崖っぷちの鷲使い

TARASPA

第001話 旅立ち

コンコン


 小鳥がさえずる爽やかな朝。とある屋敷の一室にノックの音が鳴る。


コンコン


「坊ちゃま、朝でございます。そろそろ起床して支度せねば勉学の時間に遅れますよ?」


 催促するような若い女の声に部屋の主は応えない。彼が言葉の代わりに発したのは、耳を塞ぐようにして被った布団が衣擦きぬずれする音だった。


コンコン


コンコン


 部屋にノックの音だけが空しく響く。少年と少女による無言の攻防……そして少女は小さな溜息を吐き、ピッキングツールを取り出した。


「失礼します」


 一瞬で開錠した扉を開き、少女は迷いのない足取りで白く盛り上がったベッドへと向かう。


「失礼します」


 そして少女は一切加減をせずに布団を奪い剥いだ。そして部屋の主にアイアンクローをお見舞いする。


「おはようございます、坊ちゃま。ちゃんとお目覚めになりましたか?」

「ああ、おかげさま最悪の目覚めだよ、クソメイド」


 ギリギリと鳴るのは少女の指か、はたまた少年の食いしばった奥歯か。いずれにせよ、いつも通りこの屋敷の一日が始まった。




「あー……飽きた」


 そう言いながら筆を投げたのはアルト・ホワイトテイル。ヒューマの国ラーリットを統治する十貴族の一つであるホワイトテイル家の次男坊である。


「坊ちゃま、始まってからまだ数分しか経っておりません。いつまで寝惚けているのですか?」


 メイドの少女、カエデ・スチュアートは年相応のあどけない笑顔のまま右手をワキワキしている。


「おい、その手はやめろ。メイドというのは普通もっと主人に対して敬意を持って接するものだろう? お前はその点についてどう考えているんだ?」

「メイドが主人に敬意を払うのは当然のことです。ですが私はアルト様のお世話係兼教育係でもあります。アホで未熟なアホ主人を矯正するためにも、時に厳しく接することもあるのです」


「お前は常に厳しいがな。まるで嫁いびりを生き甲斐にしている性根の腐った鬼ババアのようだ」

「まったく……坊ちゃまは本当に冗談がお上手ですね。ですが可憐な乙女に向かって鬼ババアはさすがに傷付きますよ?」


「可憐な乙女? そんなものがどこにいる?」

「おやおや、どうやら坊ちゃまはまだ寝惚けまなこのようです。ここは一発キツイのでお目覚めになってもらわねば」


「ハハハハハ」

「ウフフフフ」


 笑い合ってはいるものの形勢は明らかに主人の方が不利であった。


 通常ではありえない主人と従者のやり取り。しかしこのホワイトテイル家においてはこれが日常の風景である。ただ少しいつもと違ったのは、アルトの不満が彼の限界を超えそうになっていた点だ。


「ハア……しかし毎日毎日同じことの繰り返し。いったい兄貴は俺をどうしたいんだ? 当主の兄貴ならいざ知らず、次男の俺を鍛えたところで何になるってんだ」


 少年の愚痴は止まらない。それはもうメイドの少女が口を挟む間もなくジャバジャバとあふれ続ける。


「俺が兄貴のスペアってのは理解しているさ。父さんも母さんも死んで、今ホワイトテイル家は兄貴と俺と妹の三人だけだからな。だがそれでもここまで俺が縛られる意味がわからない。十貴族と言ってもウチは末席の木っ端貴族だ。最悪潰れても国に大した影響はないだろう。使用人含め俺たちは苦労することになるだろうが、それは今の苦労と比べてそこまで差があるだろうか? 贅沢は一切せずに国と領民のため働いている兄貴は立派だと思う。だがそれは幸せか? 俺は……俺はそんな生き方は絶対に嫌だ。俺はもっと自由に生きていきたい」


 この時点でメイドは言葉による慰めを諦めた。少女と少年は長い付き合いだ。憎まれ口を叩き合いながらも、互いのことはよくわかっていた。


「わかりました。でしたら今日は見聞を広めるために市井しせいへ出掛けてみましょう。クロード様の許可は私が取って来ますので、坊ちゃまは出掛ける準備をしておいて下さい」

「……いいのか?」


「このまま無理に続けては坊ちゃまが爆発してしまいそうですからね。それに外に出て、実際に触れてみて初めてわかることもあるでしょう。それに私も坊ちゃまには行動力の欠けた頭でっかちになって欲しくはありませんから」

「カエデ……お前は本当に男前だな」


「それは女性に対する褒め言葉ではありませんよ」


 そう言いつつも、メイドは主人から頼りにされているこの状況は満更でもなかった。それはまるで出来の悪い弟に頼られて少し嬉しい姉の気分。なんだかんだ言いつつも、メイドは主人のことを大切に思っていた。




「ではまず港町へと行ってみましょう」


 屋敷の門前で旅支度を整えたカエデがアルトに決定事項と言わんばかりの口調で告げる。

 彼女の服装はキャスケットにロングマント。マントの中には革のショルダーバッグを忍ばせ、腰には細剣が携えられていた。

 少し年季の入った眼鏡を掛けているせいか、その様はどこか草臥くたびれた旅人という雰囲気を醸しており、凹凸の少ない体型も相まって女性らしさというものは完全に鳴りを潜めていた。


「その心は?」

「王都に次いで人の出入りが激しく活気があるからです。それにヴェルの好物である魚がありますから」


 魚と聞いて大きく翼をバタつかせるのは、アルトの腕にとまっている大鷲だ。

 大鷲はホワイトテイル家の象徴である。ヴェルと呼ばれるこの鷲は代々ホワイトテイル家で飼っている魔物で、ホワイトテイル家の血を受け継ぐ者はそれぞれ一匹ずつ鷲の魔物を従魔としていた。


「なるほどな……ってコラ、ヴェル。嬉しいのはわかったから暴れるな」


 騒ぐ大鷲を片腕にとまらせたまま落ち着かせたアルトは、その成長しきっていない見た目のわりに腕力があった。

 服装も旅人のようなカエデに比べてゴツゴツした戦士風で、その体格の良さから実年齢よりも大人びて見える。そしてそのガッチリした体型がカエデの密かな目の保養となっているのは乙女の秘密だ。


「よし、ならさっそく出発だ」

「出発の挨拶をしなくてもよろしいのですか?」


「兄貴は気にしねえだろうし、ルチルは騒ぎそうだからこのまま出発する。せっかくの門出に水を差されてたまるかよ」

「ハア……わかりました。ルチル様、お可哀そうに」


 腰にある剣含め持ち物は全てどこにでもあるような安物だったが、その時のアルトにとっては些細なことであった。彼の心は旅に出られるという喜びの感情で満たされていたからだ。


「いざ出発!」




「行かれてしまいましたね」

「ああ」


 屋敷の二階の窓から旅立つ二人を見つめる影が二つ。一つはホワイトテイル家の現当主であるクロード・ホワイトテイル。もう一つは代々ホワイトテイル家に仕えるスチュワート家の長男ヤナギ・スチュワートである。


「寂しくなります」

「うるさいのがいなくなって仕事がはかどるな」


 クロードは言葉こそ毒づいているものの、それが本音でないことはこの屋敷に住む者なら全員が知っている。ヤナギもそれを知っているためか、主人を見る目はどこか生暖かい。


「ルチル様は落ち込まれるでしょうね」

「……何かあれば俺もフォローする。しばらく注意して見てやってくれ」


「かしこまりました」


 ホワイトテイル家の末っ子であるルチルは控えめに言って甘えん坊だ。特に次男のアルトとその従者であるカエデには非常に懐いていた。

 そんな二人が旅立ったことを妹が知ったら、泣き叫んで許可を出したクロードを非難することだろう。


 そんな近い未来を想像してクロードは憂鬱になる。しかし、クロードも伊達や酔狂で弟を旅立たせたわけではない。


「タイミングは今しかない」


 傍から見れば無知で愚かな次男坊……しかし長男は期待する。弟がこの崖っぷちに立たされたホワイトテイル家を救う存在に成長して戻ってくることを。

 それまでは自分が守ってみせる。クロードはそんな強い決意をしながら、今は何も知らないであろう弟の背中を静かに見送った。

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