名字の歴史② 盛期中世
「イタリア半島の住民が名字をもつようになるのは西暦1000年より後」と、18世紀の研究書に書かれているそうです。
ピサ大学教授のロベルト・ビッツォッキ氏が著書『イタリア人の名字――1000年の歴史』の中でそれを検証しました。
斜塔で有名なピサ。中世では
変わった名前が並んでますね。これは当時の言葉がラテン語でもイタリア語でもなかったことが理由のひとつです。
ゲルマン民族の言語は、口語としてはイタリア半島から跡形もなく消えます。ローマ時代の公用語だったラテン語も、中世では文語として残るだけでした。上品なラテン語で会話していた可能性があるのは知識人、つまりこの頃では聖職者のみ。一般人の会話はラテン語のスラングである「俗語」です。(この俗語が後にイタリア語になります)
俗語の影響を受けた人名をラテン語で表記する際の妥協の産物で、公文書は変な名前が続出するそうです。解読する研究者はさぞ大変でしょう。読む私は楽しいだけですが。
話を戻します。やはり当時は名字がなかったようですね。
ところが、ここに興味深い史料があります。ナポリ近郊の農民の名簿、703年。ボネリージ、ルビオーロ、テオドラーチョ、シコノルフォ……といった個人名が並ぶなか、いくつかに名字があるように見えます。例えば、
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レオーネ・カタローディ
マリア・カタパルンボ
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これは名字なのでしょうか。
結論から言うと、厳密には違います。
以下ややこしいのでさらっと流してほしいのですが、
区別のために父親の名前を後につけて呼んでいたものと思われます。一代限りなので名字ではありません。
それでも、複数の名前を使う古代の習慣は何らかの形で残っていたと言えそうです。
異民族の流入によってローマ人の名前表記法が廃れた話をしましたが、例外の地域がありました。
世界遺産になったあの街です。
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伝説によると5世紀なかば、ランゴバルド族に追われた人々が湿地帯に逃げ込みました。海と侵略者にはさまれた難民は浅瀬に杭を打ち、家を建てて住みはじめます。複雑に入り組んだ潟はいわば天然の要塞。中世都市につきものの市壁や門はなく、夜間の見張り番もいませんでしたが、街はいつも安全でした。
もうお分かりの方もおいででしょうか。そう、水の都、ヴェネツィアです。
ヴェネツィアは陸地を追い出された漁民の集落としてはじまったのでした。ここでやがて地中海最強の艦隊が誕生しますが、それはまた別の話。特異な立地で外敵を寄せつけなかったヴェネツィアは東ローマ帝国と結びつき、独自の文化を形成しました。ローマ時代の伝統が静かに温存されていたらしく、9世紀なかば、他に先駆けて次のような「第2の名前」をもつ人名が出現します。
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ウルスス・バドウアリウス
ヨハンネス・グラドニクス
アンドレアス・コンタレーニ
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いずれも、その後1000年近くにわたって国政を担うことになる貴族の姓です。
ヴェネツィアではすでに姓の習慣がはじまっていました。しかし広く普及するのはまだ先なので、やはり「西暦1000年以後説」は正しかったと言えるようです。
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11世紀を過ぎると様相はがらっと変わります。
ランゴバルド族が首都を置いた北部の街パヴィアでは、公文書の人名が複雑になっていました。
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グイド・フ・ピエトロ・ヴァッカ
シジフレード・ダ・ムリアーゴ
アンドリアーノ・トルナトーレ
ベッレボーノ・パニッツァリオ
ミーロ・ダ・カステッラリオ
……
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2つ以上で構成される名前が主流になり、1つしかない人はめったにいなくなりました。書き方は色々でしたが、常に複数の単語で表記するようになります。
この急激な変化はなぜでしょうか。
理由のひとつに、中世ではユダヤ・キリスト教由来の名前を選ぶ傾向が強くなったことが挙げられます。
キリスト教の聖書や伝説の登場人物は多くないので、同名の人を区別する必要が出てきます。ローマ時代のプラエノーメンを思い出して下さい。17種類を使いまわすプラエノーメンでは不足で、コグノーメンで個人を識別していたのでした。それと似た事態が起こったのです。
しかし「スンドゥアルド」や「ウエグランティス」のような独創的なネーミングが消滅したわけではないので、それだけでは説明がつきません。
答えは社会の発展にあります。
11世紀から13世紀にかけて、ヨーロッパの人口は大雑把な推定でほぼ倍になりました。
都市国家が誕生し、道や橋が整備され、人が行き来して定期市が頻繁に開かれます。ピサ、ヴェネツィアなど海洋都市は貿易の覇権を争い、内陸部ではフィレンツェが毛織物産業で繁栄します。教育水準が上がり、大学が誕生します。都市ばかりか農村レベルでも流動性が生まれていました。
複雑になった中世社会が機能するためには、単純な表記法では不都合が生じるようになっていたのです。
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