(Ⅵ)ファングシュレクン

 ――十六時を過ぎても、彼のブログの更新はなかった。


 この時点をもって、ファングシュレクンはゴルディオイデアが死亡したと判断する。


 フリージャーナリストとしての彼のブログからリンクをたどり、一つのページを開く。そこは、憲法擁護テロ対策局BVTが用意した無数のダミーサイトの一つだった。


 格納されたゴルディオイデアからのレポートをダウンロードし、マスターサーバー〈バク〉の専用フォルダへと移し替える。彼の完遂した仕事は証拠となって、ファングシュレクンが巨悪を暴く際の貴重な武器となるだろう。


「――だが、それはいつのことだ」


 知らず、疲れ切ったつぶやきが漏れた。


 企業の不正を裁く。それは、くたびれ果てた自分を突き動かす唯一の悲願だ。


 そのために、年少の友の死を隠蔽し、優秀な後輩に背を向け、ただ一人で歩んできた。その上信の置ける数少ない部下を死地に追いやり、その成果だけを自分だけが吸い上げている。


 いったい、あとどれだけこの立場に甘んじなくてはならないのだろう。いつになれば、自身の無力さを克服できる時が来るのだろう。


 いつでも自分は見送る側で、クォヴァディスと問うことしかできはしない。共に戦おうと、自らが犠牲になると、そう言えればどれほど楽になれたことか。しかし敵の強大さは、孤軍となる以外の選択肢を彼から奪っていた。


 あるいはこのまま、何も為せぬまま擦り切れるのではないか――そんな恐ろしい予感が頭をよぎったとき、机の上の端末が鳴った。


『――局長、国際法廷開催期間の警備について、未来党のラグバルト内務大臣からご連絡が』

「折り返すとお伝えしろ」


 通信を切り、姿見の前に立つ。そこには、憔悴しきった痩身の男の姿があった。


 黒ずくめのスーツ、黒眼鏡の奥で光る神経過敏気味の目つき。静かで凶暴な――凶暴に見せかける努力を続けてきた黒いカマキリファングシュレクンを連想させる男。


 ファングシュレクン――憲法擁護テロ対策局BVT局長、エゴン・ポリは、曲がったネクタイを締め直して局長室の出口へと向かう。


 しかし、何かを思い直したかのように踵を返すと、再びディスプレイへと向き合った。


 画面には、夕暮れを背景に裸足でサッカーに興じる少年たちの画像が写っている。ゴルディオイデア――ゲイリー・トゥロンが撮影したものだ。


 憲法擁護テロ対策局BVTの業務とは関係のない、素のままの彼が切り取った風景、その最後の一枚。そこに込められた思いを感じて、エゴンの表情の険がわずかにゆるむ。


「……ピュリッツァーには届かんだろうがな」


 言いながら、その画像を保存してデスクトップの背景に設定した。彼の残した仕事を称えるかのように。


 そして今度こそ、局長室を後にした。


 ――蜘蛛のように罠を張るでも、蝶のように軽やかに舞うでもなく。

 怯えながらも、そのかまを振り上げたまま。

 孤独な蟷螂はひとり、眈々と彼の獲物を待ち続ける。

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怯える鎌 近藤那彦 @John_Kii

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