第5話 水色の傘

 その日は天気予報でも暴風雨だった。学校の授業は四限目までとなり、昼休みには全校生徒が家に帰される事になった。

 僕はお腹を壊していて、そんな事が友人にバレると、後でからかわれるので、図書室で借りていた本を返して来ると嘘をついて、一緒に帰ろうと誘って来た友達を先に返すとトイレに駆け込んだ。

 長くこもってしまったので、教室に戻ると誰もいない。僕はカバンを手に取ると、昇降口に向かった。

 外はすでに酷い風が吹いていた。おまけに土砂降りで、以前に雨に濡れて帰った事を思い出した。こんな中では傘を差したら、あっという間にひっくり返って、壊れてしまうだろうと思った。

 僕は仕方なしに傘をたたんだまま、昇降口から飛び出した。沼と化している校庭を避け、舗装されている外周をぐるりと回って校門まで辿り着く。そしてそこで足が止まった。

 雨の中、チトセさんが立ち尽くしていた。その手元を見ると、チトセさんの持つ傘は見事にひっくり返って、中の骨まで折れていた。

 僕がチトセさんに近付くと、チトセさんはびくりと体を震わせて、こちらを振り向いた。その顔を見て、また僕の足は止まった。チトセさんは泣いていたのだった。

 一瞬表情を強張らせると、すぐに取り繕って、何時ものような声音で聞いてきた。

「なに?」

 僕は何と返せばよいかわからずに、「傘、壊れちゃったね」と言った。こんな土砂降りの中、雨に濡れながら、雨音にかき消されないよう、大き目の声で話す内容じゃないとは思った。でも声をかけなければならない気がした。

「わたしの唯一の家なのに」

 チトセさんは小さくそう呟いた気がした。聞き間違いかも知れない。

 僕は何を思ったのか、自分でもよくわからないのだけれど、気付いたら、自分の傘を差し出していた。

「これ、使うといいよ」

 するとチトセさんは瞳孔を広げて固まった。そして何時までも受け取ろうとしない。

 僕はその手を摑んで、むりやり傘を握らせると、「後、今日は差さないほうがいいかも、また壊れちゃうし、んじゃ」そう言って背を向ける。

「なんで」

 声が背中から聞こえ、僕は足を止め振り返った。

 チトセさんは、また涙を流し、目をこすっていた。

「こんな事したって、アマガサくんには何にもいい事ないよ」

 僕はチトセさんの言い種に少し呆れた。

「僕がそうしたいんだからいいじゃないか。自己満足なんだからほっといてよ」

 そう言うと、チトセさんは泣きながら、おかしそうに笑い始めた。

 その様子に僕が唖然としていると、「ありがとう」そう言って微笑んだ。

 その表情を見てドキリとした。そして、「別にいいよ、傘なんて。それよりちゃんと髪梳かしてお風呂入った方がいいよ。なんかもったいないから」

 そう率直に言ってしまった。チトセさんは首をかしげていたけれど、僕は気に障る事を言ったかなとも思った。

「じゃ、風邪引かない内に帰れよ」

 何だか恥ずかしくなって、僕はそう言って駆け出した。


 帰ってから傘を風に飛ばされたと嘘をついたが、高い傘だったんで親に怒られた。ついでに風邪も引いて二日ほど寝込んだ。



 ようやく風邪から回復して学校に行くと、教室では友達が出迎えてくれた。そんな中でチトセさんと目が合った。驚いた事に、ちゃんと髪を梳いていた。

 僕がチトセさんを見て驚いているのに気付いたのだろう、友達が言った。

「なにあったんだろうな。てかあれであの臭いと性格直せば多少は人気が出るだろうに、アイツ、何考えてんだろ。やっぱきめぇよな」

 僕はそんな言葉に愛想笑いしか浮かべられなかった。


 昼休み、トイレに行くため教室を出た所でチトセさんに呼び止められた。

「ちょっと、理科室前の階段の所に行って待ってて」

 何だろうと思ったが、僕は何も聞かずに言われた通りにした。

 理科室前の階段は、使う人も少なく閑散としていた。

 しばらく待つと、口をもごもごとしながらチトセさんがやって来た。その手には前に僕が渡した傘。

「これ」

 そう言って差し出してくる。

「いいよ気にしないで」

 家ではなくなっている事になっているので、今更戻って来ても、どうしたらいいかわからなかった。それでもチトセさんは言う。

「やっぱり貰えない。ん」

 そう言って差し出した手を引っ込めようとしない。僕は仕方なくそれを受け取った。

「う、うん。でも家なくなっちゃうよ」

 そう言うと、「これはアマガサくんの傘。わたしの家は水色の傘だけだから」そう言った。

 僕は何か言おうとして、いい言葉を思いつかなかった。なのでとっさに、「髪梳かしたんだ」と言った。

 チトセさんは僕を睨んだ。

「梳かしたほうがいいっていったから」

 僕は首をすくめた。

「じゃ、お風呂も入ってよ」

 そう言うと、「あれはわたしの管轄外」そう言った。



 その日から何日か経った。雨の日も何度かあった。帰る際のチトセさんを何度か見たけれど、何時も濡れるに任せていた。

 僕はある日思い付き、ゲームかサッカーボールを買おうと貯めていたお金を貯金箱から出した。

「二千円か、高いな……」

 ゲームとサッカーボールがまた遠のく。一月のお小遣いがまるまるなくなるのだ。だけれど決めたんだと迷いを断ち切って、僕は買い物に出かけた。正直、安物でもいいと思ったが、せっかくなら丈夫で良いものにしようと思った。何しろ家なんだから。


 翌日は早目に家を出た。教室に入ると、チトセさん以外に誰もいなかった。

 普段の僕の登校は、何時もぎりぎりで、宿題を学校に置き忘れた時くらいにしか、早くは来ない。

 その日は珍しく、チトセさんから話しかけてきた。

「珍しいね」

 僕はそのチトセさんに近付いて、紙にくるまれたそれを差し出した。

「なに?」

「開けて見てよ」

 チトセさんは僕の顔をしばらく見詰めた後、それを受け取った。紙を剥いでいくと中からは、水色の傘が現れる。

 チトセさんは驚いた顔をして僕を見た。

「上げる! 水色の傘だから、これで貰ってくれるよね」

 そう言うと、いきなりチトセさんは泣き始めた。

「ど、どうしたの!?」

 そして間が悪い事に、他の同級生がやってきて見られてしまった。

 僕がチトセさんを、喧嘩して泣かせたと言う事になった。何を言われても、ミカちゃんからどんな事をされても、先生に叩かれても、涙を見せた事のないチトセさんを泣かせたと言う事で、よくわからない、僕の武勇伝になった。

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