願わくばキミと一緒に

ミコトバ

願わくばキミと一緒に

 朝起きると、彼女の眼は赤く泣き腫れていた。寝ぼけた目をこすっておはようと挨拶した時、そんな彼女の顔を見て一気に目が覚めた。何があったのか聞く前に昨日の出来事を思い返していると、久々に映画を観に行ったことを思い出した。普段ニコニコ笑っている女性だから、感動して泣いている姿を見るのは新鮮だった。二人とも会社の健康診断があって前日の夕飯が食べられず不機嫌だったけれど、そんなことも忘れて楽しく過ごせたのはよかった。

「あの映画、思い出しただけで泣けてきちゃって」

彼女はそう言って笑った。


 

朝起きると、彼女は髪をバッサリ切っていた。僕は仕事が休みで昼間までぐっすり寝てしまっていたが、どうやら彼女は早々に起きて美容院に行ったらしい。彼女と付き合っている僕でさえ失恋したのかと疑うほど、思い切った散髪だった。

「そろそろ熱くなるから切っておきたかったの。似合うでしょ」

四月初め、まだ肌寒さの残る季節だというのに。



朝起きると、彼女は髪形をスキンヘッドにしていた。あまりの変わりように僕は彼女を質問攻めにした。どうしてそんな髪型にしたのか。最近よく出かけているのはどこへ行っているのか。まさか他に男でもできたのか。隠し事をしているんじゃないか。余裕のない僕とは裏腹に彼女は冷静で、けれど最後の質問にだけは歯切れ悪く答えていた。

「好きなハリウッド女優がスキンヘッドにしてて、それが格好良くて真似したの。私なんでも似合っちゃうから」

彼女は邦画しか観ないのに。見え透いた嘘をついた彼女は、ゴホゴホと咳をすると洗面台に行ってしまった。そういえば最近痩せたような気がする。



 朝起きると、彼女が消えていた。机の上に一枚の書置きが残されていた。

『突然いなくなったりしてごめんなさい。あなたのこと嫌いになったわけではないの、それだけは信じてほしいです。あなたは優しいから、本当のことを話せば私を目一杯怒られると思うので、旅に出たとでも言っておきます。ありがとう。大好きです。死ぬほど大好きです』

最後の一文は文字が滲んでいた。どうして彼女が姿を消したのか、理由は全く分からなかった。けれどここ最近の変化に気づいていないわけではなく、何かが彼女を不自然と思われる言動へと駆り立て、僕のもとを去っていくまでになったのだ。書かれていた大好きという言葉が嘘でないのなら、これが彼女の本意でないのなら、もう一度会って文句を言わねばなるまい。望み通り目一杯怒って、理由はどうであれ抱きしめてあげたいと僕は思った。



 彼女の変化で顕著だったのは身体の衰弱だった。日常的に咳き込んだり疲労感を見せるようになっていた。頭髪の変化もその何かを隠すためだと考えれば納得はいく。恐らくは病を患いその症状が出ていたのだろう。ドラマや映画でしか医療の知識を得る機会がない僕でも、病気と頭髪で辿り着く明確な結論があった。がん治療の副作用。物語において化学療法を行う際、その後遺症として強烈な吐き気や脱毛症状が描写されるのは少なくない。こんな幼稚な推理で彼女に起こったことを突き止められるはずもないと思っていたが、事実は大抵小説よりも単純だ。僕はこの推測だけを頼りに、近隣の病院を片っ端から尋ねてみることにした。

 まさかその当てずっぽうが的中するとは思わなかった。彼女の名前を見つけたのは、二人で住んでいたアパートのある町から三駅先にある総合病院だった。受付で必死に彼女との関係や病院を訪ねた経緯を話し、病室を教えてもらうことに成功した。はやる気持ちを抑え、呼吸の乱れを感じつつ教えられた病室へ向かった。病室の前には確かに彼女の名前が書かれたプレートが掛けられていた。僕は大きく深呼吸をし、取っ手に手をかけてゆっくりとドアを開けた。四人の患者が入る病室だったが、姿が見えたのは一人だった。ドアが開いたのに気づいてこちらを見た彼女は目を丸くして僕を見つめていた。僕は彼女のもとへ歩み寄った。僕がベッドの横に辿りつくまで微動だにせず、横にある椅子に座って改めてそこに僕がいることを確認して彼女はようやく口を開いた。

「な、なんでここにいるの」

幼稚な推理をあてにしたら見つけたんだ、とは言わなかった。僕はとにかく彼女の現状を知りたかった。

「君は、がんなのか」

そう訊くと彼女はまた押し黙った。僕から目線を外し、すっかりやせ細った腕を見つめていた。

「わからないんだ。健康診断の結果はお互い見せ合って、こんなに健康なら百歳まで生きられるって。そう言って喜んだじゃないか。それがなんだって入院なんかして、そんなに具合も悪そうに……」

彼女はまだ黙ったままだった。僕は一つため息をついて、今度は彼女の手を握った。骨ばった感触に胸が痛んだ。彼女は僕の顔を見た。

「君がこのまま話さなければ何もわからないし、僕は黙って帰るしかない。君は本当のことを言えば僕が怒るって言ったな。ああ怒るさ、勝手にいなくなって、勝手に入院して、それで勝手に……。だったらせめて怒らせてくれよ。それしかできないから、きっと僕には」

いつの間にか彼女の手を握る力も強くなっていた。それに気が付いて慌てて離すと、それで張りつめていた糸が緩んだみたいに彼女は泣きだした。病室中にその声が反響して、聞きつけた看護師さんが慌てて入って来たけれど、僕は彼女を抱きしめ続けた。こんなになるまで悲しみをため込むには、彼女の体はあまりに軽くて小さかった。



 彼女が語ったのはあまりに非現実的で、不可思議で、理解しがたくて、けれど本当の話だった。

「健康診断のすぐあと、おじいさんが近寄ってきたの。死神だって名乗ってた。頭のおかしい人だと思ったけど、あなたや私のことを全て知ってて、もうすぐ死ぬ人間がいるといって指差した先で交通事故が起こったの。それで信じた。そして死神は……あなたが数日後に交通事故で死ぬって言った。これは何もしなければ変えられない運命なんだって。私は泣いて頼んだの、あなたを助けたいって。そうしたら寿命の対価を払えばいいって言われたの。私の寿命を、あなたに捧げればいいって。今すぐ死ぬか、ゆっくり死ぬか選ばされた。さっさといなくなっちゃえばよかったのに、あなたに会えなくなるのが悲しくなって病死にしちゃった。それで死神はいなくなって、すぐに怖くなって悲しくなってわんわん泣いちゃった。でも明るくいようって思った。あなたとどれだけいられるか分からないけど、泣いて過ごすのなんてごめんだもん。ごめんね、勝手で。わがままで。でも生きていて欲しかったの。私がやっと好きになれた人だから。死ぬほど好きな人だから。本当に死んじゃうのはやりすぎだけど、でもこうやってまた話せたのが嬉しい。書置きなんて残したけど、泣いちゃったら台無しだよね。……ほんとにごめんなさい。もっと話したいし、遊びたいし、イチャイチャしたかったけど病院だからできないかもね。あなたは優しいから自分を責めちゃうかもしれないけど、ダメだよ。私はあなたのために死ぬんじゃなくて、あなたと一緒に生きることにしたんだから。あ、そうだ。最後に約束。これ以上わがまま言わないから聞いてよ、ね。もし私が死んじゃうってなったら、その時は泣かないで笑って見送ってよ。私はほら、あなたの寿命になって帰ってくるから。さよならじゃなくて、またあとでってこと。そう考えるとステキでしょ。でもまだまだ時間はあるから、目一杯楽しく過ごそうよ。しんどい姿とか見せちゃうかもしれないのはすごい嫌だけど、近くにいてくれれば平気だと思うから」

 本当に勝手だ。僕に何も言わず、こんなことして。でも僕は怒れなかった。最期に泣けないなら、今泣いてしまうしかないじゃないか。彼女は笑いながら僕をはたいた。男がめそめそするなって、笑いながら泣いていた。



 それから一年半後、彼女は息を引き取った。会話も困難になるほど衰弱して、今夜が峠だと医者に言われてからずっと病室にいた。彼女は薄く目を開いて、必死に生きようとしていた。でも握った手から伝わる生気は明らかに薄れていって、朝日が昇るころには目を閉じていた。日の差し始めた病室で、僕はぽつりと呟いた。

「おやすみ。お疲れ様、またあとで」

口を閉じ、口角を上げて笑顔を作って見せた。ああ、でもダメだった。どうしても目から頬を伝う涙は止められなかった。あの時の君と同じだな。僕は彼女を笑顔で、泣きながら抱きしめた。



 あなたが大好きでした。これまでも男の人と付き合ったことはあるし、あなた以上に長く一緒にいた人もいた。だけど「死ぬほど」好きになったのはあなたが初めてで、あなただけでした。どうか泣かないで。私は今でもあなたの心臓となって生きています。長生きをしてください。良い人を見つけて、結婚して、子どもも作って、生きてください。

「なんだ、私達どっちも健康過ぎたね。これじゃ一生このまま二人で過ごすことになるかも」

そんなこと言って笑い合ったことも、忘れちゃうかもしれません。それでも、それでも私は幸せです。あの小さな病室で話した他愛もないこと、とても覚えていられないようなどうでもいい話が、幸せでした。あなたが帰った後にこっそり泣いていたのは秘密です。きっと気づいていたのかもしれないけど、あなたはずっと笑って傍にいてくれました。でもやっぱり最後は泣いちゃったね。無茶言っちゃったけれど、ずっと約束を守ってくれたあなたに感謝します。心の底から、愛しています。

「うん、おやすみ」

聞こえたかな、聞こえなかったかな。

ああ、消えちゃう。見えなくなっちゃう。その情けない泣き顔も、優しい声も。嫌だなあ、この手の温もりも覚えていたかった。

私は愚かだったのかもしれません。あなたもそう思っていたかもしれません。でも許してね。私は幸せで、あなたも幸せだったでしょ?

……死に際というのは案外あっさりしているんですね。走馬燈なんてなかった。思い出したのは、あなたと過ごしてからのことだけでした。それが、全てだったのかな。それじゃあ私はそろそろ寝ます。あなたの腕枕が好きだったから、今日もゆっくり寝られそう。またね。がんばって生きてね。

「またあとで」

あなたの声が聞こえた。これ以上ない、最高の見送りだった。私はそっと目を閉じて、呼吸を止めた。

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