ツクモガミ
N通-
夢
まだ日差しの強い晩夏の時。広々とした一軒家のリビングで、ゆったりとしたソファーに身を沈めていた雅臣が、何かに気付きキッチンに向かって呼び声を上げる。
「杏! こっちに来てご覧」
「はーい」
温和な耳心地の良い声で応じたのは、前髪を長めに垂らした女性だった。整った顔立ちに穏やかな笑みを浮かべ、エプロンの裾で手を軽く拭きながら、自分の主人の元へとやってくる。
「どうかなさいましたか、雅臣様」
「ああ、杏。これを見てくれよ」
雅臣は、今まで何とはなしに見ていたTVのニュース番組を指し示した。その中で、画一化されたテロップの一つがアップになり、次いでアナウンサーの淡々と原稿を読み上げる声がリビングに響き渡る。
『本日、午後8時20分頃、東奥町の裏路地にて、凄惨なアンドロイドの事件が起こりました。発見されたアンドロイドは......』
そのニュースを見ていた杏と呼ばれた女性は、はっきりと顔を曇らせて自分の主人に寄り添うようにソファに腰を下した。雅臣もそんな杏を気遣うように肩を抱き寄せる。
「またアンドロイドが・......」
「ああ。最近かなり増えてるらしい。お前も、充分気をつけておくれ」
心底心配そうな雅臣に、杏はくすりと笑って答えた。
「まあ、雅臣様。少し過保護ではありませんか?」
「い、いや。しかし心配なものは心配でな」
慌てたようにうろたえる主人の様が微笑ましく、杏はまたもや笑ってしまう。だが、笑われている雅臣本人も確かに自分の杞憂が過ぎるかと、照れ臭そうに頭を掻いた。
「でも、雅臣様のお気遣いは本当に嬉しいですよ」
言葉通りに心からの笑顔を男に向ける。
「ああ、杏。私はお前がいないとダメなんだ。ずっと傍にいてくれ」
「はい。杏はずっと雅臣様のお傍におります」
雅臣の肩に頭を乗せて、杏はぽつりと呟いた。
「杏は世界一幸せなアンドロイドです......」
もう夜も更けた頃。杏は冷蔵庫の備蓄状況を確認して、あっと小さな声を上げた。主人がいつも就寝前に飲む銘柄のミネラルウォーターを切らしていたのだ。
「杏? どうしたんだ」
風呂から上がり、タオルを頭にかけた状態の雅臣が声を掛ける。杏は、少々困ったように微苦笑を浮かべた。
「いえ......、雅臣様がお飲みになるお水を切らしてしまって......、お昼には確かにあったのですけど」
困惑している杏に、雅臣はバツの悪そうな照れ笑いを浮かべる。
「すまない。昼に余りにも喉が乾いたので、飲み干してしまった」
「そうだったんですか。申し訳ありません、全く気付かずに」
「何を言うんだ。私の勝手にしたことだよ。君に落ち度はない」
それでも自分の責を悔やんでいた杏は、やがてくっと決意をしたようにエプロンを脱ぎ始める。
「私、ちょっとお買い物に行って参ります」
「こんな時間に!?」
思わず時計を振り返った雅臣。時刻は深夜も深夜であり、明日が休日でなければとっくに就寝している時間だった。
「ならば私も行くよ」
思わず同行を申し出る雅臣だったが、杏は首を振ってそれを固辞した。
「雅臣様、大丈夫ですわ」
「いや、しかし......最近はアンドロイドを狙った事件が多すぎるし」
渋る雅臣だったが、それでも主人に喜んで欲しい一心の杏に勝てはしなかった。仕方なく嘆息し、財布を手渡す。
「いいかい。くれぐれも気をつけて。何か危ない事があれば、すぐにガードへ通報するんだ」
「はい。では行って参ります」
意気揚揚と出かける杏の後姿を、雅臣は真剣な面持ちで見送る。
「ついでだし、ストックもまとめて買ってしまおうかしら」
アンドロイドに車の運転は許されていない。徒歩で辿り着いた深夜営業の店で、ミネラルウォーターの陳列してある棚を前に杏はそう決めた。人間のような外見であっても、中身は機械の杏にしてみれば、ペットボトルのケースを持ち運ぶのに全く難儀しない。そうして、2ケースを紐で縛り付けて軽々と持ち上げ、主人の元へと急ぐ。その後を、ギラついた目をした人影に追われているとも知らずに。
「............」
店を出て暫く、杏の知覚センサーは不自然な集団を捕らえていた。自分と一定の距離を保ったままかれこれ10分以上は経っている。試しに突然角を曲がってみても、その集団はぴたりと後を追って来た。
「............」
そして道を曲がった事をすぐに後悔する。そこらは人家も街灯も少ない不穏な路地になっていたのだ。そこに入った時から、背後の集団の動きは劇的に変化を見せた。今まで保っていた距離を一気に詰め始めたのである。
「!」
杏は恐怖を感じ、すぐさま駆け出そうとした。しかしどういう事か、足の関節モーターの具合がおかしい。仕方無にガードへの通報システムを起動する。ところが、これも全く使えない状況になっていた。強力にジャミングされているのだ。いよいよもって杏の恐怖心は高まる。最近アンドロイドばかりを狙って集団で襲う事件が多発している。まさか自分がその被害者になると夢にも思わず、焦燥感ばかりが募っていく。
そして、ついに知覚センサーまでもが狂わされていた。集団は、とっくに杏の周りを取り囲んでいたのだ。
「あ、あなたたちは何者ですか!」
恐怖に引きつらせた顔で尋ねても、当然のように誰一人答えなかった。だが、その顔には下卑たいやらしい笑みを皆浮かべて、舌なめずりしギラついた目で杏の全身を舐めるように見まわす。杏はいよいよ恐怖で回路がショートするかもしれないと思った。
「へっへっへ、助けを期待しても無駄だぜ? これ、ジャミングをかけると同時にアンドロイドのモーターやセンサーその他諸々を抑制するマシンなんだがな......生産工場の横流し品は流石に出来が違うな」
その中でリーダー格らしい男が、杏も見覚えのある検査用機械を自慢気に掲げていた。それは抑制状態での耐久テストなどにも使われる絶対社外秘の装置だ。それに絶望を覚える。あの機械があれば、杏は普通の人間以下の力も出せず、ましてや助けも呼ぶ事ができない。
「おっほ、アンドロイドに恐怖心のプログラムを与えるなんて、科学者は残酷だねえ。......お前ら人形がそうやって人間のフリして俺達の世界に割り込んでくるのは、もう我慢ならねえんだよ。今から人間さまの偉大さをよーくその身体とメモリーに刻み込んでやるぜ」
情欲にほだされた上気した顔に、杏は本来プログラムとしては滅多に作動しない生理的嫌悪感を覚えた。少しでも抵抗しようにも、抑制装置のせいで手も足も出ない。それに、杏達アンドロイドには最高優先命令として人間に危害を加える事が出来ないように作られていた。これは基本原理の根底に刷り込まれているので、どんな状況にあろうとも手出しは出来なかった。
「さあっ、お楽しみの時間だぜ」
男達の手が次々に杏に伸び、その衣服にかかった。
「い、いやあぁぁぁーーーー!?」
――三時間後。赤色燈が辺りを埋め尽くし、無数のパトカーが一帯を封鎖していた。どこか疲れたような顔の完全武装警官達が撤収準備をし、後続の普通警官に状況を依託している。そんな中、安藤警部は険しい顔で部下の平野警部補に歩み寄る。近付いてくる安藤に気付いた平野は、敬礼をし、それから申し訳なさそうに頭を下げた。
「ああ、これは警部。わざわざすみませんね。お休み中に」
「仕方ないだろう。こんな事件がおきたんじゃあな」
疲れたように息を吐き出し、封鎖された区域に足を踏み入れる。
「状況は?」
「はい。本日午前1時ごろ、この路地にて集団によるアンドロイドへの虐待をしかけようとしたようです」
「ふん。またか......。全く、馬鹿どもが」
「集団の一人はアンドロイドの生産工場謹製の抑止装置を所持していたようです。それを使って、アンドロイドのあらゆる機能を停止させてから襲いかかったのでしょう」
平野の説明を聞きながら現場に到着し、その惨状を目の当たりにした安藤は思わず息を呑んだ。
「......これは。......酷すぎるな」
「全くです」
そこには、変わり果てた杏の姿があった。全身の服には焼け焦げた穴が空き、その胸部には一際大きな穴がぽっかりと空いていた。穴の内部から向き出しの電子配線やオイルパイプが飛び出している。全身は真っ赤に染め上げられ、その瞳は輝きを失っている。口からは、一定の単語が繰り返し繰り返し流れ続けていた。
「まだ機能停止になっていないのか」
「いえ、もうはや自立行動は不可能のはずです」
だが、実際にその口からは止め処無く言葉が流れている。平野は手元の資料に再び目を落とした。
「続けます」
「午前2時半頃、近所を参歩していた大学生が現場を発見、通報を受けて直ちに機動警察隊が出動。鎮圧しました」
「鎮圧? どうせまたいつもと同じだったんだろ」
「はい。アンドロイドは襲われかけたところで"集団全員を素手で惨殺した後、今の場所に呆けるように座り込んでいました"」
杏の周囲は、夥しい量の血液で真っ赤に染まっていた。血液による水溜りも散見できる。壁や床にこびりついて回収しきれていない肉片が広範囲に渡っていた。杏の両手も、また赤いペンキで塗りたくったようにぬめり光る血液で固められている。この惨状の光景も、また全く戦闘の意思が無い状態で発見されるのも、いつものことだった。 そしてその後の機動警察隊による集中放火によって無抵抗のアンドロイドの破壊が行われるのも。ボロボロのアンドロイドを難しい顔で安藤が眺めていると、慌てたように駆け込んできた男が横を通りすぎていく。
「あ、杏!! 杏!! お、おおぉぉ......酷い......何て酷い!!」
雅臣だった。血溜に一切構わずに、変わり果てた杏にすがりついて我を忘れてボロボロと涙を流している。
「アンドロイドの所有者です」
「.........・・ふん」
平野の補足に、安藤は不満げ鼻を鳴らした。現場では馴染みの光景であっても、いつまでたっても慣れる事はない。それが聞こえたのか、雅臣は杏から飛び跳ねるように離れ、安藤に詰め寄る。
「お前達か!! 杏を......こんな姿にしたのは!!」
雅臣は涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、怒り頂点に達し安藤の襟首を掴みにかかった。その時点で公務執行妨害を取る事も出来たが、安藤は無言で雅臣にされるがままになっている。
「杏が一体何でこんな目に合うんだ!! ええっ!! どうしてなんだよ!!」
完全に頭に血が上っている。そのままでは流石にマズイと思ったのか、平野が宥めるように雅臣を優しく引き離す。
「あのアンド......失礼。"彼女"は、10人超の人間を完膚なきまでに虐殺してしまいました。我々は、一般市民の安全確保の為にやむなくこのような処置を施したのです」
「杏が何の理由も無く人を襲うわけが無い!! 大方殺された奴らは救い様の無い馬鹿者だったのだろう!?」
その意見に安藤は大いに賛同したかった。アンドロイドが"何の理由も無く"人を襲った事件は、これまでに一件も無い。全て、"人間の傲慢による"正当防衛が全てだった。行き過ぎたアンドロイド廃絶論者やそれにかこつけた単なる性欲の解消目的にアンドロイドを襲おうとする......。そして、本来出来るはずの無い謎の"正当防衛"を果たしたアンドロイドはそれ以上誰に危害を加えるでもなく座り込み、警察が蜂の巣にするのだ。昨今の事件のパターンは全て同一だった。
「確かに、殺された連中はアンドロイドに性的暴行を加え様としたようですな。だけれども、"実際に暴行をされる直前に"人を10人も殺してしまったのは事実です。そのような危険な存在を野放しにするわけにはいかない」
毅然とした物言いの安藤に、雅臣は涙を流しながら崩れ落ちる。安藤は暫く哀れな男を見下ろしていたが、雅臣はのろのろと立ち上げると杏の元へと歩き、全身に弾痕と返り血を浴びたアンドロイドを愛しそうに抱きながらいつまでも嗚咽を繰り返していた。
「たまりませんね、この事件は」
「全くだ」
襲われたアンドロイドはいずれも近隣住民にも愛され、家族には特別に愛情を注がれていたものばかりだった。彼女達は、皆自身の身に最大級の危機が訪れた時に常識では全く考えられない行動に出たのだ。安藤はアンドロイドに対して不快感を持っているわけではなかったが、殺人を犯す機械には脅威を感じていた。
「ところで警部、製造メーカーにまた問い合わせてみたのですが」
「無駄だろう」
「はい、その通りでした。メーカー側は"いかなる理由があろうとも、人間に危害を加える、ましてや殺すのは機構的に不可能だ"という回答でした」
「当然だな。でなければ未だに販売を続けることはできまい」
しかし、実際に殺人事件は起きている。しかも今回は抑制装置まで使っていながら、襲われる直前に本来以上の力を発揮し素手で人間の体を引き裂いたのだ。カタログスペックでもそこまでの力は書かれていない。そして、ロボットの基本原理に基づいた刷り込みはどのようにカスタマイズしようとも覆せる命令ではなく、事実破壊されたアンドロイド達は全てその命令が生きていた。だというのに、アンドロイド達は、不可解にも人間を殺した。本来ならメーカーは即時販売停止と回収を行わなくてはならないはずだが、一連の事件ではそれも無い。世間も、多発する事件の非が殆ど全て人間の側にあることを知っているからだ。
アンドロイドは今や人の良きパートナーであり、完全なる善の存在なのだ。"正当防衛"の後の無抵抗の様子もテレビでセンセーショナルに連日特集され、大衆心理はむしろアンドロイドに同情的で、マスコミもそれに沿った報道をしていた。破壊されたアンドロイド達がいかに愛されていたのか、所有者の家族達を巻き込んであらゆるメディアが愛すべき哀れな機械を悼んでいた。
「最近、人口知能精神学の先生から回ってきた分析結果があるのですが......」
「何だ、その妖しい宗教のような学問は」
「多様化するアンドロイド達専門の精神科医と言ったところですか。まあ、そこの先生の興味深い話がありますよ」
平野は、苦笑するように資料を読み上げる。
「彼女らアンドロイドが何故プログラムの絶対至上命令を無視して行動出来たのか、それは人間に育まれた愛情によって芽生えた自我こそが要因であると考えられる。彼女達は人間と触れ合う事により、まるで本当の人間のようにロジックを構成しなおし、矛盾命令をも内包して成長したのではないか。そして、惨殺後に放心するのはロボットの原則と"人として"の罪の意識、精神的ショックの連続によって致命的な行動矛盾を起こしてフリーズしたものと考えられる。彼女達を破壊するのは容易いが、しかるべき処置を行えば、その後も人間社会に再適応するのは充分可能と言えるだろう」
長々としたその文面を聞いていた安藤は、我慢できずに声を荒げた。
「くだらん、馬鹿げている! ロボットに"リハビリ"をさせろと言い出すとは、全く学者先生様は恐れ入る!」
「しかし彼の説は急速に支持を集めています。いまや、ロボティックサイコロジカルの第一人者としての名声を確立していますよ。その内、単純な鎮圧ではすまなくなる時がやってくるでしょう」
平野の言葉に、安藤は戦慄する。殺人を犯した機械を壊す事無く再使用するなどおよそ正気の沙汰とも思えなかった。
「マスコミは"ツクモガミ"なんて古い言葉を引っ張り出してきて事件を煽っていやがる」
「何です、それ」
平野はその言葉が初耳であった。
「太古、人は物を大事に扱えばその物に魂が宿り化けて出ると信じていたらしい。その魂が宿った状態をツクモガミと呼んだのだそうだ」
「なるほど、上手い事を言う」
感心する平野とは対象的に安藤は不機嫌極まりない。彼は、機械に魂が宿るなど断じて有り得ないと信じていないからだ。
「彼女達は、余りにも注がれた愛情によって魂が芽生えたのかもしれませんね。それゆえの、行動矛盾かも」
「そんなことは有り得ない」
轟然と言い放った安藤に、平野は仕方が無いと言ったように肩をすくめた。どっちにしろ、どこに魂があるのかなど、その有無をこの夢の時代であっても誰にも確認のしようがないからだ。安藤と平野は、もうこれ以上はここにいても無意味だと判断し、踵を返す。その後ろでは、機械に心奪われた人間だけが残される。
「杏......杏......」
雅臣は愛しいアンドロイドの亡骸を抱き締め、ただひたすらに泣いていた。杏の口から延々と繰り返される言葉に、雅臣はいつまでも落ち着くことのない悲しみに暮れていた。
「雅臣様......私は幸せです......雅臣様......私は幸せです......雅臣様......私は幸せです......雅臣様......私は幸せです......雅臣様......私は幸せです......雅臣様......私は幸せです......雅臣様......私は幸せです......」
ツクモガミ N通- @nacarac
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