休日
夕食後にお酒を楽しむお客も徐々に減り、娼婦を扱っていないこの店の客はセレリアとアイナだけになっていた。
「だいぶ長くなってしまったわね。今日はここまでにしましょう。次の機会に続きを話すわ」
空になったコップを持ち上げ、セレリアはつい口をつけてしまう。
口に何も流れてこないのでコップが空なことに気付いたが、長話をして喉が渇いたけれど、遅いことだし、注文せずに宿舎に戻って水でも飲むことにする。
セレリアの向かいに座るアイナにも、酔いが少し表情に出ている。
やはりそろそろベッドへ向かった方がいいだろうとセレリアは感じていた。
「ありがとう。……ヒューゴは良い人達に助けられたのね……良かったわ」
「そうね。強運だと思うわ。命が助かったことも、助けられたのがベネト村の人達だったこともね。でもヒューゴは頑張ったと思うわよ。ベネト村から上って勾配がキツいのよ?」
「……頑張ったのね……」
二人は話を終え、またねと挨拶し、それぞれの寝床へ向かう。
通りは相変わらず賑やかだけれど、セレリアとアイナの気持ちは穏やかだった。
・・・・・
・・・
・
翌朝、昨日とは逆に、いつもより少し遅めにヒューゴは目を覚ました。と言っても、セレリアかヤーザンから連絡が来るまで、特に予定があるわけではない。
ベネト村に居れば、リナの家事の手伝いや、鍛冶仕事の道具の掃除などもあれば、パリスやラウド達と訓練したりと、予定がなくてもやることはいつもあった。
考えてみると、休日であろうと何もすることがない状況は、物心ついてから初めてのことかもしれない。
ヒューゴは、意外な事実に気付き、少し感動していた。
――だけど、やることがないというのも落ち着かないものだな。
世間では貧乏性と言われる性質だが、ヒューゴの場合は、誰かの役に立つことでしか生活を許されなかった
――たまには、ラダールの背や腹を撫でてあげようかな。そして、陽が高くなったら、水浴びでもさせてあげよう。
ベネト村でなら、ラダールは家の裏手にある池で、好きな時に水浴びできた。しかし、ここには水浴びできるような川や池など近くにはない。多少離れた場所まで行かなければならない。
指示しておけば、好きな時に勝手に水浴びに行くだろう。だが、せっかくの休み。たまには付き合うのも悪くないとヒューゴは考えた。
昨日、ラダールが捕えた鹿三頭を売ったから、この通りの店が今日明日肉に困ることはないだろう。
一頭、銀貨十五枚で売れたので、今のヒューゴの懐は温かく、今夜もアイナと夕食を楽しめるだろうと想像する。
――じゃあ、ラダールを呼ぶ前に、洗濯しておくか。
ベッドから起きて衣服に着替え、昨日まで着ていた服を手に持った。
宿で洗い桶を借り、井戸で水洗いしていると、アイナも起きてきた。
「ヒューゴ、おはよう。洗濯?」
「おはよう。そうそう、時間があるときにやっとこうかと」
ヒューゴの横にしゃがみ、その手際を見ている。
「慣れているのね」
「……このくらいはね……、ちょっと待っててね。干してくる」
宿へ戻り、洗濯物を椅子にかけた。
こうしておけば今日中には乾くだろうと、まだ水気をたっぷり含んでいる衣服を見る。
そして、宿を出て井戸のほうを見ると、アイナは両手を広げて深呼吸しているようだった。
ヒューゴが近づくと、うーんと声を出して腕や足を伸ばしていた。
「今日は気持ちいいわね」
「そうだね」
白い雲が流れ、初夏の日射しを程よく隠す、過ごしやすい陽気だ。
そよぐ風は、アイナの黒髪を揺らすほどは強くない。
「ヒューゴは今日は何をするの?」
「ラダール……あ、ラダールというのは、ドラグニ・イーグルというドラグニ山だけに住む大きな鷲なんですけど、ラダールを水浴びさせようかと思っていました。あとで紹介しますね。僕の相棒なんです」
アイナは、首を傾げて周囲を思い出し記憶を探る。
「でも、この辺りに鷲を水浴びさせられるようなところあったかしら?」
「水浴びできる場所まで一緒に行くんです。背中に乗って……」
「……ヒューゴが乗れるほど大きいの?」
「はい、近場なら、僕とアイナさんの二人なら乗っていけますよ?」
「え? そんなに大きいの?」
ヒューゴと同じ黒い瞳を、アイナは大きく開いて驚いている。
目の前に居るヒューゴは、もう立派な成人男性で、締まった筋肉質の身体は平均的な兵士と比べると大きい方だ。アイナは女性の平均的な体格だが、ヒューゴとアイナの二人を乗せられる大きさで、乗せたまま飛べる鷲となると、相当巨大な鳥だろうということくらいしか想像できない。
そして鷲は肉食ということくらいは知っているので、アイナは怖いと感じていた。
「はい。十歳くらいなんですけど、これからまだ大きくなるらしいです」
「……」
まだ見ぬラダールを想像し、アイナは固まっている。
その様子を見て、これは怖いんだなとヒューゴは察した。
実際、ラダールを最初に見たベネト村の人達も怖がっていたから不思議ではなかった。
だが、大切な
「怖くないですよ? 普段は大人しいですし」
「本当に?」
「ドラグニ・イーグルは、もともと人を襲わないんです。ラダールは、僕の命令があれば攻撃しますけどね」
「そう……少し安心したわ」
「紹介したとき、喉やお腹を撫でてあげてください。目を細めて喜びますので」
「ヒューゴが大丈夫と言うのだから、危なくはないんだろうけど、ちょっと怖いわ」
「あはは、すぐ慣れますよ。じゃあ、呼びますので、向こうに行きましょう」
通りの外を指さし、ヒューゴはスタスタと歩き出す。
やはり少し怖い気持ちを残しつつ、アイナはヒューゴの後についていった。
建物がだいぶ小さく見える場所まで離れ、ヒューゴは片手を口元に寄せ、そして指笛をピィィィイイ……と鳴らす。
その甲高い音が止まる。
「ラダール! 来て!」
ヒューゴは、上空を眺めながら相棒を呼んだ。
アイナはヒューゴの背後で、その様子を見守っている。
やがて、小さな点が上空に近づいてきて、近づくにつれて翼を広げた鳥の姿になる。
そして、ヒューゴの前へ舞い降りてきた。
「ラダール、今日は僕の大事な……姉さん? 家族? まぁいいや、とにかく大事な女性を紹介するよ」
アイナの横に歩いて、
「アイナさんだ。本当に僕の大事な人だからね? 仲良くしてくれよ? そして、アイナさんが危ないようだったら、助けてあげて欲しい。頼んだよ?」
キュゥゥウウと細い声で鳴き、ヒューゴとアイナの前で足をたたんで座り身体を丸めた。
ヒューゴの頭より大きな薄い黄色のくちばし、アイナを見つめる鋭い瞳、お腹の部分は白いけれど、全身がほぼ漆黒の羽で覆われている、人の何倍もの巨大な身体、人の腕ほど太い鋭い爪。
人が怖がるには十分な姿をラダールは持っている。
だが、ヒューゴが言う通り、攻撃するような素振りはなく、身体を丸めた姿は、可愛らしいと言えなくも無かった。
「あはは、良いぞ。判ってくれたんだね? あとで、水浴びに一緒に行こうな」
身体を丸めたラダールの頭から喉にかけてを、ヒューゴは優しく何度も撫で、嬉しそうに言葉をかけている。
その様子を見るアイナの表情も和らいできていた。
ユーゴの横に進み、恐る恐るといった感じだが、アイナもラダールの胸の辺りに手を当てる。
――温かい……そうね、考えてみれば、動物は無紋だからと言って特別に嫌ったりしないわよね。ヒューゴも私も、紋章の有無など気にしないで付き合える。人間を相手にするよりよほど安心していられるんだわ。
「ね? ラダールは大人しいでしょ? じゃあ、ラダールの水浴びに行こう」
「……そうね……一人だったら怖いけれど、ヒューゴと一緒なら」
ラダールの首元に堅く回されているロープをヒューゴは弛める。すると、次にヒューゴがどうしたいのか判っているように、ラダールは首を下げて姿勢を低くした。
「僕が先に乗るから、アイナは僕の手を掴んで乗ってね?」
何度も乗って慣れているとわかる動きでヒューゴは軽々とラダールの背に乗る。そしてアイナに手を差し出した。
アイナは、出されたヒューゴの手に掴まる。ヒューゴはもう片方の手でアイナの手首を掴んで、グイッと自分の背側に持ち上げ乗せた。
あまりに軽々と持ち上げられたので、アイナは驚く。
首の太さや肩周りの肉の付き方で、ヒューゴは確かに鍛えていると判る。だが、大男のような腕をしているわけではない。今まで相手にしてきた兵士の腕より一回り太い程度。アイナを軽々と、それもラダールに乗っていて不安定な体勢で持ち上げるほど力があるとは想像していなかった。
「すごい力持ちなのね」
「鍛えたからねぇ。でも、他にも秘密があるんだけど、それはいつか話すね。さあ、僕にしっかりと掴まっていてね? 上に上がったらそうでもないんだけど、上昇してるときはちょっと不安定になるからさ」
ヒューゴの腹部に両腕を回し、アイナはしっかりと掴まえた。
「じゃ、アイナ、行くよ。……ラダール、できればいつもより優しく飛んでくれ! そして、おまえのお気に入りの水浴び場まで連れて行ってくれ!」
ヒューゴの言葉が終わると、バサァッと大きな黒い翼を広げて一瞬身体を沈めた後、ラダールは地面を力強く蹴った。
ヒューゴの背中の陰で直接当たるわけではないが、勢いのある風がアイナの顔をこする。
目を閉じたまま、ヒューゴにしがみつく。
やがて、上への動きが横に変わったとアイナは感じ、閉じていた瞳を開ける。
そこには、広い荒野、広い草原、そして、遠くの海があった。
「ヒューゴ! これは素晴らしいわね!」
世界が全て眼下に広がっている。
どれほどの高さを飛んでいるのか? それはアイナには判らない。
そして、まるでアイナに世界を見せているように、ラダールは左右にゆっくりと移動しつつ宙を舞っている。
自分でも想像できなかった興奮をアイナは感じていた。
「凄い、凄いわ!」
興奮するアイナとヒューゴを乗せて、ラダールは海側にある一つの山へ向けて飛行していった。
……その日の夕食時、子供のようにはしゃいで、空から見た世界の素晴らしさをアイナは、嬉しそうに微笑むヒューゴに語り続けた。
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