第2話 地獄に垂れ下がってきた蜘蛛の糸
「まだ時間ありますよね?」
と、情報局員は笑顔を浮かべて親切に聞いた。これがレトリックな質問だったかどうかの違いぐらい、池田にはわかっていた。
甲板の先頭にいる情報局員がこっちに軽い足取りで一歩一歩近づいてきた。池田の体は一層固まって動かなかった。
この場から逃げる方法はないのか?目がその答えを探す為に船のいたるところをスキャンしていた。
すると情報局員の表情が急に緩まった。
「実は、これが私の初めての仕事でして、うまく出来るかが自信がなかったんですよ。船が出発した時に私から話をアンタに切りだすつもりだったんですけど、アンタが話しかけてくれたお陰で、恥ずかしがり屋の性格の壁を乗り越えられたんです」
情報局員の歩みは止まらなかった。近づくにつれてどんどん大きく見えてきた。池田は足を動かさずに踏ん張った。こういう所は子供の時から負けず嫌いだった。
「お前さんはよくやったよ。能無しのクズだと思っていたが、半分間違っていたな。俺を捕まえるのか?」
「いいえ、だから交流です。アンタを刑務所に送り込むなら、とっくにそうしていました。ところがアンタはこうして今まで自由に歩き回っている」
情報局員は両手を宙に広げていた。
「アンタには私たちの仲間になってもらいます。この池島に溜まっている犯罪者をまとめて片付けるんで、アンタには、これまで通り、彼らの中に入って私たちに情報を渡してもらう。協働です」
「嫌だと言えば?」
「それ、答える必要あるんですか?」
それを聞いた池田の顔に血管が浮かび上がった。
「おいおい。お前さんが生まれる前から追い詰められる覚悟はしていたよ」
それは嘘だったかも知れない。が、そのまま勢いで続けた。
「お前さんは俺を脅せんよ。伊達にお前さんより長く生きてきた訳じゃない。確かにお前さんは優勢の立場にいるが、お前さんをこの先潰すことぐらい俺にできる。それだけの力やコネが俺にある。お前さんも俺の過去を知っているなら、俺が人を一人潰すぐらいやるってことは知っているだろう?」
そして次を付け加えた時には声が震えていた。
「お前さんが必ず後悔するように潰してやる」
情報局員は唾を飲み込んで咳き込んだ。目がかすかに揺れていたがなんとかして硬い笑顔を作った。明らかに動揺していた。
「ふ、二つです」
指をピースサインにして若者は始めた。
「一つ目。私は他の情報局員とは違う。奴らは金目当てでこの仕事をしているんです。でも私は違う」
急に情報局員の目が変わった。準備された文面を読んでいるのではなく、心から思ったことを言っている目だった。
「アンタも人を潰すような犯罪を犯してきた。だけど、アンタよりももっと、私は人を潰すのが好きなんだ。犯罪者の人生を握り潰しても私は罪に問われる事はない。最高な立場なんですよ。私が何故結婚しないか知っていますか?結婚したらアンタのような人から狙われるリスクがあるからなんですよね。この仕事が大好きだから結婚すら考えない」
そして目がまた変わった。獲物に飛びかかる前の動物だった。
「しかしアンタには家族がいる。私にはアンタの妻と娘の居場所は分かっています。私に従わないことで、ある日突然二人の女性の顔に偶然にも酸がかけれれてメチャクチャになっても私は知らないし、家が火事になって二人が丸焼きになっても私は知りません」
それを聞きながら心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。この情報局員の中に自分と同じものが渦巻いていたのを感じた。
池田は娘が赤ん坊だった時のことを思いだした。誰からも傷ついて欲しくないという純粋な思いがあった。この子が大人になった時には、この世の中がもっといい場所になって欲しいと、犯罪者になる前の自分が思った瞬間があった。
「そして二つ目、あ!」
若者は反撃を続けようとしたが、咳をし始めた。顔が赤くなっていた。
「すみません。長く話すのに慣れていなくてですね・・・」
情報局員は飴玉を取り出して飲み込んだ。池田にも渡そうとしてきた。当然断った。
「いいですか?アンタはすでに私たちの射程距離内に入っていて、いつでも消される状態なんです。今すぐ海の藻屑にする準備だって出来ています」
手をピストルの形にして、海を指して言った。
「しかしアンタが協力をすれば、無傷とは言いませんが、私たちの射程距離からある程度外すことはできる。アンタの娘もです。これも覚えて置いてください。娘さん・・・朱莉さんの第一候補の大学に受からせる事ぐらいできますよ。好きな企業に就職させる手回しする力と金ぐらいは溢れるほどあります」
・・・朱莉。池田は情報局員の話を一心に聞いていた。
「今日からすぐに行動してもらいます。池島で行われている、麻薬取引、密輸、さぎ、恐喝、拷問といった犯罪。そこに私の興味がある」
そして若者は親しげな笑顔を向けて、手を池田に伸ばした。
「なんだ?」
「握手ですよ。協力をお願いします。結局、僕らは同じ船に乗っているようなもんですから。悪いようにはしません」
俺は間違った船に乗ってしまった・・。池田は握手をせずに考え込んだ。
「この船にアンタが乗った事は決して間違いではない。お互いにとって良い事なんですよ」
心を読み取ったかのように情報局員は口を開いて言った。
池田は錆びている船の手すりに両手を置いて、霧の中に浮かぶ池島を見た。気づけば手すりを怒りで握りしめていた。
入学、卒業、就職、結婚、育児、離婚、両親の死・・・そういった人生の登竜門を56年の間である程度体験をしてきていた。自分の顔に刻まれたシワはそれを物語っているんだよ、居酒屋でお酒を飲みながら隣に座る人に言うのが癖だった。そしてこの年代になると、これから自分の人生で起こるイベントの内容はある程度想像は出来ていたつもりだった。具体的には「逮捕」か「死」だと思っていた。しかしそれはとても浅い考えだった。人生で自分が想像している以上のドス黒い事はいつでも起きる。結局いくら年をとっても次の瞬間に人生がどうなるかが分からないのだ。
池田の後ろでは情報局員がまだ手を前に伸ばしていた。
今握っている手すりから俺は両手を離すことが出来るのか?自分の人生が変わったことを受け入れて、必要なものは手放し、これからの道を歩いて行くことができるのか?
どこから吹いたのか分からない風が池田の顔にぶつかった。
「俺に選択肢はないんだろ?」
と、池田は吐き捨てるように言った。そして池田は右手を情報局員の前に突き出した。二人の握手は一瞬だったが、お互いに相手の手を押しつぶすように握り合った。
そしてお互いに目をしっかりと睨み合って腹の探り合いをした後、船が池島に向かって動き始めた。
犯罪者が集まる島。静かな島、池島。この情報局員は鬼たちがいる鬼ヶ島と呼んでいた。
船を降りた後の池田は首輪をつけられた犬のような気分だった。始末されるまで、俺はどれぐらい時間があるのだろうか?それともこれはチャンスであって、地獄に垂れ下がってきた蜘蛛の糸を目の前にしているのだろうか?
・・・朱莉。若い娘の顔を思い浮かべた。
池田は何がなんでも、蜘蛛の糸を握るつもりでいた。朱莉と自分の為に潰れかかった人生を己の手でもう一度変える決心をしていた。勝手に俺の人生が他人によって変えられてたまるか。
酔いからきた頭痛はとっくに体から抜けていて、池田は霧に包まれた池島の港を歩き始めた情報局員を睨みつけた。
静かな島 @Kairan
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