(Ⅴ)赤のジャック

「――ジャブ。おいジャブ。居眠りをこくにはまだ少しばかり早いぞ」


 すっと胸に染み入る、聞く者を落ち着かせるような声音。


 その声に引き寄せられるように、ジャブ・ムラウジ――やがてゲイリー・トゥロンと名乗ることになる青年は、浅いまどろみから意識を浮上させた。

 部屋の明かりに目がくらみ、自身の所在を見失う。二度、三度と瞬きを繰り返し、ようやく周囲の様子が分かってくると、四人の兵士がそれぞれの表情でこちらを伺っているところだった。

 その中の一人、いまジャブへと声をかけてきた男が、ダンディズムそのものというような笑顔を浮かべて言う。


「疲れているところをすまんが、我々としてもお前さんに寝られると足をなくしてしまうんでな。エスコートが済むまではしゃっきりしていてくれ」

「……すみません、どれくらい眠っていましたか」

「なに、ほんの五分くらいだ。コータローは寝かせといてやれと言うんだが、寝起きで運転してもロクなことにならないのは、新車で買ったSUVをひと月でスクラップにしてから身にしみて分かっていてな。少し早めのモーニングコールというわけだ」


 男のウィンクの向こうに、別の男の姿がある。


 あぐらをかいたまま、得物であるライフルを丹念に調整する東洋人。口数は恐ろしく少ないが、反面、その言葉は場面場面でもっとも必要とされるものであり、よく本質を突いた。

 そんな彼――コータロー・佐脇・クロイツェルが自分を慮ってくれたことに、ジャブは感謝と申し訳なさを等分に抱く。


「ありがとうございます、コータロー」

 言葉を投げるが、思っていたとおり返答はない。

 ただ黙々と調整と点検を続けるコータローに呆れたのか、兵士の内の紅一点が首を振って見せた。


「まぁ、分かっちゃいるだろうがこういう奴なんでね。気を悪くしないでおくれ」


 いわゆる女性らしさというものは皆無ながら、四人の中ではよく気が回り、関係の潤滑油となることを自任する人物だった。畢竟、男衆三人の隊外への粗相は彼女がフォローすることになり、そのことでよく愚痴っているのを聞かされている。


 席を立った彼女は、部屋の中央に据えられた机をのぞき込んだ。


 そこに広げられているのは一枚の地図。いま彼らがいるキャンプとその周辺のものだ。

 その上にはいくつもの記号と線が描かれ、この地図を巡っていくつも推論と思索が行われてきたことを物語っている。その内のいくつかを指でなぞりながら、シャロン・女郎花・ベイカーは感慨深げに嘆息した。


「ここまで複雑に入り組んだ勢力図の中、よくもまぁ正確な情報を持ち帰ってこれるもんだ。ただの現地案内人としてスカウトしたけど、偵察兵スカウトとしての才能もあるんじゃないのかね、あんたには」

「どちらかと言えば狩人の才能だと思うね、俺は。潜み、溶け込み、息を殺して獲物を待てる我慢強い人間はそう多くない」


 アリ・ジアッド・ムハウィシュが笑いながら言った。


 四人の中ではもっとも多弁だが、決して話好きというわけではなく、自身が抱える不浄を言葉にして吐き出す一人語りなのだと、ジャブはかつて聞いたことがある。


「だが狙撃兵は無理だろうな。銃に関するセンスがない。スパイとかアサシン、そういう暗がりから一刺しするようなのと相性がよさそうだ。これから俺たちが狩ろうとしている〈気高いオオカミ〉だか〈オオカミの気高さ〉だか、そんなゲリラ連中よりよっぽどの難物になれると見るが」

「褒めてるんですか、それは」


 ジャブは苦笑した。まったく、できることならそんな暗がりで生きるような人生は送りたくないものだと思う。


 そんなジャブの顔をのぞき込むようにして、はじめに声をかけてきた男――〈赤のジャックロートバオアー〉の隊長、ミハエル・宮仕・カリウスが問うてきた。


「お前さんは警察志望だったか、ジャブ」

「はい。教育もろくに受けてないですが……やっぱり高望みですかね?」

「それについては請け負おう。安心してくれ」


 ミハエルはジャブの肩を叩いた。


「身を立てるために必要なのは、教育と資金、そして少しの情熱だ。その内の二つは、我々に協力してくれた見返りとして用意することができるだろう」

「どうして警察なんだい? いまのこの国じゃ、正直割に合わないだろうにさ」


 シャロンの言葉に、無意識に手が腰へと伸びる。

 提げられた小さな鎌――もはや錆びきって変色してしまった、何物をも刈り取れない過去の残骸。それに一瞬だけ目を落とし、ジャブは語り始める。


「……うちの家は、大麻農家でした」


 ――悪名高きファスト・トラック。農地の強制接収と再分配により、小作人であったはずのムラウジ家は、一夜にして広大な農地を持つ大農家となった。


 はじめは喜んでいた一家であったが、夢が醒めるのもまた早かった。彼らに大規模の農場運営のノウハウなどあろうはずもなく、種を蒔けども枯らすばかりで、その収穫量は農地の規模に比して惨々たる有様となってしまったのだ。

 白人たちが置き去りにした農業機械も使い手がおらず、結果的に収穫の手法は原始的な鎌によるものに取って代わった。皮肉なことに、激減した収穫量では、その手法でも十分すぎるほどだった。

 ジャブは鎌を片手に農場を回りながら、それでも腐ることなくただ一人の弟と語り合った。


 いつか必ず、この土地に豊かさを取り戻そう、と。


「しかし、人は困窮には耐えられない。父もまたそうでした。そして手間ばかりかかり大して金にならない小麦よりも、育成に手がかからず、はるかに金になる大麻へと舵を切った」


 結果、確かに経済状況は好転した。


 しかしその一方で、ムラウジ家はたびたび裏社会の脅威に晒されるようになった。かたぎではない男たちが小銃を片手に見回りに来るようになり、上納金と、彼ら個人への心付けを支払わざるを得なくなった。

 心理的重圧によって、父は家族に暴力を振るうようになった。母は万事に無気力になった。やがて、かつて黄金色に波打っていた農地が、深緑のさざめきに覆われるに至ったとき、ジャブと弟は家を出る決心を立てたのだ。


「弟は町へ住み込みで働きに。そして自分はこのキャンプで。この鎌は、二人であの農地を取り戻すと誓い合った記念品です」


 四人の視線がジャブへと向いていた。


 過去を語り終えた青年は、静かに、しかし固い意志を込めて、言葉を吐き出す。


「俺は麻薬を憎みます。家がおかしくなったのは大麻だけが原因でないことは分かってる。でも、あれさえなければ、俺はまだ農家でいることができた」

「それを取り締まるために、まずは警察、か」

「すべての大麻畑を焼き払ったあとで、俺はあの土地にまた鍬を入れることができるようになるでしょう。弟とともに。それが、俺の目指す夢です」


 聞き終えたミハエルが男臭く笑った。


「悪くない夢だ」

「そのためには、まず足下の治安をどうにかしないとならないねぇ」


 それを受けたシャロンが得物を手に取る。

 コータローが立ち上がり、ムハウィシュがザックを背負う。気づけば、作戦開始の時間が迫ってきていた。


 今回〈赤のジャックロートバオアー〉が担当する任務とは、国連の支援物資の輸送ルート上に陣取る、ゲリラ集団を排除すること。

 ジャブは〈赤のジャックロートバオアー〉を要撃地点まで送り届けた後、作戦終了後に回収する役割を負っていた。ミハエル、コータロー、シャロンが部屋を出ていき、ジャブもそれに続こうとしたところで、背後からムハウィシュの声がかかる。


「ジャブ、その鎌、いつまで持っているつもりだ?」


 振り返ると、思っていたよりも近くにムハウィシュの顔があった。


 少し驚いて身を退いた。ムハウィシュは大して気を悪くした風でもなく、ジャブの腰元を指さす。


「いい加減ガタが来てるだろう。錆もひどいし、いずれ折れる。何より、いつもそれをぶら提げていては浮いてしょうがない」

「それはそうですが……」

「分かるさ。本当に大事な品は常に身につけていたい。失くしたくないってな。だから、そういうものは自分の身に刻むものだ。――こういうように」


 そう言うと、ムハウィシュはジッパーを下ろして自らの胸を晒して見せた。

 そこにあったのは赤い図形。横になった長方形を、直線が一本縦に貫いている。

 ジャブにはそれが何を示しているのか分からなかった。怪訝そうな青年に対し、ムハウィシュが口の端をつり上げて笑う。


「〝あたる〟と言うんだそうだ。東洋のゲームで、四枚一セットの札。〈赤のジャックロートバオアー〉の絆を示す証だ」


 その言葉に、ジャブはムハウィシュという人間の在り方を察する。


 多弁によって不浄を吐き出すと語るこの男は、逆に大切なものを身体の内にとどめようとするのだと。

 彼にとって大切なものは安易に外へ晒すものではなく、それ故に裡に秘めた夢を語ったジャブに対し、一種の共感か、先達としての心持ちを説こうとしてくれているのかも知れなかった。

 ジャブは笑った。そして、感謝とともにこう答えた。


「なるほど。じゃあ今日から――」


 ――〝イシケラ〟と、そう名乗ることにしましょう。


 それこそが、やがてゲイリー・トゥロンと名乗ることになる青年の原点。

 大切なものを名前として刻んだ、憲法擁護テロ対策局BVT捜査官の始まりだった。




 ――電子音が、男の意識を現実に引き戻した。


 ゲイリーは壁に掛けられた時計に視線を向けた――文字盤が示すのは


 瞬間、彼の頭からあらゆる考えが吹き飛んだ。


 。ではこの電話は誰からのものか。

 自らの予想が外れることを願いながら――しかし、その願いは届かないであろうことを確信しつつ、その受話器を取る。


「はい」

『やあ、ミスター・トゥロン! もしくはジャブ・ムラウジと呼んだ方がよろしいかな?』


 嬉々とした声が電話口から響く。


 聞き覚えがある。むしろ忘れることの方が難しい。

 あのとき、アーロンとの取引の場に現れた緑色の目をした悪魔。世界を股にかけるプリンチップ社のエージェント――


「どうか〝イシケラ〟と。。我ながら気に入っている通称なので」

『名前というものは確かに重要だ。なぜそれを名乗るのかという問いは、その為人ひととなりを読み解くためのピースとなる。君も私のことをぜひ〝トラクルおじさん〟と呼んで欲しい』


 声だけで、あのぎらついた表情が目に浮かぶ。


 すべてを見透かすような語り口と、常に優位であることを確信した声音。いずれも対する者を圧し、心を折るための演出だ。

 それが分かっていてもなお、ゲイリーは気圧されていることを自覚する。アーロンがこの男をあれほど恐れていた理由を、いまさらながらに悟った。


「どうしてこの番号を知ったのかうかがいたいところですね」

『それは君の家の電話番号かね? それとも、?』


 ――知られている。


 ゲイリーは狼狽をかろうじて押し殺した。


 リヒャルト・トラクルは、プリンチップ社はいったいどこまでを把握しているのか。自分の正体だけならばいざ知らず、ファングシュレクンまで辿られてしまってはすべてが水泡に帰す。

 いくつかの採るべき話法が頭をよぎったが、結局ゲイリーは沈黙を選択した。巧みに言葉を操るこの男を前にしては、迂闊な発言は墓穴を掘ることに直結する。


 口を閉ざしたゲイリーを、リヒャルト・トラクルは笑う。


『おやおや、だんまりとはもったいない。セシル・ロイド相手に見事な立ち回りだったと聞いているよ。ぜひ私にもその弁舌を振るってもらいたいところだ』

「私があなたに語ることは何もありませんよ、ミスター・トラクル。

『かのアメリカ麻薬取締局DEA捜査官に倣うかね。その末路を知っていながら』


 ――メキシコ麻薬ビジネスの創生期、その勢いに危機感を持ったアメリカ麻薬取締局は、一人の捜査官をフェリクス・ガジャルド、通称〈エル・パドリーノ〉の元へと潜入させた。

 キキ・カマレナ。本名エンリケ・カマレナ・サラサール。彼は〈バッファロー〉と呼ばれる520ヘクタール以上ものマリファナ農場を撲滅するなど、めざましい活躍を遂げる。ゲイリーが捜査官として範とした人物の一人だった。


「〝自分はたった一人だが、それでも何かを変えることはできる〟――私は彼の座右の銘の信奉者です」

『しかし彼は裏切られた。1985年、協力していたメキシコ警察に身売りされ、〈エル・パドリーノ〉の手に落ちた。肋骨を粉々に砕かれ、睾丸に電極をつながれ、頭蓋骨にビスを、肛門に焼けた鉄棒をねじ込まれ、拷問を受け続けた末に、その死体はうち捨てられた』


 ――後の裁判で、その時の様子を録音したテープが公開された。


 その内容は想像を絶するもので、耳にした裁判官や警察官は不眠症に悩まされたり、聞くに堪えず体調不良を訴える者が続出したという。


『確かに君の言うとおり、彼は口を割らなかった。いや、ほぼ彼単独の捜査だったのだから語ることなどないというのが正しいのか。代わりに口にしたのは家族に手を出さないで欲しいという懇願だったと言うが……しかしどうだね、?』


 頭を殴られたような衝撃が走った。


 ゲイリーのもっとも柔らかく、深く傷ついた部分を、リヒャルト・トラクルは丁寧に抉りにきていた。


『あのモルヒネの大量盗難の夜、〈赤のジャックロートバオアー〉に殲滅された少年兵たちの中に、? 厳しい時代だ。町へ行っても職はなく、途方に暮れていたところをスカウトされてゲリラに組み込まれてしまった。良くある話だよ。

「お前は……」


 知らなかった。知らなかったのだ。

 すべてを知ったのはあの夜明け、茫然自失となっていた〈赤のジャック〉の四人を迎えに行ったとき、周囲に散乱する無数の死体の中に、たまたま見知った顔を見つけたその瞬間。

 自分の夢は永久に失われたのだという絶望を、いまこの男は嗤ったのだ――


『君の道化師ぶりは見ていて愉快だがね、どうやら時間のようだ。さようならアウフヴィダーゼーン、ミスター・〝イシケラ〟。せめてその魂が弟君の元へたどり着けるよう願っているよ』


 ――瞬間、ゲイリーは冷静さを取り戻した。


 電話を取っている自分は、窓際に身を晒している。もし狙撃手がいるとすれば格好の的――


 部屋の奥へ待避するのと、窓が割れるのは同時だった。

 幸い銃弾は床を穿っただけで、ゲイリー自身は無傷。しかしこのままでは、アパートメントに踏み込まれて完全に詰む。

 警察は恐らく買収済み。救援はない。となれば、待ち伏せの可能性は極めて高いが、一か八か外へ出るしかない。


 ゲイリーは玄関に向かった。靴を履き、意を決してドアノブに手を伸ばした瞬間、


 ――閃光と衝撃が彼を襲ったのだ。




 どれくらい時間が経ったのか、ゲイリーは激痛の中で目を覚ました。


 腕、そして腰から下の感覚がない。首すら満足に動かせず、ただ霞がかった視界と鼓膜が無事な右耳しか、彼と世界とをつなく感覚器は残っていなかった。


「一撃のつもりだったんだがな。やはりあの街に関わる者とは相性が悪いらしい」


 声。遠い昔に聞いた、不浄を吐き出すためのまじないの言葉。


 ゲイリーは自分を見下ろす何者かがいることに気づいた。同時に、彼がここにいることの意味を悟り、絶望よりもむしろ悲嘆に暮れた。


……」


赤のジャックロートバオアー〉一の爆弾の使い手。憲法擁護テロ対策局BVTからの情報で、その立ち位置が彼岸に移ったことは知っていた。

 なぜ、どうして、と――かつての彼らを知っているゲイリーは、その変節を嘆かずにはいられない。


 言葉を多くする彼にしては珍しく、ただ無言でゲイリーへと銃口を向けた。


 迫り来る死の匂いに、ゲイリーの胸に去来するのは一つの人影。

 彼の弟――その死の重さを紛らわすために麻薬に手を出しても、結局目前に現れるのは鎌を手にしたその姿だった。

 二人をつなぐ象徴だったその鎌は、いまとなってはゲイリー自身を罰するために使わされた死神のそれのように思われて――


「……許して」


 怯えとともに吐き出されたその言葉が、彼の最後の言葉となった。


 銃声。そして静寂。

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