(Ⅳ)ロイズ・コリダー

 陳腐な表現だが、宝石箱をひっくり返したようであった。


 漆黒の大海原を前に、歓楽街の電飾がきらびやかに輝いている。潮の香りを含んだ夜風は心地よく、訪れた人々のうちに郷愁めいた情緒をかき立ててやまない。

 南アフリカのみならず、大陸全土でも有数の大都市たるケープタウン――そのウォーターフロントの一角。


 ゲイリーはピーターと合流するべく、夜の街並みをゆっくりと進んでいた。


 この一帯はケープタウンの中でも特に高級志向の強い店舗で占められている。それらはすべて〈ロイズ・コリダー〉の直系店であり、アフリカ全土に商売の手を広げる彼らの旗艦店舗フラッグショップ群だ。


 ――そして、〈ロイズ・コリダー〉が世界中に拠点を持つ闇金融、〈ランスキー・キャピタル〉のフロント企業であることを知るものは少ない。ピーターが今回ゲイリーに紹介しようとしているのは、その支配人の一人であるという。


 正直、先日飲んだときには、それほどの大物が引き出せるとは思ってみなかった。性急にすぎるかとも考えたが、ファングシュレクンからの指示もある。ここは思い切って潜り込むべきであると判断し、会合に応じたのだった。


 待ち合わせの店は、ホテルに併設されたオープンテラスのダイニングバーだ。


 背後にシグナル・ヒルの巨影がそびえ、東洋の借景のような景色が望めることで有名な店だった。もっとも、夜である現在は暗い闇以外の何も見えず、薄くなった客入りを埋めるかのように、海側に係留されたボートのオーナーたちがたむろしている。

 テラスの一席に、見知ったピーターの顔を見つける。向こうもゲイリーに気がついたらしく、片手をあげて声をかけてきた。


「遅かったじゃないか。軍資金増やすためにカードでもやってきたか?」

「『タイタニック』を見てから足を洗ったよ。どうせ勝ってもロクな目に遭わない」


 ゲイリーは空いた席に着いた。右斜め前にピーター、そして左斜め前に初対面の――しかし顔だけは見知っている男が座っている。


「初めまして、ミスター。そこのピーターと、私のボスから噂は聞き及んでいます」

「さて、どのような噂であるか少し怖いですね。過大評価は高転びの原因です。相場が無意味に加熱したときと同様に」


 自然な笑みを浮かべて差し出された手を握り返す男。彼こそ〈ロイズ・コリダー〉の総支配人にして、〈ランスキー・キャピタル〉のファンドマネージャー、セシル・ロイドだ。


〈ランスキー・キャピタル〉は、ゲイリーと、その上司であるファングシュレクンが狙う本丸と言っていい。アフリカに張り巡らされた資金洗浄ネットワーク――麻薬と資金、その二本の根がつながる組織こそが彼らなのだった。

 彼らの顧客には、〝煙草ウグァイ〟アーロンもまた含まれる。〈ラスポーン・ファミリー〉に潜入したのは〈ランスキー・キャピタル〉との接触を期待してのことだったが、結果的にピーターという別方向からのアプローチによって成功したことに、ゲイリーとしては少し複雑な心持ちにならざるを得ない。


 ゲイリーにそんな奇貨をもたらしたピーターは、二人の顔合わせが終わったと見るや席を立った。


「じゃ、あとは二人でよろしくやってくれ。他人の財布の中身を見るほど悪趣味じゃないんでね」

「礼を言うよ。今夜遊ぶ足しにしてくれ」


 二つに折った札を渡す――例によって、その間にコカインの分包紙を挟んで。

 軽やかな足取りで去っていくピーターの姿が消えると、セシルが探るように口を開いた。


「――どこからあの〝商品〟を?」

「企業秘密ということでひとつ。弁明させてもらえば、ファミリーのものに手を出したわけではありません」

「あくまで独自ルートと。……なるほど、ウィリアムス氏の仰るとおり器用な方のようだ」


 実際のところは、口座に用意された見せ金と同じく、憲法擁護テロ対策局BVTから用意された小道具の一つだ。しかし、多くを語らないゲイリーの様子に納得したらしいセシルは、それ以上追求してこなかった。


 疑念を差し挟む余地を与えないよう、ゲイリーは畳みかける。


「とはいえ、私のボスは〝副業〟にいい顔をしないでしょう。これ以上続けるのは厳しく、さりとて将来のために少しでも稼いでおきたい。そんな折りにミスターと面識を得られたのは幸いです」

「〝副業〟についてはご安心を。顧客情報はきっちりと守ります。とはいえ、やはりあまり持ち上げられるのも据わりが悪いですね」


 苦笑を返すセシル。

「流れでファンドマネージャーなどを務めていますが、私の本分はコリダーを滞りなく運営することです。私にとっては投資の方こそ〝副業〟と言うべきですね」

「確かに、コリダーは素晴らしい」


 ゲイリーは追従する。


「ピーターなど、コリダーの系列店に毎日のように入り浸っていますよ。品揃えにサービス、どこをとっても非の打ち所のない高級店ばかりだ。私もあやかりたいが……彼のように通えばあっという間に貯金が尽きてしまう」

「心苦しく思います。しかし、やはり広大なアフリカ全土に出店し、なおかつハイレベルのサービスを維持するとなると、どうしても料金が高くならざるを得ないのです」


 セシルは肘を突き、顔の前で指を組んだ。


 その表情の半分が隠されて、強調された視線だけがゲイリーに向けられる。その段になってようやく、穏やかに見えたセシルの顔の中で、目だけが氷の冷たさを保っていたことにゲイリーは気づく。


 ――黒手組にその由来を持つ、アメリカン・コーサ・ノストラ。


 それに属する暗黒街の巨魁たちが財政顧問として重用した人物の名を、マイヤー・ランスキーという。


〈ランスキー・キャピタル〉は、初めて資金洗浄を行ったとされる彼の名を冠する組織だ。それゆえに彼らの自負心は強く、それに見合うだけの老練さを誇る、闇の金融の金庫番。


 そんな組織にあって、ファンドマネージャーの立場に就く人間が単なる経営者で留まるわけがない。

 アーロンやピーター、潜入捜査で接触してきた闇の住人たち。彼らからは感じなかった、見据えられるだけで身体の心が冷えていく感覚を味わう。


 用意されていたウィスキーに手が伸びる――それをこらえる。


 仕切り直すタイミングはここではない。動揺は飲み下すだけではなく、ときに意地で糊塗するものだとゲイリーはファングシュレクンから学んでいた。


「……残念です。私にはスタッフに弾めるだけの〝チップ〟の持ち合わせが足りないもので」


 ゲイリーは踏みとどまるだけでなく、逆に一歩踏み込んだ。暗に〈ロイズ・コリダー〉の本質を突かれ、セシルの目がわずかに細まる。


 〈赤のジャックロートバオアー〉の一件から、憲法擁護テロ対策局BVTは早い段階でアフリカ麻薬ネットワークの存在について把握していたものの、それによって生み出される莫大な利益がどこに消えているのかは追いきれていなかった。

 その流入先が〈ロイズ・コリダー〉であり、その背後に〈ランスキー・キャピタル〉が控えていることを突き止めたのはゲイリーだ。フリージャーナリストをかたって調査を続け、その一方でアーロンの秘書に就いてようやくたどり着いた真相だった。


 そのカラクリはこうだ。


 まず、〈ラスポーン・ファミリー〉の手によって、中南米から麻薬がアフリカへと流入する。

 それをNGOを隠れ蓑とした密売人ナルコ集団である〈癒しの風〉が、アフリカ全土に麻薬をばらまく。

 そして、その売上金を遊興費という形で〈ロイズ・コリダー〉で消費することで、コリダーの母体である〈ランスキー・キャピタル〉が、アフリカ麻薬ビジネスの利益のほとんどを手中に収めることができる。


 まさしく、あのリヒャルト・トラクルが語ったとおり、現代によみがえった三角貿易と言えるだろう。手法としては古典的だが、その規模の大きさ故に全貌をつかむことは困難だ。

 実態が判明した現在ですら攻め手が乏しく、ファングシュレクンも迂闊に手を出せずにいる。ゆえに、いまゲイリーに求められているのは、虎口のさらに奥へ手を伸ばすことだった。


「――確かに、日常的に通われるには〝チップ〟は重いコストでしょう」


 ゲイリーの言葉につつかれ、セシルが〝その先〟を語り始める。


「ですが、そういうお客様には〝会員〟となられることをお勧めしています。こちらは一回のお支払いで〝チップ〟の支払いは免除され、永続的にコリダーのサービスを受けることができますので」

「それはいいことを聞きました。ちなみに、その会員となるためには三十万あれば足りますか?」

「もちろん。十分です。しかも、いまならサービス期間中でして、二週間以内に入会していただければより大きな利益をご提供できるでしょう」


 冗談めかしてセシルが言う。しかしその視線は変わらず冷え切ったままで、どこまでが冗談なのか判断が付かない。


 ――ゲイリー・トゥロンは考える。


〈ランスキー・キャピタル〉は確かに資金洗浄ネットワークの総元締めであり、自分やファングシュレクンが標的と目する組織である。


 だが、彼らの本分はあくまでも資金洗浄にすぎない。


 いるはずなのだ。。おおよその目処はついているが、それにしてもやはり証拠が足りない。

 ここでセシルの誘いに乗り、見せ金口座から資金がどう動いたのか追うことで、その黒幕へたどり着くこともできるだろう。しかし、それだけではやはり決定的とは言えない。その黒幕が主体的に事態を動かしているという何かが必要なのだ。


 返答に時間を要すれば、セシルに警戒心を抱かせるだろう。わずかな時間で突破口を探すゲイリーだったが――その脳裏に、ふと引っかかるものがあった。


 ――


 サービス期間だと彼は言った。より大きな〝利益〟が得られると。

 二週間以内に何かがある。それも、大きな資金の流れが発生する予想が立っている。

 いままで自分が得てきた情報の中で、それに類するものはなかっただろうか?


「――なるほど、サービス期間中とは私も運がいい」


 時間にすれば十秒と経っていないだろう。何食わぬ顔で、ゲイリーは片手を差し出した。


「ぜひともお願いしたい。なんだったら、ここで一筆書いても構いませんよ」

「スピード感は、投資において先を読む力と同じほどに重要なものです。まず損はさせませんよ。ご安心を」


 手を握り返したセシルが給仕に一言二言指示すると、薄いケースに収まった書類一式がテーブルの上に運ばれてきた。

 その中から何枚かが取り出され、ゲイリーの前へと並べられる。続けてペンを手渡されると、ゲイリーは書類に目を通しながら言葉を継いだ。


「私も自力で投資先を見極める力があればよかったんですけどね」

「まぁ、誰もがそれだけの眼力を持っていたら、我々の商売が成り立ちません。やはり蛇の道は蛇ということで任せていただきたいものです」

「何か、成功するコツなどはあるんですか?」

「安いときに買って、高いときに売るだけですよ」

「それができれば苦労しないんですけどね」


 苦笑とともに、ゲイリーは〝その先〟へと手を伸ばす。


「しかし、確かにそのタイミングさえ分かれば確かに儲かる。


 一瞬だけ、セシルの表情がこわばったのは錯覚ではない。

 ゲイリーはさりげなく、しかし内心では冷や汗をかきながら、自らの予想を独白としてセシルへ突きつける。


「例えば〈ヴィットマン・ブラザーズ〉、最近ずいぶんと大がかりな買収を仕掛けているじゃないですか。素人なのでそれによる波及効果などまったく分かりませんが、相手企業の分を含め、

「……なるほど、ウィリアムス氏ですね。まったく口の軽いこと」


 穏やかな鉄面皮を取り戻したセシルが首を振った。

 書き終えた書類をセシルへと渡す。彼がそれを確認している間に、ゲイリーは別の書類へと取りかかった。


「二週間後なんですか?」

「さて、ノーコメントということにしておきましょう」


 つまり事実。あのムシナで過ごした夜、ピーターが口を滑らした情報が、思わぬところでつながった。


〈ヴィットマン・ブラザーズ〉は、オーストリアに本拠を置く製薬会社であり、ピーターの所属する〈癒しの風〉の母体だ。

 アーロンやリヒャルト・トラクルらによって外科手術用のモルヒネが奪われたあと、その補填に真っ先に名乗りを上げたのがかの企業だった。それにとどまらず〈癒しの風〉をどの団体よりも早く現地入りさせるなど、一連の貢献には社会的な賞賛が寄せられている。


 だが、便


 補填のためのモルヒネは、商品としての麻薬を輸出するためのカモフラージュであっただろう。

 どこよりも早い〈癒しの風〉の派遣は、麻薬の密売ルートを早期に確立させ、現地集団である〈ラスポーン・ファミリー〉との連携を探るためであっただろう。

 そうして得た莫大な利益を、株式という形で自らの元へと還流させる。もちろん、間にいくつものダミーファンドを噛ませることで、資金をまっさらな状態にした上で、だ。


〈癒しの風〉の母体である時点で無関係であるはずもないと踏んでいたが、ここにきて彼らが一連の黒幕であるという確証を得た。

 M&Aの情報の意図的な漏洩だけでも、インサイダーとして十分立件が可能だ。それだけ条件がそろえば、麻薬と資金洗浄まで、ファングシュレクンならば一気に詰めてみせるだろう。


 遂げた、とそう思った。しかし熱が胸を満たしたのもつかの間、セシルがぽつりとつぶやきを漏らしたのだ。


「――資金洗浄で最も重要なこととは、流れへと注ぎ込むプロセスのスピードです」


 視線は上がらず、書類に落とされたまま。

 だがゲイリーにはその言葉が、いままでセシルが発してきたどの言葉よりも重く、そして、その発する圧が増しているように感じた。


「例えるならば電気と同じく、資本は資本であることに価値があり、一度それになったものには注意は払われず、また見分けることも難しい。ゆえに流し込めれば、後は流れによって汚濁は薄められ、無色となって在るべき場所へと還流する」


 ゲイリーは反論の必要を感じた。

 そう誘導されているのだとしても、彼が議論を欲していることを感じたからだ。下手な追従は余計な疑念を招くだけだろう。


「9・11同時多発テロ以来、アメリカを始めとした諸国は不正な資金の流れに敏感になっています。そう簡単にことは進まなくなっているのでは?」

「チェック機能が十全に働いているのなら、サブプライムローン問題など起こっていませんよ」


 セシルの口元が皮肉に歪む。


「誰かが危険性に気づいたはずです。しかし結果はリーマンブラザーズが潰れ、恐慌が起こった。銀行は貸し渋り、資本の停滞が始まった。そんな中で、巨額のキャッシュを有し、投資も現金払いも思いのままであったのは誰か」

「……麻薬組織と、その周辺」

「はい。麻薬売買の特性上、彼らは常に現金を持っている。そして、我々はそれを取り扱うことで成長を遂げた。〝不正な資金の監視〟など、所詮そんなものです」


 書類の確認が終わり、ケースへとそれを収めるセシル。ようやく上がった視線には、先ほどまでの冷徹さはなく、むしろぎらついた執念じみたものが浮かんでいる。


「この際なのでもう少しお話ししましょうか。いま世界に広がる麻薬ビジネスの利益、いくらくらいだと思われますか?」

「途方もない数字でしょう。一千億ドルはくだらないのではないのですか?」

「……」

「三五二〇億ドルです。それだけの金額が、あの停滞したリーマンショック時に動く数少ない資本でした。結果どうなったかというと、という、悲惨な状況をもたらしたのです」


 言葉に反して、セシルは楽しげであった。

 その時代を生き抜き、荒稼ぎした者が発する自負と自信。匂い立つほどの気配に当てられて、ゲイリーはわずかにその身を引いた。


「世界には、三つの原油が流れています。せきゆまやく、そして無色しほん。これらは世界を生かすための血液であり、容易には断ちがたい。もしそれをなそうというのなら、その人物は現代のシステムの破壊者となるでしょう。

 ――果たして、いるのでしょうかね。私だったら怖くて立ちすくんでしまうところですが」


 セシルは笑った。〝持つ者〟であるという自覚が、その笑みの圧力を一段と強くしていた。


 逆に、ゲイリーの背筋には冷たいものが伝う。いまさらながらに、対するものの巨大さを目の当たりにして、肌が粟立つのを感じた。


 心地よかったはずの夜風が恐ろしく冷たい。自分が怯えているのだと気づいたのは、セシルがにこやかに席を立ってからしばらくしてからのことだった。




《定期レポート》


○ロイズ・コリダー

・飲食系総合企業だが、国際的闇金融組織〈ランスキー・キャピタル〉のフロント企業。

・麻薬ビジネスの利益の回収口。最終的な行き先は〈ヴィットマン・ブラザーズ〉。近日中に大型M&Aの情報あり。出所の検証と追跡を求む。

・支配人セシル・ロイドとの接触に成功。口座224からの出金とそれ以降の流れを追跡されたし。

・ひとまずの調査は終了。以降の指示まで現状のまま待機する。

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