朝顔の恋
葉月あや
第1話
ドアを開けると、まだひんやりとする朝の空気がわたしを包み込んだ。
息を深く吸い込んで、朝の香りを身体中に満たし、スニーカーのひもを締め直した。
さて、いこうかな
と、走りだそうとして気づいた。
玄関わきのプランター、今年初めての朝顔が二輪、咲いている。
「そっか、もう六月だもんね」
誰に言うでもなくつぶやく。
いつもと変わらないようで、実はいつもと違う色の朝を感じながら、わたしは走り出した。
毎日見る顔ぶれと軽く会釈しながらすれ違い、ほっとするのはいつものこと。
少し息が上がりはじめ、呼吸を意識し始めるのは角の公園、これもいつものこと。
と安心しきっていたせいか、足に衝撃を感じたと同時に、地面が迫ってきた。
ころんじゃう!
かろうじて手をつき、顔面が地面に衝突するのは防いだけれど、膝がジンジンと痛む。
ついた手のひらも、石がこすれてひりひりする。
そしてものすごく恥ずかしくて立ち上がれない。どうしよう。
そんな思いが頭の中をぐるぐる巡って、顔も上げられず下を向いていたわたしの目の前に、大きな手が差し出された。
同時に
「大丈夫ですか?」
と、耳と身体に心地いい声が響いた。
顔をあげると、いつも同じ時間にすれ違う男性が心配そうな顔をして、わたしに手を差し伸べていた。
心臓がドキリ、と音を立てて動く。
「ありがとうございます」
自分でも驚くほどに震える声でお礼を言い、手を伸ばした。
長くて少し骨ばった指と大きな手のひらに右手を包まれ、痛む膝をかばいながら立ち上がった。
「膝から血が出てる、歩ける?」
なおも心配そうな顔で、彼は尋ねた。
「大丈夫です、かすり傷ですから」
痛みに顔がゆがまないように、笑顔で答えた。
ただ毎日すれ違うだけの彼。
それがたった今、特別な人になってしまった気がする。
そんな落ち着かない気持ちを抱えて痛む膝をかばいながら家につき、誇らしげに咲いている朝顔を一輪だけ手折って部屋に入った。
簡単に消毒をして、先ほど手折った朝顔を眺める。
今年初めての朝顔が咲いた朝、今年初めての恋をしたみたい。
足元から、朝顔のつるがやんわりと、でもほどけないように複雑に絡みついてくる感覚。彼への恋心にとらわれてることを思い知らされた気がした。
夕日が沈むころ、心に絡みついたつるから逃れたくて、外に出た。
朝とは違う生ぬるい空気が体にまとわりつく。
それを振りほどくように、わたしは歩き出した。
自然と足は今朝転んだ場所へと向かう。
あとすこし、というところで息が止まりそうになった。
例の公園に彼がいたのだ。
もしかして運命、と、さらにつるに強く絡みつかれた感覚に襲われた次の瞬間、体に強く絡みついていたそのつるが、ぱらぱらと解けた(ほどけた)のがわかった。
彼の隣で優しく微笑む女性に気づいたからじゃない。
彼がその女性のおなかをいとおしそうに撫でていたのを見てしまったから。
気づかれないようにそっとその場を離れ、来た道を引き返した。
胸をぎゅっとつかまれたみたいで、息苦しかった。
来た時よりずっと生ぬるく感じる空気が気持ち悪い。
早く帰りたかった。
胸の奥から何かがこみ上げそうになるのを必死で抑えた。
朝顔のつるから開放されて軽くなったはずの足を引きずりながら、ただひたすら、家に向かった。
やっと家に着いた、これで気持ちを開放できる…
ドアノブに手を伸ばしながらふと玄関先の植木鉢に目をやると、朝には大輪の花を咲かせていた朝顔が、しおれてみじめな姿をさらしていた。
朝顔の恋 葉月あや @hazuki21_aya
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