赤毛〉はまだしも〈だらしない男〉という通り名、本人はともかく女房や子供はどう思ったのでしょう。
イタリア人の名字は30万種以上にのぼり、その5分の1ほどしか解明できていないそうですが、40%が先祖の名前と出身地、10%が職業、残りがニックネームに由来すると考えられるとのこと。芳しからぬ評判が子孫の名字になったら先祖としては複雑な思いを抱きそうです。
実際に表記する際はこれらを必要に応じて組み合わせます。
――グイドの息子アルベルト、ピサ出身の兵士、通称〈赤毛〉
――レオナルダ、居酒屋の主ジョヴァンニの妻で娼婦、通称〈子犬ちゃん〉
――ロレンツォ、ピエロの息子で祖父の名前はコジモ、ムジェッロ出身、薬種商
これならもう混同することはなさそうです。
親の名、出身地、地位、職業、あだ名。これらがどんなプロセスを辿って「姓」として定着するかに触れて、次回で人名の章を終える予定です。
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