瀕死の少年(その二)

 ベネト村があるここドラグニ山は、ガン・シュタイン帝国とルビア王国の境にある。

 今から三百五十年前、帝国歴二百五十年に、セリヌディア大陸を統一していたウル・シュタイン帝国が幾つかの国に分裂した。

 それ以来隣接する両国はしばしば衝突している。

 どちらかの国が攻め入ろうとすると、ドラグニ山がある山脈を越えるか、セリヌディア大陸の東西をつなぐヌディア回廊を通過するしかない。

 実際、グレートヌディア山脈を越えて攻め入ろうと考えた者は、ルビア王国でもガン・シュタイン帝国でも居ない。馬に乗らず、武器や防具を全て外してやっと越えられるかどうかという厳しい山々であり、そこに魔獣や幻獣が居るのだ。

 山越えでの侵攻は事実上自殺行為でしかないと考えられていた。


 交易商人など両国を行き来する者も同様だ。

 

 ドラグニ山がある山脈……グレートヌディア山脈は古くから霊域とされ、大陸中の者にも知られている。

 山脈にある多くの山の中でも、南グレートヌディア山脈最北最高峰のドラグニ山は、

『龍神が眠りについている山』

『立ち入ることを認められた者以外が入ることは許されない』

 とされ、民間人は滅多に近づかない。せいぜい物好きな商人くらい。

 なので、山に入ってまでの交流はほとんどない。


 山を下りたところにある五軒程度の集落……ベネト村の者が交代で滞在しているバスケットと呼ばれる集落……で、山の者達と外の者達が交流し、物資の売買や情報の交換が行われている。

 グレートヌディア山脈のルビア帝国側は切り立った崖ばかりなので、派出所には平地側となるガン・シュタイン帝国側からのみやってくる。


 だから、ドラグニ山の中で出会う人はベネト村の住人ばかりで、見知らぬ者と出会うことなどとても稀なのだ。 

 パリスに見覚えがないというのだから、小屋の中に居るのは村人ではないのは確かだ。

 ベネト村の住人は二千人程度。

 そして、ダビドは村長だ。

 村中の者が頻繁に相談にやってくるし、村を見回りと皆が声をかけ挨拶してくる。

 父や母がすることに関心を持ち、父が出かける時にはできるだけ付き添う機会の多いパリスなら、住民の名前は知らなくても顔くらいは知っている。


 小屋の中に居るのが村人であれば、物覚えの良いパリスは、知らない人とは言わないだろう。


「ちょっと下がっていなさい」


 ダビドは腰の短刀に手をかけ、パリスが指さす方へ向かう。


 小屋に入ると、暗闇の中、うめき声が聞こえる。

 その声のぬしは、窓のない壁に身を預け、足を床に投げ出して痛みをこらえるように腹に手をあてていた。

 多分、扉が開いたことも、パリスやダビドにも気付いていないのではないか?

 そう思えるほど、ダビド達に関心をはらっていない。

 腹を両手で押さえ、うつむいたまま、消え入りそうな声でうめいているだけだ。


「君……怪我をしているのか?」


 腰の短刀に手を添えたままダビドは近づき声をかける。

 背格好からまだ少年だろうと彼には思われた。

  

「ちょっと待ちなさい」


 返事を返さない少年から眼を話さないよう注意しつつ、ダビドは土間にある焚き火の跡に近づく。

 あの様子では意識もはっきりしていないだろうし、ダビド達に攻撃できる状態ではないだろうとダビドは感じていた。

 

 だが、大切な娘がそばにいる。少年とはいえ、素性の判らない相手に油断してはいけないと気を引き締めた。


 短刀を脇に置き、だいぶ炭になっている燃えかすの薪に、肩にさげたバッグから油を浸した布を取り出して覆い被せた。

 しゃがんで火打ち石を布の上でカンッカンッと鳴らすと、布に火が徐々に燃え広がる。


 少年はダビドの動きにもなんの反応も示さない。

 これならば……と再び立ち上がり、扉の外に置いた薪を取りにいく。

 手にした数本の薪を少し勢いが出てきた火に投げ込む。

 

 火勢があがり、かなり暗かった小屋が、明るさを取り戻していく。

 火がついた薪の一本を左手で持ちあげ、少年に近づかずにダビドは様子を見る。


 黒髪に薄い褐色の肌。

 扉から続く血の跡と少年の様子から、重い怪我を腹部に負っているのが判る。

 ダビドの耳に届く呼吸の音も、弱々しい。


「こいつはまずいな……早く治療しないと死んじまう……」

「お父さん……その子死んじゃうの?」


 振り向くとダビドの背後までパリスは来ていた。

 傷ついた少年をダビドの背中越しに覗き、心配そうに見ている。


「ああ、このままなら死んでしまう」

「助けてあげられないの?」


 一応、傷薬はカバンに入っている。

 だが、深い傷を少年は負っていて、治療に役立つかは判らない。


 ――村まで連れて行けば何とかなるかもしれないが……。


 村まで戻れば、回復魔法を使える鳥紋ちょうもんを持つ者が居る。

 母のデボラも妻のジネットも鳥紋ちょうもんの紋章を持っている。


 しかし、ダビドとパリスが持つ紋章は獣紋じゅうもん

 戦いに向いた魔法は使えるけれど、回復や治療用の魔法は使えない。

 ここで治療するには薬に頼るしかない。


「……この子の運次第だな」


 ダビドはそうつぶやいて、カバンから傷薬が入った陶器のツボを出す。

 足下にツボを置き、少年の肩に触れるとその身体はドサリと床に崩れ落ちる。

 仰向けにしようと背中に手をまわしたが、抵抗されることもない。


 ズタズタの上着の隙間から、少年の腹部を見ると何かで切った跡があり、そこから出血していた。怪我をしてからだいぶ時間が経っているようで、現在の出血はさほどではない。

 しかし、衣服の汚れから察すると、これまでにかなり流したのは判る。

 既に命を落としていても不思議じゃないとダビドは感じた。


「ちょっとやそっとの運じゃ助かりそうもないな……」


 ダビドはつぶやいて、足下のツボから灰緑色のクリーム状の薬を指ですくい傷跡に塗りつけた。

 何回か塗り、傷跡に沿って盛り上がる厚く塗られた薬の跡を見る。


「この傷だとかなり染みるはずなんだが……それすらも感じられないか……」

「お父さん。助かる? この子死なない?」


 傷口に薬を塗り終えたダビドの横で、心配そうにパリスが聞いてくる。

 

「パリス、ごめんな。約束はできない。この子が助かるとすれば……そうだな……神様かそれに近い何かの加護があれば……だな」

「私、暖める!」


 少年の横に寝転がり、自分の体温で少年の命に温かさを取り戻そうとでも考えているのか、血はほぼ止まっているものの切り傷残る腕にパリスは抱きついた。

 微かに息するだけで、いつ命を失ってもおかしくない状態の少年。

 パリスが抱きかかえても反応を返す様子もない。


 これではパリスを傷つけるどころか、動くこともできないだろう。


 ――どうする? パリスを置いて村まで人を呼びに行くか? この状態なら目を覚ましたとしても動けないだろうし、早く治療しないとこの子は確実に命を落とすだろう……。


「ああ、気が済むようにしなさい。お父さんはこれから村に戻って人を呼んでくるからね? 目を覚まさないと思うけれど、じゅうぶん気をつけるんだよ? あと、部屋をしっかりと暖めること。薪をもう少し持ってくるから、火の様子を見て薪をくべること……いいね?」


 多分、助からないとダビドは思っている。


 だが、やれることがあると思ってパリスは身を寄せている。助けたいと願って抱きかかえている。

 パリスの気持ちに応えるのも父の責務だ。


「うん、お父さん」


 強い意志を持つ瞳で頷く娘の返事を聞いて、ダビドは小屋の外へ出た。

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