二人と一人のカーテンコール

桜人

第1話

 弟が結婚した。

二十八歳、現在の平均初婚年齢と比較してみれば若干早めといったところか。兄の僕とは違い、細田商事という地元では名の知れた会社に就職した、いわゆる「出来た子ども」が僕の弟だった。だから弟の結婚はさして意外というわけでもなく、軽い気持ちで「そろそろかな」と僕は暢気に構えていたわけだ。

「今日からお世話になります」

直視をためらうほどの眩しい笑顔とともに――

「はじめまして。平田香奈もとい、柴田香奈です」

――弟の嫁が、やってくる前までは。




「義妹が怖いィ?」

「いや、怖いとは言ってないよ」

「そうとしか思えないような口振りなんだよ」

 香奈さんが柴田家に住むことになってから一か月。

僕は高校以来の友人、岡崎と二人、小さな居酒屋でちびちびと飲んでいた。年に数回の恒例行事だ。お互いがそれぞれ愚痴を言い合ってストレスを発散する。昔からの中で今はそれほど付き合いも深くないので、心の中に溜まったものをぶちまけるにはちょうどいい相手だった。

「別に怖いってわけじゃねえけど……不気味?」

 僕はここ最近の悩みの種を岡崎に話す。



「お義兄さん、ちょっといいですか?」

 そこにある醤油の小瓶を取ってくださいなとでも言うような何気ない口調で、千田香奈もとい、柴田香奈は事あるごとに僕の部屋の扉をノックする。

「お部屋のお掃除をしたいんです。起きてください」

 ある時は、よく通るハキハキとした声で、なかなか布団から出ようとしない僕の目を覚ましに。

「散歩でもしませんか? いい天気ですよ。私、お義兄さんはもっと痩せた方がいいと思うんです。一緒に運動しましょう!」

 またある時は、朗らかな元気いっぱいの声で、普段部屋から出ない僕に日の光を浴びせようと。

「やっぱり在宅のお仕事だけだと不自由のない生活っていうのは難しいと思うんです。新聞に入っているコンビニの求人広告をまとめてみました。ほんの少しの時間だけでいいので、始めてみませんか? あっ、私のおすすめはですね……」

 またまたある時は、半ば引きこもっている僕を社会に出そうと、サポートをしに。

 彼女が僕の部屋の扉を叩かない日はなかった。普段コンピュータの前でキーボードを触り、画面に目を走らせるだけの僕にとって、彼女のノックはそれこそキツツキのそれを思わせるものだった。いつくちばしで扉に穴をあけられるともしれない恐怖におびえた僕は、木の反対側へ逃げようとする虫よろしく、こうして部屋を追い出されて岡崎のもとへ逃げてきたのだった。



「なんだ、いい嫁さんじゃないか」

「引きこもりにアレはキツすぎる……というか引きこもりじゃないし」

「自分から言い出したんだろうが」

 岡崎は冷たかった。別に冷たかったからといって死んでいるわけではない。ただ死んだ魚の目でもって冷たい態度をとられただけだ。

 僕は勤務地が自宅なだけで、何も無職というわけではない。世の中にはインターネットという便利なものがあって、それを駆使して僕は種々多様な仕事を行っているのだ!

 SNS上に上げられている画像が不適切な要素を含んでいないかを判定する仕事とか、AVに適切なモザイクが適切な場所にかかっているかを確認する仕事とか、今度は逆にAVにモザイクをかける仕事とか、まあようするにあまり人のやりたがらない単純作業に、日夜僕は精を出しているのだった。変な意味じゃなく。

 察してはいるだろうが、こんなもの労働生産性はかなり低い。つまりは報酬もそれなりに低いということを意味していて、けれども、塵も積もれば山となるように、毎日休まずに根気よく続けていけばある程度まとまったお金にもなる。具体的には、両親に家賃と食費を毎月納められるくらいには。

 そう、僕はニートでもなければ、ごくつぶしでもないのである!

 ちなみに香奈さんは「横山不動産」という、この辺りでは「細田商事」と並ぶ優良企業の社員だった。あそこは中々就業時間的に黒いという噂をよく目にするが(なにも僕は世間から隔絶されているというわけではない)、だとすると一体何が楽しくて彼女はああも僕に構うというのか。不思議な話である。

「そうさなあ……別に柴田は何かしてるわけじゃないしなあ」

「何の話?」

「やっぱさ、お前に家を出ていって欲しいんじゃないの、義妹ちゃんは」

 岡崎はどこを見るともなくそう呟いた。一見どうでもよさそうといった感じの彼だが、これは逆に色々なことを考えている顔だった。岡崎はそういうやつだった。

「えっ! ……そうなの?」

「せっかく結婚して二人で愛の巣を作ろうってときに、一日中赤の他人のお前が家にいたんじゃあ、義妹ちゃんだって気をつかうだろ。あと単純に家が義妹ちゃんの分狭くなるし」

 どうやら岡崎は「義妹ちゃん」という呼称が気に入ったようだった。めっちゃ使ってる。

「大体義妹ちゃんだって弟くんと二人で暮らしたいんじゃね? 『幸せになるために結婚したのにどうして関係ない人の介護をしなくちゃいけないの!』って、こないだ姑を殺した嫁が取り調べで答えてた」

 そう言う岡崎はつまようじを手で遊ばせながら、つまらなそうな顔をしていた。もしかしたら、僕が傷つくかもしれないことを言ったと思い、気まずそうにしているのかもしれなかった。

 僕は義妹ちゃ……香奈さんのこれまでを思い出す。初めて僕に顔を見せたときの、こちらが気後れするほど邪気のない笑顔。さっぱりと歯切れのよい口調に、生気あふれる声色。こちらのパーソナルスペースの中にためらいなく踏み込んでくる人懐っこさと、聖人なのか星人なのか、とにかく理解不能な行動原理。

 そう、最も重要な部分であるはずの行動原理。毎日キツツキのようにドアをノックして僕の部屋に入ってきては、あーだこーだと僕を諭し、褒め、叱り、なんだかんだで僕の生活を徐々にではあるが変えつつあるあの行動原理。

それが、古今東西、どこにでもあるような、そんな俗で大衆的な考えで、成り立っている……?

正直、それは――

「そんなものなのかなぁ……」

――あまり歓迎されるべきものでは、なかった。直接的に言うならば、がっかりした。そしてもひとつ言うならば、がっかりした僕に、僕はとても驚いていた。

「そんなものなんじゃねえの?」

 もちろんそんな感情の機微を率直に表現してしまう僕ではない。僕のひそかなる驚愕は心の中だけのもので、表面にはおくびにも出さない。一応は何となく納得した風を演じて、岡崎の気まずさを杞憂だと言外に示すくらいのことは僕にだってできるのだ。僕のつぶやきに応じた岡崎の声音は、どことなく安心した風を思わせた。



「お義兄さん、ちょっといいですか?」

 いつものように香奈さんはノックをする。礼を失していないと言えば聞こえはいいが、実際のところは、いちいち礼儀としてノックしているのかは、分からない。

「お部屋のお掃除をしたいんです」

 今日の用事は掃除のようだった。かといって彼女は言葉通り掃除だけで終わる人間ではない。「ついでにお布団も洗濯しちゃいましょう。手伝ってくれませんか?」とか、「さて、掃除も終わってスッキリしたところで、散歩にでも行きませんか?」とか言うのが柴田香奈という女なのである。休日くらい弟とイチャコラしていればいいものを、だ。

「失礼しますね」

 僕の無反応を肯定と捉えたのか、香奈さんはそう言うと、掃除機と水で濡らしたふきんを手に僕の部屋の中へ入る。彼女はいったん掃除機を床に置き、勝手知ったる手つきで棚や机の上を水拭きし始めた。僕はその様子をベッドの上で布団にくるまりながら眺めていた。

「……」

 今日の香奈さんは、下は深い紺色のジーンズ、上は赤いニット姿だった。どちらも体にフィットしており、彼女の体の細さが目立った。

そして、今日も香奈さんは袖の長い服装を選んでいた。

 僕が香奈さんと初めて会った時、五月の頃だっただろうか、彼女は半袖のワンピースを着ていた。ように思う。何しろ一ヶ月以上も前のことだ、詳しくは覚えていないが、ここだけの話、僕は剥き出しの彼女の腕に少なからず下種な思いを抱いた。透き通るように真っ白な肌という文句はこれまでにも何度か僕は目にしてきたけれども、この時ほど僕はこの文句に膝を打つ思いがしたことはなかった。香奈さんの腕はとても異質なものに見えた。白であり、白以上の何かだった。光が形をもって具現化し、物質化し、そこに異様な静謐さをたたえて、薄暗い玄関の中でほのかに存在していた。そんな生まれてこのかた出会ったことのない何物かを、僕は臆面も忘れ見つめ続けてしまった。

 そして、それゆえか、その日以来、香奈さんは首から上と手首より先の部分以外を服で覆い隠すようになった。これからどんどん暑くなるというのに、どんどん厚着をするようになった。思い上がりかもしれないが、この原因が僕にあるのだとしたら、それはとても申し訳なかった。

僕は岡崎の言葉を思い出す。

『やっぱさ、お前に家を出ていって欲しいんじゃないの、義妹ちゃんは』

 この言葉を聞いた時、どうして僕はがっかりしたのか、その理由が今分かった気がした。僕は岡崎の言葉に従って、なんとも俗な理由で動く香奈さんを想像して、そしてがっかりしたのだ。

僕はどこかでいつの間にか、香奈さんを神聖視していたのだ。岡崎と飲んだ時、僕は香奈さんを不気味と評した。その印象を突きつめた先にあったものが、畏敬という感情なのかもしれない。不気味とは、わけの分からぬものというのは、そのまま超常の存在として崇められることとなる。雷という超常現象が神として敬われるように。

そして、僕は落胆したのだ。ベートーヴェンがナポレオンの戴冠という報を耳にし、楽譜を無感情に破り捨てながら「奴も俗物にすぎなかったか」と呟いたように、僕は、崇める対象がなんとも人間的な理由で動いていたと勝手に想像して、そしてがっかりしたのだ。

 岡崎の言葉を聞いた時に感じたあの落胆は、きっと僕が、香奈さんはもっと崇高な理念のもと行動しているのだと、そう信じているからだろう。

 だとすると、香奈さんは一体何が狙いで、目的で、理由で動いているというのだろう。



「ふぅん……彼女、実は柴田クンのこと好きだったりして」

「ハッ」

「キミ今鼻で笑ったよね!? ねえ!?」

「店長が変なこと言うからです」

 香奈さんの紹介で半ば強引に始めさせられたコンビニバイト、そこの店長の答えは、まあ何というか、ドラマの見すぎだった。別にAVの見すぎだろうがマンガの読みすぎだろうがエロゲーのやりすぎだろうが何だっていい。とにかく物語に毒された人間の考えだった。

「あるわけないでしょう、そんなこと。想像するだけで罪ですよ、罪。香奈さんをそんな目で見ないでください」

「ひぃぃぃ……バイトがいじめる~~」

 ここの店長は、とりあえずここ最近人とまともに会話したこともない僕がこんな風に偉そうにできるくらいには、他人との変な距離感を生じさせない天才だった。単に下の人間から舐められているとか思わないように。変な意味じゃなくて。

「……でも、やっぱり変だよ、ユキちゃんの献身は。好きじゃないとするなら、母性愛のなせるわざとか? 最近、柴田クンのご飯、健康のためという理由で玄米になったんだっけ?」

「お前ごときが香奈さんをユキちゃんなどと呼ぶな」

「せめて敬語使って!」

 店長はユキちゃんという呼び方が気に入ったようだが、そんな呼び方を弟以外の人間が使うことは僕が許さない。

 ……。

 そう、香奈さんによる僕の健康管理はとうとう食事にまで及び始めていた。健康管理というならば真っ先に食事管理が思い浮かぶような気もするが、

「お義母さんの手前もありますから、いきなり自分の好きなようにしてはダメかと」

とのことだった。実際のところは、香奈さんが我が家に来たその日のうちに、僕ともども柴田家の人間は彼女に骨抜きにされてしまっており、彼女がわざわざ気をつかう必要などなかったのだが。

 厄介なのは、

「お義兄さん一人でなんて誰がそんなひどい事させますか。私もご一緒します!」

と、僕だけじゃなく香奈さんまで一緒に玄米生活をしていることだった。健康面の心配などなさそうな彼女がわざわざ玄米を食べる……これでは、健康面に心配のある僕が、彼女をおいて玄米を食べないという選択肢をとるわけにもいかなくなってしまった。香奈さんがそうなることを意図していたのかは分からないが、もし想定内なのだとしたら、なるほど彼女は恐ろしい存在だ。

「でもさあ、じゃあ理由って何なの?」

 と、店長はふてくされたように僕から視線を外して話す。

「正直、岡崎クンと僕の話以外となると、それこそ単に優しい人になっちゃうけど。義妹(シスター)を修道女(シスター)と勘違いした女性の話になっちゃうけど。そんなわけのわからない理由で納得できるの? 胃の腑に落ちるの? 玄米のように」

「やかましいわ」

 正直僕の中で、香奈さんの行動原理はそこまで重要な問題ではなくなっていた。確かに気にはなるし、もし答えを誰かが知っていたのならば訊きもするだろう。しかし、疑問に思うことはあるにしろ、答えを理解した瞬間、僕の香奈さんに対する神秘性は失われるのだ。地球外生命体の存在とか、幽霊の正体とか、神様の起こす奇跡だとか、そんなものはただ好奇心に胸を膨らませ、思いを馳せるだけでいいのだ。ワープは理論的に実現不可能だという論文が発表されただとか、オーパーツは偶然の産物だったり比較的新しく作られたものだったとか、僕はそんなことが知りたいわけではないのだから。



 しかし、この数時間後に、僕は目撃してしまうことになる。僕の香奈さん像を根本から破壊するような、そんな衝撃を受けることになる。そうして、僕は香奈さんからワープの儚い現実を、オーパーツの正体を聞かされてしまうのだ。



 きっかけはほんの偶然でしかなかった。きっとそれは、プールに投げ捨てたはずの時計の部品が勝手に組み合わさり、勝手にゼンマイが巻かれ、勝手に正確な時刻を刻み始めるような、そんな偶然。千兆に一度の確率の事象がたまたま一回目で出てしまうような、そんな偶然。

 その日はたまたま岡崎が僕を飲みに誘って、たまたま香奈さんの部屋で……そんなことはどうでもいい。ただ、僕は三つのものを見てしまった。

 一つは、弟と香奈さんが事に及んでいたその光景を。これについて確かに僕は驚いたが、別にこれといった衝撃を受けたというわけでもない。香奈さんは僕の弟と結婚して、今ここにいるのだ。この光景に何ら不思議はない。大体、岡崎はこういった面倒事が起こることを予想して、『香奈さんは僕に家を出ていってほしいのではないか』という推論を立てたのではなかったか? 恐れていた共同生活の不具合が、弊害が、とうとう起きてしまったというだけだ。

 そしてもう一つは、香奈さんの肢体が、質量を伴った光のようなあの白い肌が、赤く、傷で覆われていた、その事実を。これこそが僕を襲う最初の衝撃だった。僕の心臓めがけて時速百六十キロの硬球が衝突する未来があるのだとしたら、きっとこんな感じなのだろう。まるで、現存する世界最古の木造建築物である法隆寺五重塔に、修学旅行に来た学生や外国人観光客が次々に刃物で傷をつけていくような、そんな憤りとも悲しみとも後悔とも喪失感ともしれぬものが、時速百六十キロの硬球の衝撃に圧しだされ、絞り出されて浮かび上がった。詳しく見ていたわけではない。けれども、僕は謎の直感と共に確信していた。あの傷は、弟がつけたものに違いないと。

 そして、それだけならまだよかった。二人がどんなプレイに興じていようと、僕には関係のない、二人だけの問題だ。歴史的建造物の破壊は器物破損の罪になるが、ボンテージに網タイツの女王様がムチでおっさんサラリーマンをひっぱたこうと、それは罪にならない。もちろん香奈さんが嫌がっていると、虐待を受けているというのなら、僕は間違いなく二人の関係に介入するだろうが、そうでないというのならば、精々存分に励めばいい。衝撃は受けたし、明日から僕の態度も少しよそよそしいものになるだろうが、それだって偶然二人の営みを除いてしまった僕が悪い、それで片付く。

が。

僕は三つのものを見てしまった。一つは二人のセックス。もう一つは香奈さんの体中を覆う傷。

そして、最後の一つ……僕が目を逸らしてその場から離れようとするほんの一瞬の間に、こちらを見つめ、言葉通り「不気味な」微笑をたたえた、香奈さんの瞳を、僕は見てしまったのだ。

 僕は弟と香奈さんの行為よりも、彼女の傷ついた全身よりも何よりも、こちらを見つめる香奈さんの瞳に、全身を握りつぶされるような衝撃を覚え、そしてその後数時間、それが僕の頭から離れることはなかった。



 ……。

 なぜそれほどの衝撃を受けたというのに、香奈さんの瞳が頭から離れなかったのは一晩中ではなくたった数時間程度なのかというと、

「お義兄さん、ちょっといいですか?」

ここ数ヶ月毎日のようにやってくるキツツキが、今回は珍しく、というか初めて、真夜中に訪ねてきたからだった。



「見てしまいましたね、あれほど見るなと申し上げましたのに……」

「……鶴の恩返し」

「正解です!」

 気がつけば、香奈さんはいつの間にか僕のベットに座っていた。そして、なぜかこの部屋の主であるはずの僕が、香奈さんと向かい合うようにして床に座っている。

「よいですか、地上に上がるまでは、この玉手箱(パンドラのはこ)は絶対に開けてはなりませんよ」

「混ざってる混ざってる……」

 香奈さんの服装はいつも通りだった。袖の長い、肌を隠すような、そんな服装。今なら分かる。あれはきっと「白い肌」を隠すためではなく、「赤い傷」を隠すためのものだったのだろう。

「では、本題に参りましょう」

 香奈さんは手を胸の前で重ね、今度は微笑などではなく、きっちりと百パーセントの笑顔で言った。

「どこまで見ました?」

「……」

 僕はこれまでに行った、超常に対する不理解や無理解を是とする旨の考えを、ここに来て初期の状態に戻してしまおうかと内心で検討していた。ぶっちゃけて言えば後悔していた。僕の目の前で可愛らしく首をかしげる義妹は、今この時、僕にとってはどうしようもなく恐怖の存在でしかなかった。彼女が何を考えているのか分からない。それは畏敬でも崇拝でもなく、ただただ超常に対する恐怖だった。

「別に責めているんじゃありません。私としても、どこから話したらいいのか分からないので」

 こちらの心情を知ってか知らずか、香奈さんは穏やかさを思わせるようなゆっくりとした口調でそう言うと、そのまま同じようにゆっくりとした手つきで右腕の袖をまくった。

「これは見ましたよね?」

 香奈さんの腕があらわになる。そこに彼女が引っ越してきた当初の、白磁を思わせる腕はなかった。垣間見た時よりもより近く、より明るい場所で見るそれは、初めて見たそれとも違う、なんとも異質な輝きを放っているように見えた。

「セックスするたびに、恵吾がよく噛むんですよ、私のこと。おかげで傷が残っちゃって、おしゃれも出来ないんです」

 香奈さんはそう言うが、漫画的表現でよく見られるような、くっきりとした歯型は確認できなかった。犬歯の跡が分かる程度で、引っかかれたような細い線や、キスマークに似た赤い跡が、ちょうど白い肌とその面積を半々に分け合うようにして、おびただしく重なり合っていた。はっきりとしたコントラストは、まるで真っ白なキャンバスに水を含まない赤い絵の具を混ぜ合わせた時のようで、紅と白の布で作られた紅白帯のようで、より直接的に言えば……

「……それ、DVじゃないの?」

「いいえ愛の結晶です」

……精液と破瓜が、混ざり合っているようだった。



「あ、もっと見ます?」

「結構です」

「というか見てくださいよ恵吾ってば体中くまなく傷つけようとするんだからせめて服で隠れるところだけにしてほしいって何度も言ってるのにもう」

「僕の話聞いてた? 嬉々として服を脱ぎ始めないでくれる?」

「私の中で『結構です』は肯定なんです」

「セールスマンか!?」

「それはそれとして……そもそも、私が今までお義兄さんの意見を聞き入れたことがありましたか?」

「そんな自信に満ちた顔で言われても!」

 ……。

 とうとう、僕のベッドの上で香奈さんは一糸まとわぬ姿になった。香奈さんは立っているので、床に座っている僕は必然的に彼女を見上げる形となる。

「どうです。キレイですか? 美しいですか?」

 香奈さんは腕を広げ、自身の身体を誇るように晒す。彼女の言葉通り、首から上と手首より先は、刺青がごとく、毛細血管がごとく、漫画でよく見る紋章がごとく、肌が傷に彩られていた。目を凝らすとうっすらと静脈の青が存在感を主張してきて、それらが香奈さんの柔らかい呼吸と共に、ゆらゆらとさざ波のように寄せては返す。

「……」

「何か言ってくださいよ」

 正直、いつまでも見ていられた。これまでに腐るほどヌードの彫刻や絵画が作られてきた理由の一端を、ほんの少し、指の先で触れられたように思う。僕は今、無理解とは違う次元で神聖なものを目の当たりにしていた。

「……で、何で僕の前でいきなり脱ぎだしてるの。痴女なの?」

「ハッ」

「鼻で笑ったなあ!?」

 僕は後日バイト先の店長にそれとなく謝ろうと密かに思った。

「この傷は私と恵吾の愛の結晶なんです。私たちの子供も同然です。他人に我が子を見せびらかさない親がどこにいますか?」

 香奈さんは当然とばかりに答えた。

「この傷は、私がいて、恵吾がいて、恵吾が私を愛してくれた証拠なんです。この傷を見るたびに、それはもう口元が緩んで緩んで……」

 キャーッと、そんな擬声語が聞こえてきそうだった。香奈さんは恥ずかしそうに両手で顔を覆う。

 そして、

「恵吾が男性不妊症なのは知っていますよね?」

「え?」

前置きも何もなく、前提となる知識を確認してそれから話を展開しようという、そんな会話のさわりの段階で、彼女は衝撃の事実を告げてきた。

 ……。

「前置きがないから衝撃を受けるのでは?」

「とりあえず心読まないでくれる?」



「恵吾は私の運命の相手なんです。初めて会ったときに、『ああ、私はこの人と結ばれるんだ』って、素直にそう思えたのを今でも覚えています。あ、私の好きな曲にこんな歌詞があるんです。

愛しーたこーのー気ー持ーちーは

雛ー鳥ーの刷ーりー込―みみーたい

だーけどーそーれがー好ーきーよ」

「……」

「愛しーたこーの」

「いや聞こえてなかったわけじゃないから」

 香奈さんは弟との馴れ初めから語り始めた。いつの間にか彼女は僕のベッドに座りなおし、僕の布団にくるまっていた。さすがに寒かったらしい。服を着ればいいだけの話だったが、しかし僕としても、布団からのぞく香奈さんの肌を少しでも長く見ていたかったので、何も言わなかった。第一、香奈さんに服を着ろと言ったところで、彼女が大人しく服を着てくれるイメージは全くと断言していいほど湧かない。

「おやおや、どうやら子供ができにくいぞ? と不思議に思い始めたのは二年くらい前ですかね。恵吾もそれまではこんな風に私のことを噛んだりはしなかったんですよ? 私としても、恵吾を一生手放さないために既成事実を作るのに必死だったので、そのおかげで割と早期に判明しました。不幸中の幸いと言っていいんでしょうか?」

「……」

「恵吾は表立っては言いませんが、結構寂しがり屋というか、気の弱いところがあって。思い出とか、記憶とか、記録とか、そういうのが失われてしまうことが嫌なんです。もう戻れない学生時代を思い出して、不意に寂しくなったりすること、ありませんか? あの感覚がすごく嫌いらしくて。忘れること、忘れられることが、怖いんです。大きな時の流れに思いを馳せて、自分というちっぽけな存在が何をするでもなくただ生きて死んでいくことに、恵吾は堪えられないんです」

「……」

「だから、この世に自分が生きていたという証が欲しいんだ、って、そう思ってるんです。具体的には、自分の血が流れた子供が欲しいって、思ってるんです。……曲解ですかね?」

「……」

「というわけで、自分に子供が作れないと知ってしまった恵吾は、彼が生きた証を子供から私に向けたと、そういうことです」

「……」

「お分かりいただけたでしょうか?」

 香奈さんは胸の前で手を合わせることこそしなかったが、先ほどと同じように首を小さくかしげた。

 香奈さんは、恵吾について話す時は本当に楽しそうな表情をする。僕は香奈さんが話している間、ずっと彼女の顔を見ていた。

 ……。

 というか、そもそも香奈さんはどうしてここに来たというのか。袖をまくって腕を見せたあたりで、僕はてっきり「このことは誰にも話さないで下さい」とお願いされるものとばかり想定していたが、香奈さんの態度はむしろ「このことはどうぞみんなに話してあげてください」と言外にアピールしているようだった。

 それにしても「できた弟」であるはずの弟に、まさかそんな身体的欠陥があるとは、これまた意外な事実だった。出木杉くんが実はのび太くんに並々ならぬ劣情を抱いていたくらいの衝撃だ。遠い存在だった出木杉くんが、正体を明かしてみればただの悩める子羊だと知った時の衝撃たるや! きっと明日から僕は出木杉くんともっと仲良くなれる気がする。欠陥や欠点を人間臭いと表現するのはおかしいかもしれないが、僕はそんな風に、久しぶりに弟に親近感を抱いた。

たとえ、それが優越感からくる暗い感情だったとしても。

「……」

「……お分かりいただけたようですね」

 香奈さんは微笑んだ。まるで深窓の令嬢が、家格の没落によって自らの身に訪れるであろう不幸を諦念とともに受け入れて、そして浮かべる幸薄き微笑のように、ゆっくりと目を細めたのだった。

「……」

「……」

 二人の間に言葉はなかった。

 香奈さんが布団から右足を出して、僕の前へ持ってくる。今まで視線の関係で気づかなかったが、彼女の足首より先は、傷一つない、光が物質化したかのようなあの白い肌のままだった。首より上と手首より先に傷がないのと同様の理由だろう、人に見られる可能性の高い場所は、さすがに僕の弟も遠慮したのかもしれない。

 足を差し出しながらこちらを見下ろす香奈さんは、先ほどの微笑とは一転、いっそ嗜虐性をのぞかせた瞳で僕を見つめていた。僕の視線がその瞳に捕らえられた瞬間、僕は街灯に群がる蛾のように彼女の足に吸い寄せられていく。僕と香奈さんを除くすべての景色が捨象された。

「……」

 僕はゆっくりと香奈さんの足に触れる。まず中指が、そして薬指が順に触れ、そのまま指の腹でスーッと足の甲をなでる。触感はよくわからない。固体と液体が調和を保ちながら同居していた。僕とは違う生き物に触れている気がした。

 僕の指は足の甲からくるぶしへとのび、踵へと到達する。感触が少し硬いものになった。ほかの指も使って手全体で香奈さんの足を支える。

「……」

 香奈さんの息が荒くなっている。白かった肌が少し赤みを帯びた気がした。

 そして、香奈さんの足を口元へ引き寄せ、僕は

「――んっ」

彼女の足へ、キスをした。

「ん、あっ……」

 香奈さんが声を抑えようとしているのが分かる。

 僕はそのまま彼女の足を赤に染め上げていく。キスをして、舐めて、口に含んで、ねぶって、吸って、歯を立てて、噛んでいく。香奈さんは僕の唾液で足をベタベタにされながら、僕によって足を傷つけられながら、手を口元に当てて悶えていた。

 深夜の僕の部屋は、粘性の高い水音と、香奈さんの吐息だけが響いていた。

 この瞬間のことを、僕は一生忘れないだろう。僕はこの瞬間のために生まれ、そして生きてきたと言っていい。それほどまでに、今僕は幸福というものを全身で感じていた。これは、凡俗の人間でしかない僕が、理解を超えた人間である彼女と通じ合えた、最初で最後の、そして最高の瞬間だった。



 ………………。

 …………。

 ……。

「キモっ」

「ひどい!」

 あの夜に起こった出来事をかいつまんで岡崎に説明した僕は、女子高生が禿げたおっさんに向けるようなそんな侮蔑の視線と共に、やっぱり侮蔑の言葉を喰らわせられた。

「事実だ、仕方ない。ほら、間違ったことを間違ってるって、時には相手のためを思って指摘してやることが友情なんだろ?」

「そんな中学校教師みたいな!」

 何かにつけて「人」という字の意味を偉そうに語る三年B組の担任みたいな!

 ……。

今日もまたいつもの古びた居酒屋だった。カウンターに二人、僕が左の席へ、岡崎が右の席に座る。二つ隣の客が吐き出すタバコの煙が目に染みて少しつらい。

最近、岡崎と飲む回数が増えてきたように思う。僕の周りと、何より僕自身の生活に様々な変化があったからだろうか。以前は二人で会っても特に報告することもなくすぐにお開きになっていたが、最近は話したいことが次から次へと湧いて出てくる。

「大体さ、墓まで持ってけよそんな話。何でお前がこのタイミングで話そうとしたのかが分からん」

「それはほら……記念? 甥っ子誕生と、僕の就職の」

「記念で話すようなものでもあるめぇに……」

 そう言うと、岡崎は二つ隣のタバコをふかしている客に「すいません、ここ禁煙なんで」とタバコを消させてからふぅっと大きく息を吐いて、

「そうか……もう義妹ちゃんが来てから一年以上経ったもんな」

と、喫煙可の文字プレートを見ながら呟いた。



「……それで、何で分かったの。僕と恵吾が双子の兄弟だって」

「え、普通に分かりませんか?」

「体型からして全然違うし……まさか本当に双子なのか確かめるために僕にダイエットを押しつけたとかないよね?」

「まっさか~」

 あの夜から一年後、岡崎にあの夜のことを話した翌日、念願の第一子に相好を崩しまくっている弟をよそに、僕と香奈さんは弟に聞こえない程度の声で話していた。

「……」

 弟が赤ちゃんと戯れる姿を少し離れたところから眺める香奈さんを横目に見る。彼女は嬉しそうに目を細めていた。

「あ、お義兄さん。就職祝いに欲しいものとかあります?」

「え、いいよ別に」

「嫌だなあ、そんなこと言わないでくださいよ。水臭いじゃないですか」

 ……。

 そう、僕は就職した。といっても、元々やっていたインターネットを使う仕事をキレイさっぱりと辞め、以前からアルバイトとして働いていたコンビニ会社の正社員になったというだけの話だ。父親が先立ち、母親の介護をするために田舎へと帰っていった店長が、ぜひ後任にと僕を推してくれた縁で正式に雇ってくれる運びとなった。言ってしまえば、そんなバリバリのコネが許されるほど小さな会社だということだ。もちろん、それについて文句を垂れるつもりなど毛頭ないわけだが。

「じゃあ出産祝いも受け取ってくれよ、香奈さん。それなら僕も喜んで就職祝いをもらえる」

「それじゃダメですよ。お義兄さんにお祝いされるなんて、私のプライドが許しません」

「ひどい!」

 香奈さんはフフフと手を口元へ持ってきて笑った。白い肌が見える。それは手だけではなく、腕までも。

 香奈さんの妊娠が判明して以降、どうやら僕の弟は彼女の肌を傷つけることを止めたらしかった。今では香奈さんも夏には半袖を着るし、スカートを履いて脚だって出す。二人が正常な関係に戻れたのかと思うと嬉しい半面、あの夜に見た香奈さんの肌がもう二度と見られなくなってしまったのだと思うと、少し寂しくもある。

「お義兄さんは大人しく私の親切を受け取っておけばいいんです」

 結局、どうして香奈さんは毎日毎日僕に世話を焼いていたのだろう。というか今でも世話を焼き続けているのだろう。実のところ、その答えは未だに分からなかった。

 けれども、僕はそれを無理に知ろうとは思わない。以前のように、もし知ることができるのならば是非知りたいとか、そういう気持ちもなくなってしまった。

 僕と香奈さんは一年前のあの夜に通じ合った、通じ合えた。あの晩だけは、少なくとも僕は彼女のことを一番理解していた存在だった。その事実だけでいい。僕はこれ以上を求めない。

「香奈、香奈! た、助けてくれ!」

 むつかり出した赤ちゃんにうろたえた弟が大声で香奈さんを呼ぶ。香奈さんはやれやれといった風に苦笑を浮かべながら、弟と赤ちゃんの方へと歩いていった。

 ――。

 あの夜以来、一つ分かったことがある。理解したというか、実感したというか……香奈さんは、本当に弟が好きなんだなあと、僕はそう思った。今僕の目の前では、弟と香奈さんと、そしてその二人の子供がいて、そんな彼らの姿を見て、見せつけられて、僕は幸福な疎外感を感じていた。彼ら三人はキレイだった。幸福な家族そのものだった。CM等でよく見る「幸せいっぱいの家族」像がリアリティと奥行きを伴って現出していた。そして、僕がその「幸せいっぱいの家族」を作り出したのだという、ほのかな優越と確かな感動を僕は全身で味わっていた。浸っていた。

 これがもし物語なのだとしたら、主人公は弟であり香奈さんだ。決して僕ではない。僕は主人公最大のピンチに身を挺して彼らをかばって、そして無様に死んでいく、メインキャラなのかモブなのか微妙な立ち位置になること請け合いの脇役でしかない。そして主人公たちは見事勝利を手にし、途中で倒れた脇役のことなどまるで忘れたかのように、幸せなエピローグを読者にささやかに提示して、物語を閉じるのだ。

 だが、それでいい。それでいいのだ。僕がいなければ彼らは一生今の幸せを手に入れられなかったろう。弟はいつまでも香奈さんを傷つけ続け、香奈さんはそれを愛の一言で片づけ、永遠に終わることのない螺旋が出来上がるだけだ。そして僕はその螺旋を断ち切った。読者は誰も僕の存在など気にも留めないだろうが、主人公たちの幸福の中に僕の功績は生き続けるのだ。弟と香奈さんの間で大声をあげてなく、あの赤ちゃんのように。

 ……。

ふと僕は一年前のあの夜に彼女が歌った曲のことを思い出した。メロディーと歌詞が香奈さんの歌声に乗って頭の中を流れる。

 あれは――。



「妊娠しました! イェイ!」

「それをいの一番に僕に報告するかね、普通……」

「だって、お義兄さんとの子供ですし、しょうがないじゃないですか」

「それ絶対弟に言わないでね」

 僕はそう念を押すと、香奈さんの手を振りほどいた。さっきまで僕の手は香奈さんのお腹の上にあったのだ。正確には、香奈さんが強引に僕の手を彼女のお腹へ押しつけていた。そんなことをされても何かが分かるというわけではないのだが、彼女としても念願の子どもに興奮を抑えることができなかったのだろう。

 ……。

 僕と弟の恵吾は一卵性双生児、つまりは双子である。遺伝子的には何ら違いのない、クローンのようなものだ。元々、不妊対策として兄弟の遺伝子を使うことは一般的で、僕たちのような例はいくらでも存在する。「自分の」子供が欲しい弟が、この事実を一切知らされていないという一点を除いて。

 僕は、香奈さんが傷のない真っ白な足を僕に差し出ししたあの夜、その直前に見せた艶めかしい憂いの表情の正体を今、身に染みて実感した。

 ……。

「この前、私が好きだって言った曲のこと、覚えてます?」

 僕の罪悪感を感じ取ったのか否か、香奈さんは話題を露骨に変えた。しかし何故か、その表情は自信に満ちていて、口元は笑顔を形作っている。

「この前歌ったのは大サビの部分なんですけど、この歌のラストは、こんな歌詞なんですよ

あなーたのー前―ではー偽るー

 ヒローインーでーいーたかーったーけどー

 許ーされーるーのーなーらーばー

そーばーにーいーるーわー」

 香奈さんは歌った。きっと彼女にも罪悪感はあるのだろうが、しかしそれ以上に、彼女は弟と同じくらい子供が欲しかったに違いない。

何しろ彼女は、雛鳥の刷り込みのように弟を愛しているらしいのだから。



 この物語の主人公は弟と香奈さんであって、決して僕ではない。ならば僕は精々二人が幸せな結末を迎えられるよう、手を尽くそうじゃないか。そうして手が尽くされて、二人が幸せな結末を迎えようとしているのならば、これで僕の役目は終わりだ。幸福な疎外感とともに、僕はフェードアウトする。

 これは二人と一人の物語。

 弟と香奈さんと、そしてそこに生まれた新しい命の物語。

 カーテンコールに、僕はいない。

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二人と一人のカーテンコール 桜人 @sakurairakusa

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