静かな島
@Kairan
第1話 今日、潰されようとしている
3月28日の午前5時20分、長崎市には霧が包み込んでいて視界が当分良くなりそうになかった。
初老の男が長崎市の港にある池島行きの各丸号という小船に乗った。船の移動距離は7km。移動時間は西に向かって20分。
この移動の中で初老の男の人生が変わった。
小型な船であるが、船内は広く感じた。それは誰もいなく、ガランとしていたからだった。
初老の男は30年近くこの小船を利用していたが、どの日に来ても、船の中の寒さに期待を裏切られていた。今日も30年前のように、コートの中でブルっと震え、氷のように冷たくなった手に暖かい息をかけていた。
窓際の席に座り、窓に肘をかけた。船の手すりの間から飛沫を見る事が出来るスポットで、長年ここに座って来たため、勝手にここが自分の特等席だと思っていた。
今日もこれまでのような1日が始まり、いつものように1日が終わる。20分後にはそれを信じていた自分が馬鹿らしく見えていた。
午前5時25分、出発するのにまだ五分あった。
目を閉じて、昨日の酔いを覚ましたい。昨日の夜、池島に帰る最後の船を逃してしまって、また飲み友達と一晩中飲んでしまっていたのだ。頭痛がまだ残っている頭を窓に寄り付けて、静かに揺れる船に身を任せていた。
すると突然船が大きく揺れた。誰かが入って来たのだ。そして・・・隣に誰かが座った。眠りにつこうとしていた重たい目を開けて振り向くと、隣に20代ぐらいの男がいた。他にも座るところがあるのに・・この若者が横の席を選ぶのは明らかに不自然だった。髪はブロンドに染めていて、しっちゃかめっちゃかな方向に毛が伸びていた。こいつ、不潔だな。昨日から服を着替えていない初老の男が思った。
あえて横に座るのは何故か?そう考えた瞬間、船が出発した。その揺れとエンジンの音で頭がズキンとした。
「すまんが、あっちに行ってくれんかの?」
初老の男は池島に到着するまで我慢をしようと思ったが、出発した途端に堪り兼ねて若者に訪ねた。
しかし若者の耳にはタンポンのような白いイアホンが垂れ下がっていて、音楽を聴いていて、こちらに気がついていないようだった。若者の目は、目の前の空気に喧嘩を売っているかのような鋭い目つきをしていた。
若者は白いスーツを着ていて、それが午前5時台の薄暗い中で眩しく見えた。
初老の男は、自分だけしかいない泡の中にいるような若者の肩を二回軽く叩いた。おーい。
それで若者は体を動かさずして、目だけを横に移動させて初老の男を見た。これを見て、初老の男は、社会人になったばかりの頃に見た殺人サイボーグ映画、ターミネーターを思い出した。殺人サイボーグ役のシュワルツェ・ネッガーがテレビのインタビューで「サイボーグは、効率重視の動きをする。だから最低限のエネルギーで目を先に動かしてから、最後に体を動かす動きをするんだ」と言っていたのを思い出した。サイボーグかよ、この兄ちゃんは?そう考えて、初老の男は思わず声を出して笑ってしまった。まだ酔いが続いているのだろうか?若者は表情を変えずに、何だよ?と目で訴えてきた。
何を言ってもこの若者は聞こえないフリをするだろうと考えた初老の男は、ワザと口だけをパクパクさせて話すフリをした。若者は聞き取ろうとして身を傾けたが、結局は顔の表情を歪めてイアホンをサッと外して言った。
「ナンスカ?」
その質問が日本語ではなく、外国語のように聞こえた。
「何で池島に行くんかの?」
「ヨウジガアルンス」
用事があるのです・・、分かりやすい日本語へ翻訳するのに少し時間がかかった。
で、何故隣に座っているのか?そこが一番気になっていたが、この兄ちゃんの頭の中に論理的に説明できるような脳が入っているとは思えなかった。全ての若者が能無しだと言いたい訳じゃないが、彼が出会ってきた若者は全てこんな感じだった。若者は全て能無しだった。
「変わった格好じゃの。最近はそういうのが流行なのか?」
若者は胸のポケットの中からチューインガムを取り出して口の中に放り込み、タンポン・イアホンを耳の中に突っ込んだ。ドラムの音とガムをクチャクチャ噛む音が始まった。
初老の男はある事を思いつき、腕を組んでニヤッとしたくなるのを堪えた。
「ワシは池島のの警察じゃ」
窓を叩きつける海風、船のエンジン音、音楽、チューインガムを噛む音が初老の男のつぶやきを掻き消したかのように見えたが、それは違った。若者は音楽に合わせて貧乏ゆすりをしていたが、それが突然止まったのだ。その様子を見ただけで、この男のプロフィールが色々見えた。面白くなり、初老の男の口元が緩んだ。
島に着くまで残り15分ぐらいか・・・。そう思って、若者を攻め始めた。
「長くこの職をやっているとな、何も言われなくとも直感で色々人の事がわかるんじゃ。年の功とも言われるし、職業病だと村の者は言う、または才能、それか呪い、色々言われるがの。まあ、妻はワシのそういうところを嫌がって離婚してしまったがな」
横の若者の顔は動かず、前を向いていた。石になったかのようだった。ターミネーターのように体が動かない。凍りついている。何を考えているのかわからない。でも初老の男の声が若者の中で緊張感を煽っているのは確かだった。
「この島に来るのは、どんな人が多いかが分かるかの?」
相変わらず音楽が爆音で流れているが、若者が初老の男の話に集中しているのがわかった。分かりやすい男だった。初老の男が話を続けた。
「写真家や、廃墟が好きな者、昔住んでいた者が同窓会で来るだけなんじゃよ。だから他に誰もこの船に乗っていないだろう?」
初老の男は口元をなでた。
「それと良からぬことを企んでいる奴らが来る。ほぼ廃墟の島で人がいないからな。何でもやりやすいんだよ。困った事に。殺人、工場の容器の中の死体放棄したり、大声で言いたくないが、人を痛めつける拷問会だって行われたりする。池島は何て呼ばれているか知っているか?静かな島じゃ。何をやっても静かに事が終わる。結局は誰も来ない廃墟だからの。警官のワシは前からもっと池島を監視するように頼んでいるんじゃが、誰も耳を傾けなくてな。あんな島は相手にされないんじゃ。だからワシが代わりに見張っておるんじゃよ」
若者の首には汗が浮かんでいた。気づけばこの男の緊張した汚い体臭が鼻の中に届いていた。それを嗅いだ時、この若者と親密な関係になった気がして不思議だった。
船が後5分で到着する。池島が霧の中から見え始めていて、船のエンジンの唸りが弱くなり、スピードが落ち始めていたのが分かった。
若者はタンポンのようなイアホンを耳から外して、椅子の下に置いてあった黒いボストンバッグを手に持って立ち上がった。船が少し揺れたせいか一瞬よろめいていた。手を壁に押し付けながら船の甲板の方にヨロヨロ向かって行くのを見て満足感を感じていた。
からかうのはここまでにしておくかな。そう思った瞬間、甲板に出て行くこの若者の顔に薄笑いがあったのに気がついた。背もたれに身を委ねていた初老の男の体がピンと前乗りした。あいつに食い下がるべきだ。考えが一瞬で変わった。
俺の正体を知っている可能性がある。いや、あいつは俺の正体を知っている。隣に座ったのは同業者か警察のどっちかだ。理由はそれしかない。最初から気づくべきだった。クソ、頭痛が酔いのせいで酷い。初老の男の顔が歪んだ。
あいつは誰なんだ?船を降りるまでに聞き出してやる。自分の直感を信じて、椅子から素早く立ち上がった。揺れる船の中のプラスチックの椅子を掴みながら、甲板に飛び出した。
冷たい3月の海風が甲板に出た初老の灰色がまざった髪を撫でた。やはり外の方が寒いが、体にはいつの間にか汗が流れ始めていて暑かった。
「で、お前さんは何であの島に行くんじゃろうか?」
若者に怒鳴った。若者はビクっとして、息が一瞬止まったかのように見えた。池島に船が着くまで、若者はこの甲板から動けない。対戦相手にチェックメートをかけたような気分になった。
若者が振り返った。その目にはさっきまではなかった命が宿っていた。睨みではなく、相手の心を貫く真っ直ぐな、悪を許さない正義感が宿った目だった。さっきまでの能無しのチンピラとはまるで別人だった。
若者の答えが、初老の男の嫌な予感を的中させて、形勢を逆転させた。
「池田鉄だろ、アンタ?」
若者はゆっくりと、初老の男の名前を力強く呼んだ。初めて日本語らしいなまりで話したので、別人だろうか?池田はそう思った。
どうして自分の本当の名前を知っているのか?どうして自分がここにいる事を知ったのだろう?どうやって自分を探したのか?何を求めているのか?
頭痛が激しくなり、言葉が口から出てこなかった。
そしてまだ池島に着いていない事に気が付いた。むしろ池島はさっきよりも小さく見えた。急に胸が縛られるような感覚に襲われた。頭の中では疑問が飛び回っていて、最初に捕まえた質問を口から吐き出した。
「お前さん、何故俺の名前を知っておる?」
震える歯を食いしばって若者の返事を待った。
「アンタの事は何でも知っていますよ。3年前の8月から、恐喝や殺人という手段を使って、地所やカネや企業や資源を依頼者の懐にもたらすような事をやってますね。邪魔者がいれば口を防ぐ。ハリウッドから飛び出してきたような人なんです、アンタは。有名人は顔を変えても無理なんです」
船のエンジンの音が急に止まった。そして船が海を裂く音が無くなった。船は波に流される
ままの状態となった。
「だから、さっきのアンタが警官だって話、笑いそうになって大変でした・・・。あ、それと、落ち着いてください。この船を操縦しているの、私の仲間なんです。気づきませんでした?」
池田の頰の筋肉がピクピク動いていた。次の答えを口の中で転がしていたが、すぐに溶けて無くなってしまった。
「俺の事をどこで聞いた?」
「それは言えませんね。アンタは一生知らないままです」
何度も聞いたが若者は答えな買った。
池田は後ろに引き下がりたい気持ちだった。いや、海に飛び込みたかった。しかし、逃げ場がないということは分かっていた。首の毛が立ち、握った拳の中には汗が浮かんだ。そして虎のようなビームを放つ若者の目から目が反らせない。
池田は精一杯、笑顔を作った。考える時間が欲しい。
「お前さんは警察か?」
若者は首を横に振ってこう答えた。
「情報局に勤務していましてね、情報局はアンタとの交流を求めています」
池田の目が大きくなった。この展開について行けず、すぐに言葉が出てこない。
「私はアンタを逮捕する役目ではない。アンタと話をするのが仕事だ。アンタが関わっている池島の犯罪組織の情報が欲しい」
以前、池島の犯罪仲間が言った事を思い出した。「俺らの生活が誰かに潰される日は必ず来る」。言われるまでも無くそんな事は承知していた。
しかし、それが今日来るとは想像もしていなかった。今日、人生が変わろうとしている。今日、潰されようとしている。いや、とっくに潰されていて、自分は気づいていなかったのか?
人生という電車が勝手に進路を転換して、自分が知らない方向、それか終着駅に向かい始めているような気分だった。
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